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名所絶景、いい湯、いい食、いい人、道の駅から。

信長親子が非道な虐殺の限りを尽くした「天正伊賀の乱」へ。道の駅「いが」から(トイレ○仮眠○休憩○景観△食事○設備○立地◎)

大規模な殺戮をした日本人といえば、織田信長だろう。 自分が手にかけた人数はどうだかわからないが、戦だけでなく越前や伊勢の一向一揆討伐などを含め、指示して殺させた人の数で言えば、織田信長こそはおそらく日本史上で最もたくさんの人を殺した男ではないだろうか。 そんな父親を持つ次男の信雄もまた、なんらの罪のない村人や僧侶、数万の人々を惨殺した。「天正伊賀の乱」などと言われるが、勝手に攻め込んだのは信雄。支 […]

母国が侵攻され日本に来た18歳の青年が異国の国技で優勝。道の駅「関宿」で祝杯(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事◎設備△立地○)

ロシアがウクライナ侵攻を開始したのは2022年2月24日。この侵攻をきっかけに、ウクライナ中部ビンニツァで生まれ育った18歳のレスリング選手が日本にいた友人を頼って母国を離れ、2022年春から関西大相撲部で相撲の稽古を始めた。 そして12月には、安治川部屋に研修生として入門。 翌2023年秋場所で初土俵、そして今日、見事初優勝と大関昇進を決めた。 久しぶりに正統派の本当に強い力士「安青錦」が彗星の […]

稲葉良通の「頑固一徹」は、教養と信念を貫いた生き様。道の駅「パレットピアおおの」から(トイレ○仮眠△休憩○景観○食事○設備○立地○)

「頑固一徹」という言葉を耳にしたことはあるだろう。 私たちの世代なら、巨人の星の、「星一徹」。そして「一徹」を名乗る飲食店は、ラーメン店、鉄板焼き、居酒屋等々たくさんあるが、その語源、元祖「一徹」こそは、稲葉一鉄である。 稲葉一鉄はあの織田信長が一目置き、敬意をもって接した武将として知られるが、彼のその生き様に大きな影響を与えたのは、幼少時に接した二人。祖父と、快川紹喜だ。 一鉄の祖父は伊予国(現 […]

堂洞合戦、関・加治田合戦からの加治田・兼山合戦へ。道の駅「半布里の郷とみか」から(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事○設備△立地○)

富加町というのは1954年に旧富田村と旧加治田村が合併してできた中濃の小さな町だが、どちらの町も、460年前に織田信長に踏み躙られた悲惨な歴史がある。永禄8年(1565)、織田信長は関・加治田・堂洞の中濃三城を制圧するため、現在の富加町(冒頭写真)に攻め込んだのだ。 岐阜城から10Kmあまり東の犬山城をまず攻略した信長は、木曽川を渡った。信長が北上して侵攻しようとした中濃では、関・加治田・堂洞の三 […]

300が7,000を撃退した妻籠城趾、家康が中山道に設けた妻籠宿へ。道の駅「賤母」から(トイレ○仮眠◎休憩○景観◎食事○設備○立地○)

木曽氏は、南北朝の争乱期に足利尊氏に従って戦功をあげ、大吉祖荘(木曾谷北部)を与えられた。その木曽氏が、木曾谷南部にまで勢力を拡大した際に、南の「抑え」として築いたと言われるのが「妻籠城」である。 木曽氏は、15世紀中頃には木曾谷全域の支配を確立していたものと見られ、国人領主として発展。戦国期には村上、小笠原、諏訪の各氏と並んで信濃四大将と呼ばれていた。 木曽氏はその後、天文24年(1555)、中 […]

「男はつらいよ」第22作、寅さんと博の父とともに楽しんだ木曽路の紅葉へ。道の駅「大桑」から(トイレ○仮眠○休憩○景観◎食事○設備△立地○)

昭和53年(1978)、京都で下宿生活を始めた私は、ついに最後まで下宿にテレビを置かぬまま、大学生活4年間を過ごした。 テレビを観る代わりに、洋邦問わず映画ばかり観ていた、20歳のころの私。 男はつらいよ第22作「噂の寅次郎」もそのうちの一作。京都の祇園で下宿を始めた年末に映画館で観た作品だ。 長野県木曽郡、寅さんは妙覚寺で夢から覚める。 この妙覚寺はじめ、この作品では木曽路の紅葉が綺麗に撮られて […]

子どもの頃に世話になった宇津救命丸のルーツは?道の駅「たかねざわ元気あっぷむら」から(トイレ○仮眠△休憩△景観○食事△設備○立地△)

石を投げればクリニックに当たる?町の開業医はずいぶん増えて、その数10万をゆうに超え、散髪屋さんの数に肉薄している。 今もあまり医者にかからない私だが、私の子どもの頃は、腹が痛ければ「正露丸」、熱を出せば「宇津救命丸」を飲んで生き延びていたので、今のクリニックの数というのは隔世の感がある。 ところで、私が子どもの頃に飲んでいた(飲まされていた)この宇津救命丸は、江戸時代初期に創製された家伝薬で、そ […]

1ヶ月前クマに従業員が殺されて食べられた「瀬見温泉」。道の駅「もがみ」から再訪(トイレ○仮眠△休憩◎景観○食事○設備○立地○)

古くから新庄の奥座敷としてにぎわってきた「瀬見温泉」は、小国川の左岸に開けた静かなたたずまいの温泉街である。 兄・源頼朝の追っ手を逃れて奥州平泉を目指していた義経一行が発見したと言われており、義経の子「亀若丸」の誕生に加護があったという子安観音など義経主従にまつわる数々の伝説や旧跡が残されている。 そんな義経ゆかりの名湯「瀬美温泉」で、クマによる従業員襲撃事件が起こるとは。 被害者となった笹崎さん […]

水戸黄門「助さん」「角さん」の故郷へ。二人の出身地近くの道の駅「日立おさかなセンター」から(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事○設備○立地○)  

水戸藩第2代藩主徳川光圀公は「水戸黄門」と呼ばれ、昭和のテレビドラマで圧倒的な人気を博した。 私が小6の夏休みにテレビドラマは始まったが、私はすっかりハマってしまい、2学期が始まって早々、学校でみんなの前で股間を指差して「ええい、この陰嚢が目に入らぬか!」と叫んだあと今度は後を見せて「みろ肛門!」とやった。 大ウケしたが直後、先生に思い切りしばかれた、そんな思い出がある。 ちなみに、67歳にして全 […]

上杉・北条間のタイトロープを渡り切った佐野昌綱を訪ねて。道の駅「どまんなかたぬま」から(トイレ○仮眠△休憩○景観○食事○設備△立地○)

栃木県の南西部に佐野市があり、そこに唐沢山城があった。室町~戦国時代の地理でいうと、太平洋側の相模と日本海側の越後の中間点あたり。佐野の地と、唐沢山城とは、この地理的条件によって翻弄され続ける運命を辿る。 唐沢山城が越後と相模の中間点あたりにあることは、こういうことだった。北の越後から勢力をはりだす上杉氏にとってはこの唐沢山城を確保しておけば関東への侵入はきわめて楽になるし、逆に南の相模から北上し […]

国指定重要文化財が紅葉バックに3つセットで見られる西明寺へ。道の駅「ましこ」から(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事○設備△立地○)

栃木県は益子町の郊外に位置する高舘山。西明寺はその南斜面の中腹にある。 真言宗豊山派に属し、本尊は十一面観音菩薩。坂東巡礼第20番、下野第13番の札所でもある。 正式名称は「獨鈷山普門院西明寺(とっこさんふもんいんさいみょうじ)」。獨鈷山とは高館山の別名で、栃木百名山にも選ばれた益子のシンボルともいえる山だ。西明寺は全国にたくさんあって、平安時代に仁明天皇の勅願によって三修上人が開山したと伝えられ […]

珍百景「金砂城跡」からバンジーの「竜神大吊橋」へ。道の駅「常陸大宮」から(トイレ○仮眠△休憩◎景観○食事○設備○立地○)

金砂城は、常陸太田市上宮河内町の、西金砂神社あたりにあった山城だ(写真は西金砂神社本殿)。 今から845年前、源頼朝による佐竹氏「追討」での戦いがあった場所であり、佐竹氏「立て籠もり用の山城」としてよく知られている。 この場所は、城跡近くの西金砂神社が、かつてテレビ番組「ナニコレ珍百景」で紹介されていた。 まあ、珍百景に値するほど奇妙な天然の要害だから、さすがの頼朝も攻めあぐねたと言うが、結局は城 […]

男体山、といってもよく知られていない茨城県の奥久慈男体山へ。道の駅「奥久慈だいご」から(トイレ◎仮眠△休憩○景観○食事○設備○立地△)  

男体山(なんたいさん)と言えば、誰もが日光の男体山を思い浮かべるだろう。茨城県にも男体山(奥久慈男体山)があることを知る人は少ないようだ。 しかし、大子町の東南部に位置する奥久慈男体山は標高654メートルの低山だが、奇岩、怪石がつくりだす雄大な景観は奥久慈の奇峰とも呼ばれ、紅葉の季節の美しさは格別だ。 久慈川とJR水郡線と並行して北へ伸びる国道118号線を走って、常陸大宮山方町を過ぎると、一気に道 […]

武田信玄が晴信と名乗っていた時代の「瀬沢の戦い」古戦場へ。道の駅「信州蔦木宿」から(トイレ○仮眠◎休憩○景観◎食事○設備○立地○)

山梨県と長野県の県境付近を走る国道20号線。 富士見町の甲信国境には川が流れていて橋が架かっているが、ここから北にしばらく走ると瀬沢という地名となる。 ここは標高差があるところで道路がS字カーブに曲がり始め、しばらくその道を登っていくと『瀬沢古戦場』の碑がある。この碑がある場所は『血河原』とという物騒な名前がついていて、瀬沢の戦い=瀬沢合戦は、血河原合戦とも言われた。余程たくさんの犠牲者が出たのだ […]

「古賀志山」東麓の「赤川ダム湖畔」、道の駅「うつのみやろまんちっく村」からの「宇都宮餃子」(トイレ○仮眠○休憩◎景観◎食事○設備◎立地○)

栃木県宇都宮市地域では、低山を含めると、例年10月下旬~11月末くらいまで紅葉が楽しめる。 2,000メートルを超えるような標高の高い山はもう既に冬の山だが、標高1,000m以下の山などは栃木にはたくさんあって、まだまだ秋の装いだ。その低山の中でも、日本百低山に選定されているなかなかの山が、栃木県宇都宮市の西部にある「古賀志山(こがしやま)」。古賀志山(582.8m)のほか、御岳(標高546m)、 […]

宇都宮氏と那須氏が衝突した「早乙女坂」にあったのは「ドロドロの人間模様」。道の駅「きつれがわ」から(トイレ○仮眠○休憩○景観△食事◎設備◎立地○)

天文18年(1549)、喜連川乙女坂の地で那須氏と宇都宮氏が衝突した。 この戦いでは宇都宮軍の大将・宇都宮尚綱が討たれたが(冒頭写真は尚綱供養塔が収まっているお堂)、この合戦の経緯については那須氏による宇都宮侵攻による衝突という解釈と、宇都宮氏による喜連川方面への侵攻による予防戦争であったという解釈とがあるようだ。 宇都宮氏の那須領への進攻については、遡ること二十余年前、宇都宮氏と岩城氏が組んで那 […]

「那須与一」由来、栃木は「伊王野温泉神社」の紅葉へ。道の駅「東山道伊王野」から(トイレ○仮眠○休憩△景観○食事◎設備△立地○)

630年に創建されたという「伊王野温泉(ゆぜん)神社」には、平安時代の末期には源平合戦で那須与一宗隆が屋島の戦に扇の的を射る際、那須湯泉神社に祈願し見事に的を射抜くことに成功させたといういわれがあり、平家物語にもその記載がある。 与一目をふさいで、「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り […]

八ヶ岳連峰の「三段紅葉」からの、山梨と長野を跨いでの紅葉狩り。道の駅「こぶちざわ」から(トイレ○仮眠○休憩◎景観◎食事○設備◎立地○)   

11月も中旬に入る時期、八ヶ岳の秋はそろそろクライマックスだ。 標高1,000m以下のエリアでもモミジなどは落ち葉の季節になってくると、入れ替わるようにイチョウやカラマツなどが見ごろになる。そして山頂の冠雪が始まればいよいよ有名な八ヶ岳高原大橋からの三段紅葉が見ごろになってくる。 「黄色い橋」の愛称で知られる紅葉の定番スポット、山梨県北杜市の清里・大泉の八ヶ岳高原大橋はまさに今が見ごろ。 落葉も目 […]

関東の反頼朝勢力を一層し平家打倒が加速した「野木宮合戦」へ。道の駅「かぞわたらせ」から(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事○設備○立地○)

野木宮合戦とは、寿永2年(1183年)源頼朝に立ちはだかった常陸国(茨城県)志田義弘(頼朝の叔父)を小山政光の子朝政が、野木宮で迎え撃って敗走させた合戦。関東に残っていた反頼朝勢力を消滅させ、頼朝は関東の地盤を磐石にし、勇躍西上して平家打倒へと加速する節目をなった、歴史的にも非常に重要な一戦と位置付けられる。頼朝を倒そうとした志田義広は源為義の三男、つまり源頼朝の叔父である。常陸国志田庄を本拠とし […]

31歳没の短い生涯、たった4年で平家を退け征夷大将軍まで上り詰めた稀代の武将「源義仲」と彼の右筆「覚明」の痛快なコラボを訪ねて

木曽義仲は、源頼朝の従兄弟にあたる人物である。 木曽山中で成長したため木曽義仲とも呼ばれるが、正式な名前を「源義仲」と言い、義経や頼朝らよりも先に平氏を追い詰め、上洛を果たすなど、源平合戦で華々しく活躍したことで有名である。 義仲の人物像は、都の公家と対比される武士像の一典型として『平家物語』や『源平盛衰記』などに鮮やかに伝えられているが、特に、信濃から北陸道を経て京都に進撃する義仲は、めざましい […]