
栃木県の南西部に佐野市があり、そこに唐沢山城があった。
室町~戦国時代の地理でいうと、太平洋側の相模と日本海側の越後の中間点あたり。佐野の地と、唐沢山城とは、この地理的条件によって翻弄され続ける運命を辿る。
唐沢山城が越後と相模の中間点あたりにあることは、こういうことだった。
北の越後から勢力をはりだす上杉氏にとってはこの唐沢山城を確保しておけば関東への侵入はきわめて楽になるし、逆に南の相模から北上して関東を支配下におこうとする北条氏にとっては、唐沢山城を確保しておけば上杉氏の関東への侵入をさまたげる格好の防御となる。
すなわちこの唐沢山城を獲るかとらないかは、上杉・北条双方にとって最重要ポイントだったのだ。
そんな地で、「猫の目のように」立場を目まぐるしく変えて、激震の時代のタイトロープを渡り切った風見鶏武将がいた。
佐野家15代当主、佐野昌綱である。
唐沢山城主・佐野昌綱は、好むと好まざるに関わらず、生き続けるためには風見鶏武将にならざるを得なかったのだろう。
その苛酷な立場には同情するしかない。
最初の寝返りは北条氏康→上杉景虎
戦国時代初期に伊豆・相模を領有したのは、のちに北条早雲とよばれる伊勢宗瑞だ。
その息子である2代目氏綱、さらに孫にあたる3代目氏康は、ともに勢力拡大につとめ、ついには鎌倉から関東一帯を席巻していった。
当時の関東管領を世襲していたのは上杉氏だったが、この北条氏の侵略を食い止めることができず、そのころ越後において百戦百勝、軍神と畏怖されていた長尾景虎に支援を求める。支援を求めるというより、景虎を上杉家の養子として関東管領職を譲り渡してしまったわけだが。
ここに景虎は関東管領・上杉景虎(のちの上杉謙信)を名乗って、南から攻め上がってくる北条氏を撃退し、侵略を食い止める。
この戦において、佐野昌綱は、それまで従っていた北条氏康を裏切り、景虎に糾合された10万とも言われるほかの坂東武者とともに上杉景虎に従ったのであった。
再び上杉氏から北条氏へ、そして…
上杉の最初の北条攻めは、小田原城を囲むまでに至るが、結局は城を落とすことはできず上杉氏はいったん越後へ引き上げた。
すると北条氏は待ってましたとばかりにふたたび関東へ侵入し、唐沢山城にも攻めてきたのである。
このとき上杉氏からの救援がなかったことに失望したとの説もあるが、昌綱は実にあっさり北条方に寝返る。
それを知った上杉謙信(景虎)はさっそく唐沢山城を攻めに行くが、昌綱はその猛攻をなんとか凌ぎ切り、謙信はいったん兵をひく。
しかし、それから10年にわたって唐沢山城は謙信の攻撃を受けることになる。その回数は、8回とも10回とも言われているが、昌綱は一度も攻め落とされなかった。
というとかっこいいが、実際には危うくなるといったんは降伏して和睦し、謙信が越後へもどるとふたたび寝返るという卑怯な?手段を何度も使って、タイトロープの上を渡り切って生き延びたのだ。
佐野昌綱の真骨頂とは?
それにしても、なぜ裏切り→和睦→裏切り→和睦→裏切りというくり返しを、なぜ謙信が許したのだろうか?
実に不思議だが、いずれにしても10年余にわたって城を守り続けられたという事実はすごい。
唐沢山城がたぐいまれな堅城であったことももちろんあるが、佐野昌綱の究極の風見鶏力によるところも大きいのだろう。
もちろん、佐野昌綱はただの風見鶏ではなかった。
上杉氏や北条氏らの大国に飲み込まれないように、軍事面でも民政面でも、相当な改革を行っていたといわれている。
本丸跡地の唐澤山神社は「猫神社」
唐沢山城跡は、国指定史跡に指定されている。
戦国時代に何度も戦いがあった、その攻防に備えるために400年以上前に築かれた貴重な高石垣、曲輪、土塁など、城造りの痕跡が当時の姿のまま残されている。
かつて本丸があった唐澤山山頂には、現在は唐沢山神社が建っており、平安時代に平将門の乱で功績を残した佐野氏の祖である藤原秀郷公が祀られている。

山頂付近まで車で入ることができて、多くの人が訪れるが、その中には猫目当ての人も多い。
実は、この唐沢山神社の敷地内には多数の地域猫が住んでいる。紅葉の名所としてよりも「猫神社」として有名。というか、猫神社としての知名度の方がむしろ高いかもしれない。
まさに「猫の目」のように。
目まぐるしく立場を変えた城だけに、猫との相性がいいのかもw


鳥居をくぐって参道を進んでいく。入口付近の木々も綺麗に色づいている。



私は紅葉に目が行くが、猫ばかり追いかけている人もいる。どういう経緯でここに猫が集まったのかはわからないが、唐沢山神社の境内には少なくとも30匹以上の猫が住んでいるという。
どの猫も人慣れしていて、逃げるそぶりすらも見せない。というか、人馴れし過ぎていてあまり愛想が良くもない。
レストハウスで猫の餌が販売されているので、そんな猫たちに振り向いてもらいたい人は「手土産」を持参すれば特別待遇してもらえるかも。

紅葉と猫を交互に見ながら10分ほど歩いて、唐澤山神社に到着した。
本殿で参拝。
かつては城が建っていた場所だが、現在は神社になっている。城の建物自体は失われて残っていないが、石垣などの遺構が残っている。
この池は、もともとは井戸らしい。山の上にありながら年間を通じて水が枯れることがないのだとか。

道の駅「どまんなかたぬま」
道の駅「どきんたまたぬき」もとい「どまんなかたぬま」は、唐澤山城址、唐澤山神社から西南西に5キロも離れていない。
北関東自動車道の佐野田沼ICから南に1キロ、東北自動車道の佐野藤岡ICから北西に7キロ。栃木県南西部の旧田沼町(現佐野市)にある。

非常に地味な道の駅だったらしいが、一度リニューアルされ、物産館と農作物直売所には多くの買い物客が訪れるようになり、500台に拡張された大駐車場も満車状態となるようになったという。


トイレはかなり立派なもの。



全国の人気商品を販売する道の駅
唐澤山城を守り通した佐野昌綱を参考にしたかどうかは知らないが、地味で集客に困っていた道の駅がここまで人気を博すようになったのは、経営方針を「変えた」からではないか。
具体的には、ズバリ「観光客」から「地元客」への寝返り(笑)。
多くの道の駅は観光客相手に商売を行っており、地元の特産品を中心に販売している、それが道の駅の趣旨でもあり当たり前ではあるが、この道の駅はその「当たり前」を裏切った。
全国各地の人気商品、例えば秋田県の稲庭うどん、若狭地方の箸、函館カレー等を取り寄せ、 それらの商品を地元客に販売している、物産館にしてもレストランにしても、要するに地域におけるデパートのような存在なのだ。






日本のへそはどこ?で、それがどうした?
ところで、2000年代前半に「日本のへそ」騒動があったことを覚えていらっしゃるだろうか。
「我が町こそ日本のへそ」と全国の幾つかの市町村がマスコミを巻き込んでアピール合戦を行ったことでヒートアップした。
「日本のへそ」については、複数の自治体がそれぞれ異なる根拠で「日本のへそ」を主張しているが、主な「日本のへそ」とされる地域とその根拠は以下の通りだ。
兵庫県西脇市には、日本標準時子午線(東経135度)と北緯35度線が交差する地点があり、この地点を「日本へそ公園」として整備している。
岐阜県関市・美濃市(境界付近)の主張は、国土地理院が定義する「日本の重心」の場所であるということだが、これは「面積重心」であり、人口などを考慮した「人口重心」はまた別の場所になる。
長野県飯田市も中央値中心の町を根拠とし、栃木県佐野市も日本列島の中心を主張。山梨県中央市は山梨県の中央に位置する点を「日本の真ん中 人が真ん中」としてPR。群馬県渋川市は、群馬県の中央に位置し、関東平野の山々に囲まれた交通の要衝であることを「日本のまんなか」としてPRしている。
山梨県韮崎市は、日本列島の最北端と最南端、最東端と最西端の各二点を円で囲んだ中心点が市内にあるとしている。
田沼町は日本のへそか?
この日本のへそ騒動に、ここ田沼町も参戦した。
理由、根拠は、北海道の宗谷岬と九州の佐多岬を線で結んだ中点が田沼町になるから。
そもそも沖縄県が含まれていないし、また北方領土はどうなんだというツッコミもあって、「かなり苦しい」理由だったが、 それでも道の駅の駅名を「どまんなかたぬま」にすることを含め、「日本のへそ 田沼町」を必死にアピールした。
そして、日本のへそを更にアピールするために作ったのが、道の駅にあるモニュメント「水の翼」。

田沼町が豊かな水の町であること、及び日本の中心なあることを示したモニュメントになっている。