母国が侵攻され日本に来た18歳の青年が異国の国技で優勝。道の駅「関宿」で祝杯(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事◎設備△立地○)

ロシアがウクライナ侵攻を開始したのは2022年2月24日。
この侵攻をきっかけに、ウクライナ中部ビンニツァで生まれ育った18歳のレスリング選手が日本にいた友人を頼って母国を離れ、2022年春から関西大相撲部で相撲の稽古を始めた。

そして12月には、安治川部屋に研修生として入門。

翌2023年秋場所で初土俵、そして今日、見事初優勝と大関昇進を決めた。

久しぶりに正統派の本当に強い力士「安青錦」が彗星の如く現れたこの日。

私は、紅葉がちょうど見頃を迎えた三重県の旧伊勢国滝野あたりを車で走ってから道の駅「関宿」に行って、テレビで大相撲九州場所千秋楽を観戦した。

この日、朝からいた伊勢国滝野あたりというのは、今から840年前、1184年に源義経が京を立って、平氏の残党の親分・平信兼を追い詰め、伊勢国滝野城に立てこもる100騎ほどの信兼軍を激戦の末に討ち取ったとされる、その場所である。

思えば3年前は、いろいろなことの転機だった

3年前と言えば、ロシアがウクライナ侵攻を開始したことは最大の衝撃だった。

あまりにも多くの犠牲を出したこの戦争、いよいよ最終局面を迎えているのに、まだ決着の形が見えない。

また、3年前と言えば、個人的にも大きな転機が訪れた。

完全に子育てを終えて、本業だった経営コンサルタントを引退した。

高齢の両親の実家に戻り、いつ終わるとも知れない介護体制に入った。

背負うものの大きさに愕然。苦しくなった。逃げ出したくもなった。

そしてこのタイミングで、熟年離婚という人生の一大転機も決意した。

「鎌倉殿の13人」への違和感とこだわり

そして今日、義経への思い入れが強い私が、その義経ゆかりの場所の一つにいたからだろう。

優勝を決めた安青錦が日本にやってきたのが3年前ということで、私も3年前のことに色々思いを馳せたわけだが、その年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に抱いていた違和感も、思い出したことの一つだった。

3年前の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の、壇ノ浦の戦いのVFXシーンがウクライナの制作会社に発注されていたが、戦争の影響で続行困難となって急遽国内外の別クルーが加わって仕上げられた経緯があり、この戦争が日本に及ぼした影響はそうしたレベルのことを含めると計り知れないということ。

そして、「鎌倉殿の13人」を毎週見ながら、このドラマへの違和感が次第に大きくなっていったことも思い出されたのだ。

ところで私が「鎌倉殿の13人」に抱いた3年前の違和感とは何だったかだが。

元暦2年(1185)6月13日に頼朝が義経の所領24ヵ所すべて取り上げたことなど、ドラマにおいて二人の確執、関係悪化は描かれてはいたが、その前年に起こった1184年の平家残党の乱に対する二人の対応、それに後白河法皇を加えた三者の描かれ方について、三谷脚本と私の歴史観が大きく異なっていたという件である。

源頼朝と弟・義経の深い溝の闇

鎌倉幕府を開き初代将軍となった源氏の頭領・源頼朝と、弟で平家を倒した最大の功労者でもある源義経の間の深い溝についてはもちろん皆さんご存知と思う。

しかし、その原因については幾多の説と解釈がある。

まず、史実から。

1183年、平家は都落ち。さらに翌1184年の一ノ谷の戦いの後、範頼は鎌倉に戻ったが、義経は京に残って、頼朝の代官としての機能を果たすことになった。
そして3月には平賀義信の子・平賀惟義が頼朝より伊賀守護に任じられ、九条家の荘園である同国大内荘の管理を命じられて、これより平賀惟義は大内惟義となったが、これが伊賀に潜伏していた伊勢平氏の残存勢力を大いに刺激した。

まず、平家の家人であった平田家継が7月7日に挙兵。

伊賀国守護になりたての大内惟義は、慌てて使者を鎌倉に出した。

「平家一族の襲撃によって、家人が大勢殺された。この反乱の首謀者は平家貞の子である平(平田)家継だと。平家に恩義のある伊賀の武士を集めて、近江を突破し都に攻めのぼろうとしている模様」と。

伊勢での反乱は大ごとに

この乱に呼応して、さらに伊勢の平信兼(桓武平氏大掾氏)が挙兵した。平信兼は、頼朝の旗揚げ時に殺された山木兼隆の父。平氏残党の大物中の大物だ。

これに、近江の佐々木秀義が立ち向かった。秀義は、平治の乱で敗れた源義朝方に従ったために所領を没収されて相模の渋谷重国の庇護を受けていたが、4男高綱など子どもらの活躍で旧領を回復し、近江にいたのだ。

秀義は5男義清とともに奮戦したが、敵方の矢を受けて討死してしまった。

そして、信兼は逃亡した。

頼朝は再び、大内惟義からの報告を受ける。

「平家の反乱軍と戦って逆賊を討ち果たしました。平信兼とその子息たちは逃亡。逆徒鎮圧の恩賞をお願いいたします」との報告とおねだりに、頼朝はこう答えた。

「逆徒を討ったのは殊勝だが、恩賞を望むのは道理に合わない。狼藉を鎮めるために守護に任じられているのに、賊徒の襲撃で家人が大勢殺されたというのは、用意を怠った汝のせいだ。これが過失でないと言えようか。賞罰は私が決める」と。

義経と頼朝の間に入った最初の亀裂

8月3日、事態を重く見た頼朝は京都の義経に、逃亡した平氏勢力の最有力人物である平信兼の捜索とその子たちの誅殺を命じた。 

この命からわずか3日後の8月6日、義経は、今度は後白河法皇によって左衛門少尉・検非違使に任じられる。左衛門府は皇居の左右にある衛兵組織の一つで、警備や宮廷の護衛を担っていた。検非違使とはご存知、都の犯罪を取り締まって秩序維持にあたる官職だ。

義経はもちろん頼朝に報告した。

自分が所望したわけではなく、度々の勲功のためと後白河院から仰せがあったので固辞できなかったと。

後白河法皇としては義経を自分の配下に置いて直接命令を下したい。そんなことはとうにわかって後白河による懐柔を警戒していた頼朝は、自分を介さずに任官することを御家人たちに固く禁じていた。

それなのに、こともあろうに弟が無断で判官になるとは。

頼朝は、その軽率さに怒りを覚えた。

通説への大いなる疑問

一方で、義経は頼朝の命に粛々と従っていた。

頼朝の命から1週間後、義経は信兼の3人の子息、兼衡・信衡・兼時が京の義経邸に呼び出して斬殺、自害へと追い込むと、その2日後に信兼討伐に出撃した。「源平盛衰記」によれば、伊勢国滝野の城に立てこもる100騎ほどの信兼軍は激戦の末に討ち取られたとある。

兄の命令を、弟は忠実に実行し、そして見事に果たしたのだ。

頼朝と義経の確執は、義経が信兼討伐に向かう直前に後白河法皇が義経を左衛門少尉・検非違使に任じ、義経がこれを受けたことが発端であると。これが通説である。
しかし、この任官の翌月(元暦元年9月)、義経は頼朝の命令に従って河越重頼の娘・郷御前と結婚している。
河越重頼は武蔵国で最大の軍事統率力を持つ御家人で、妻は頼朝の乳母・比企尼の次女。家柄や血統を考えても順当な婚儀であり、もし検非違使任官が大きな問題だったなら、この婚儀は破綻しているはずだ。

頼朝が義経を討とうとしたまでの決定的なことはこの後、他にある。

朝廷に義経が決定的にとり込まれ裏切られたと頼朝が確信した瞬間が、弟に殺意を抱いた理由が、他に必ずあったはずである。

「関」の地と「関氏」のルーツ

のちに東海道の宿場町として栄えた「関宿」。

関宿として大いに発展していく、その400年ほど前にこの地で起こった「三日平氏の乱」の鎮圧に貢献したのが、平実忠である。
実忠はこの功により、伊勢国鈴鹿郡関谷を賜って、「関氏」を称した。

関谷と言っても、当時は現在の関地区よりももっと広い鈴鹿郡一帯の範囲を指しており、実忠は関氏として鈴鹿郡全体を支配していくことになった。
もっと前に起源を持つ関氏ではあるが、実際に関の地の土着の武士となり、関の名を名乗ったのはこの実忠。なので、実忠が「関氏の祖」と呼ばれる。

すぐ北には関富士があって、標高は243mの低山だが、古来より人々の往来する様子を眺めてきたことだろう。山の西側中腹から山頂まで尾根づたいに小道があり、麓から山頂までは約100mの標高差。登ろうと思えば約15分で登頂できる。

真っ赤な葉と紅葉し始めた黄色の葉とまだ緑の残った葉が混ざり合って、鈴鹿国定公園に含まれる新池から眺める関富士はなんともいえない美しい景色だった。

唯一残る東海道53次の宿場町「関宿」

道の駅「関宿」は、東名阪自動車道の亀山ICから国道1号線を西に2km、三重県北部の旧関町(現亀山市関町)にある。

が、ここは本物の関宿ではない。

道の駅近くに、旧関宿があって、そこが本物。東海道53次で唯一、当時の面影を残す宿場町である。

亀山

国道1号線の一本北の旧東海道に入れば旧関宿の絶景が見られるのだが、旧東海道は夜間を除いて一般車両は進入禁止。なので、道の駅に車を停めて。300メートルほど歩いて、関宿の古い街並みを見学するのがいい。

その駐車場は、こんな感じ。

トイレは、施設規模なり。

休憩環境は、施設内が素晴らしい。

ここの味覚は、なんといっても味噌!

道の駅の施設は、物産館、農作物直売所、レストラン。

物産館の商品の種類は多いし、関宿の特産品を中心に亀山市や三重県の特産品を幅広く販売している。
で、何が一番かというと、それは亀山の味噌に決まっているわけで。

「みそ焼きうどん」は最高。
うどんごと買い込むのもいいが、「みそ焼きうどんのタレ」を買って帰れば、うどんの玉さえあれば亀山味噌の焼きうどんが何度も家で楽しめる。

もう一つの名物「濃厚トンテキ」も、「トンテキのタレ」を使えばここのレストランで味わう独特の味を自宅で再現できる。
駄菓子もいっぱい。お土産には定番どころの関宿の伝統銘菓「関の戸」「志ら玉」、伊勢名物の「伊勢うどん」「鶏めしの素」あたりが良さそうだ。

興味があれば、物産館の上の2階にあるのは入場無料の「富永一郎漫画廊」が楽しめる。

昭和生まれなら「お笑い漫画道場に出演していた方ですよ」と言えば、懐かしく思い出すだろう。

彼は中日ドラゴンズの大ファンだったので、昭和世代のドラゴンズファンなら、監督の高木守道氏をモチーフとした漫画は必見かも知れない。

レストランも味噌味で決まり!

レストランでは、亀山のご当地グルメの両巨頭のどちらかをぜひ。
1つ目は「みそ焼きうどん」。

当たり前だが、うどんを野菜と肉と一緒に鉄板で焼いて味噌味をつけたもの。亀山オリジナルの甘辛い味噌タレの味付けは他にないものだ。

もう一つが「亀山ラーメン」。 これも牛骨スープに、数種類の味噌をブレンドした味噌ラーメンで、 ハナタケ、キクラゲ、シメジの亀山三大きのこをトッピング。 さらにニラ、玉葱などの野菜類に半熟卵が入って。味噌の味は強烈で、「これぞ味噌ラーメン」である。