
富加町というのは1954年に旧富田村と旧加治田村が合併してできた中濃の小さな町だが、どちらの町も、460年前に織田信長に踏み躙られた悲惨な歴史がある。永禄8年(1565)、織田信長は関・加治田・堂洞の中濃三城を制圧するため、現在の富加町に攻め込んだのだ。
岐阜城から10Kmあまり東の犬山城をまず攻略した信長は、木曽川を渡った。信長が北上して侵攻しようとした中濃では、関・加治田・堂洞の三城が反信長の盟約を結んでいたが、信長は加治田・堂洞に対して圧力を強め、岸氏が守る堂洞城へと迫った。
これに対し堂洞城主の岸勘解由(きしかげゆ)は反信長の姿勢を貫くも、一方の加治田城主の佐藤紀伊守忠能は腰抜けで、信長の内通に応じてしまう。
信長の軍勢は弄せずして鵜沼、猿啄(さるばみ、現在の坂祝町勝山)へと進行し、ついに堂洞城を包囲するに至った。そして堂洞城を西と南からは織田信長軍の丹羽長秀・河尻秀隆・森可成が、北の加治田からは岸氏を裏切って信長方に寝返った加治田城主の佐藤紀伊守軍が四隊に分かれて攻撃を開始。
これに対し、堂洞城では南と西を岸勘解由(信周)が、北を信周の嫡子・岸孫四郎(信房)が守備した。

あまりにも残酷な堂洞城合戦
この戦いは、実に悲惨なものだった。
信長は金森長近を使者として堂洞城へ派遣し投降を勧めたが、岸信周は頑として受け入れなかった。
堂洞軍記には次のように書かれている。
「金森長近が信長の使いとして開城交渉に出向くと、堂洞城守将の岸勘解由の子で、信長側に寝返った佐藤紀伊守の娘を妻としていた岸孫四郎(岸信房)は、決死の思いを示すために、自分の二人の幼子の首を使いの金森長近の前ではねた。さらには妻を竹槍で串刺しにして晒したため、金森長近は引き下がった。そして、戦いが始まると孫四郎は手勢50騎で大手門から打って出て戦うも、劣勢となり腹を十文字に掻き切って自害。そして父の岸勘解由も自害した。孫四郎の母すなわち勘解由の妻は、わが息子の討ち死にを見てカラカラと笑い自害したとも、あるいは勘解由と刺し違えて死んだとも。」
岸勘解由は、1547年に信長の父信秀が美濃攻めで大敗をした際、信長の従兄弟となる織田新十郎を打ちとっているとされ、また1555年の斎藤道三と息子の義龍の戦いでは、義龍側についた美濃の有力武将の一人だった。彼と一緒に堂洞城にこもった多治見一党は美濃源氏、土岐氏の一族で、信長が落とした猿啄城から逃れてきた人々だった。
のちに堂洞城本丸跡から炭となった米が出土したが、これは、この合戦の時に信長が命じて放たれた火に焼けた兵糧米だと言われている。
翌日の関・加治田合戦で関城も陥落
堂洞城が落ちた翌日には、関城主・長井道利が裏切り者・忠能の加治田城を攻撃したが、忠能はこれを迎え撃ったが、まもなく信長が派遣した斎藤利治が加わって、長井道利は関城に退却した。
そして関城も開城に追い込まれ、中濃はついに信長の手に落ちたのだった。
これが「関・加治田合戦」である。

堂洞城の本丸跡には、あまりに多くの将兵がまさにこの場所で悲惨な最期を遂げたからだろうか。
他の城址ではあまり感じない、重く寒々しい空気が漂っていた。
本能寺の変の後に起こった加治田・兼山合戦
この「関・加治田合戦」においては佐藤忠康が戦死したため、織田信長の命によって、斎藤道三の末子・斎藤利治が佐藤忠能の養子となり、加治田城主を継いだ。
その後の加治田城は天正10年(1582)の
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変において信長が討たれ、利治も死去すると、斎藤利堯が跡を継いで織田信孝の家老となったが直後の7月に、東美濃での勢力拡大を狙う森長可との間で加治田・兼山合戦が起こった。
加治田城は、この加治田・兼山合戦をなんとかしのぐも、利堯が城主として有名無実となったため、その所領を森氏が統合。森長可の領地となった後、廃城となっている。
古城山頂上の加治田城跡。

ここは見晴らしが最高にいい。

さすが城があっただけのことがある。素晴らしい展望だ。
金華山の山頂に立つ岐阜城も見える。信長は、あんなところから攻めてきたのだと、改めてその征服欲には驚嘆するしかない。

山頂だけ見える、あの山頂の形は御嶽山だ。

加治田城跡のすぐ近くの紅葉名所「清水寺」へ
加治田城跡のすぐ近くに、岐阜県の重要文化財に指定されている二天門にかかる紅葉が特に素晴らしい「清水寺」がある。
重々しい城跡の空気を吸った後は、気分転換も必要だ。



本堂の中には、国の重要文化財「木造十一面観音像」が納められている。



道の駅「半布里の郷とみか」
道の駅「半布里の郷とみか」は、堂洞合戦、関・加治田合戦、加治田・兼山合戦の、一連の合戦があった岐阜県南部の小さな町、富加町にある。

沿道は福井県大野市と長野県飯田市を結ぶ国道418号線。
この国道418号線は「日本最凶の酷道」と呼ばれる危険な?酷い?道路として有名だが、道の駅の周辺は整備が行き届いていて問題はなかった。

駐車場は、施設規模の割に広い。


トイレは施設規模なり。綺麗に清掃していただいており、ありがたく使わせていただいた。



休憩環境として、さほどのバリエーションがあるわけではない。


道の駅の施設は、物産館、農作物直売所、レストラン
農産物直売所が比較的充実している。





物産館では、朴葉寿しのシャリに黒米を用いた「黒米朴葉寿し」が岐阜名物の中でも珍味である。具にはそれぞれ鮭、梅干し、アサリの佃煮と異なったものが入っていて3個入りで売られている。その他、朴葉味噌、富加手作り豆味噌、カボチャのシフォンケーキ、八百津の蒟蒻「武士の座禅岩」、トマト蒟蒻ゼリーなども魅力的だ。

レストランでは「美濃のヘルシーポーク豚味噌焼重」、施設内のパン工房「わっか」で作ったピザ生地でつくった「手作りピザ・パンセット」が人気となっている。


