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道の駅から名所絶景へ

道の駅「マイントピア別子」にて「別子銅山」の人災に懲りない「住友金属鉱山」の拝金主義を考える(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事○設備△立地◎) 

別子銅山は、関東から九州へと抜ける日本最大級の大断層「中央構造線」のやや南に位置します。中央構造線の北と南の地質は、地質学的にまったく異なり、約一億年前に両者がぶつかる形で中央構造線が形成されました。 そのとき発生したエネルギーが地下で激しい火山活動を促し、マグマの熱で変成してできたのが、「別子鉱床」です。これは、地層の間に薄い層をなす層状含銅硫化鉄鉱床で、世界的にも顕著な形状から「別子型鉱床」と […]

道の駅「今治湯之浦温泉」から「永納山城跡」「世田薬師」へ(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事○設備△立地◎) 

四国初の環境省指定国民保養温泉地である、と聞くと、「湯ノ浦温泉」に行ってみたくなるかもしれません。最初に言っておきますが、温泉としては大したことありません。では何がいいのかと言えば、立地です。 ここは愛媛県の北端、高縄半島の北東部、瀬戸内海国立公園のほぼ中心にあり、前面に白砂青松の桜井海岸、波静かな紺碧の燧灘が広がり、東には遠く石鎚山を臨む優れた景観を有しています。 源泉に、道の駅「今治湯ノ浦温泉 […]

「唐子・鍵遺跡」に隣接する道の駅「レスティ唐子・鍵」(トイレ○仮眠△休憩○景観△食事△設備◎立地○) 

唐古・鍵遺跡は、弥生時代前期(約2,300年前)に成立し、古墳時代前期(1,700年前)までの約600年間続いたと考えられる集落の遺跡です。奈良盆地のほぼ中央、奈良県磯城郡田原本町大字唐古および大字鍵に位置し、直径約400mの範囲が居住区で、その周りには幾重にも「環濠」が巡っていました。内濠は幅10m・深さ2mを測り、外方には幅5m・深さ1.5mの濠が幾条もつづく。城砦と見まがう姿の集落の総面積は […]

「御所 社乃森温泉」は廃業、道の駅「どなり」も心配、どなりなっとんねん(トイレ○仮眠△休憩○景観○食事✖️設備△立地△) 

徳島県阿波市土成町の旅館「御所 社乃森」が、令和6年4月20日をもってついに閉館しました。 言っちゃ悪いのですが、当然の結末です。なぜって、嘘まみれの宣伝文句で客を集めて、一室一人55,800円もとっていたのですから。歴史に疎い、人の良い、言われたことは鵜呑みにしてしまう、そんな、「人を疑うことを知らない素直な人」ばかりを「騙して」何とかやってきたのだしょうが、そんな人はこの国に、そんなにたくさん […]

道の駅「ガリレア亀岡」に行ったら、毛利攻めやめて信長討った気持ちがわかった(トイレ✖️仮眠△休憩△景観✖️食事△設備△立地◎) 

明智光秀は天正5 年(1577)頃、織田信長に命じられた丹波攻略の拠点とするため、保津川と沼地を北に望む小高い丘(荒塚山)に丹波亀山城を築城し、近隣の村から人を呼び寄せて城下町を形成しました。天正8 年(1580)に丹波国を拝領した光秀は、本格的な城下町の整備と領国経営に着手しますが、そのわずか2 年後に「本能寺の変」で信長を討っています。 光秀に討たれた織田信長の勢力は、すでに現在の関東・北陸・ […]

過疎で小学校は10年で16校が廃校、道の駅「農匠の郷やくの」も失敗(トイレ○仮眠✖️休憩✖️景観△食事✖️設備△立地○) 

京都府西端、兵庫県との県境にある旧夜久野町(現京都府福知山市夜久野町)には、京都府の縄文〜弥生時代や古墳時代を考える上で非常に重要な遺跡がいくつもあります。荒堀遺跡では縄文時代早期から晩期の土器や石器が見つかり、日置遺跡では弥生時代の銅剣形石剣が出土しています。 古墳時代の後期には横穴式石室を伴う古墳が盛んに造られましたが、それらの中でも夜久野町高内の「長者森古墳」は最大規模のものです。 築造時期 […]

新田義貞の妻・勾当内侍の墓参りから、彼女が身を投げた琵琶湖そばの道の駅「びわ湖大橋米プラザ」へ(トイレ○仮眠△休憩◎景観◎食事○設備◎立地○) 

勾当内侍は、本来宮中で天皇に仕える女官のうち、「掌侍」という律令制における女官の1つである役職名だが、後醍醐天皇に仕え、天皇のはからいで新田義貞の妻となった長橋の局と呼ばれる女性をそう呼んでいます(本名は不明)。 夫の新田義貞はご存知、鎌倉時代末期の混乱の世に立ち上がり、後醍醐天皇方として幕府滅亡から建武新政発足において歴史の表舞台で活躍した武将です。清和源氏の八幡太郎義家を遠祖として興り、上野国 […]

町内4つの道の駅に飽き足らず、また道の駅「瑞穂の里さらびき」を大改造?(トイレ○仮眠○休憩◎景観○食事○設備○立地○) 

「道の駅瑞穂の里さらびきにつきまして、地域振興やスポーツ振興などを目的とする複合施設である、グリーンランドみずほ(写真はバブリーな本棟)において中核的な集客施設となっていますが、供用開始から23年余りが経過していることから、大規模リニューアルすることとして、昨年には再整備基本計画を策定し、現在、基本設計及び実施設計を行っているところです。令和7年度中の改修を予定しており、交通の要衝である我が町のラ […]

与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑めぐりから、道の駅「シルクのまち かや」へ(トイレ○仮眠○休憩◎景観○食事○設備△立地△) 

兵庫県との県境近い京都府北部にある与謝野町は、鉄幹・晶子夫妻の苗字「与謝野」のルーツ。道の駅「シルクのまち かや」には、ここが鉄幹の父・与謝野礼厳の生誕の地であったことにちなんで歌碑が立っている(礼厳の本職は僧侶)。 与謝野町、旧加悦町には鉄幹・晶子夫妻を始め多くの歌人・俳人が訪れて歌や句を詠んだことで知られ、その名残は歌碑や句碑といった石碑として現存しています。その歌や句が詠まれたであろう場所に […]

「丹波マーケス」はやり逃げ、次の道の駅「京丹波 味夢の里」で二匹目のドジョウ狙いってか(トイレ○仮眠✖️休憩✖️景観✖️食事✖️設備△立地✖️) 

最初に。これは道の駅「京丹波 味夢の里」の中に設置されている路線バスの停留所。町民をわざわざバスに乗せて引っ張り込んで買い物をさせても、その分、町中のこれまでの商店の売り上げは減るだけのことですよ。一つの町内に道の駅が4つもあるのは日本でこの町だけ。しかも喜んでいるのは寺尾豊爾町長一族と、そのおこぼれをちょうだいしている一部の人たち。いい加減、恥を知れと言いたいです。 そして、これからここに書くこ […]

「須知城跡」で光秀の足跡を辿ってから、最低の道の駅「丹波マーケス」へ(トイレ△仮眠✖️休憩✖️景観✖️食事✖️設備△立地△) 

今日は須知城へやってきました。城跡の見どころもさほどの知名度もないのですが、織田信長が好きではないというか、はっきり言ってその人間性が嫌いな私は、彼を突如として本能寺で討った明智光秀にずっと興味を持っていまして。 しかしながら光秀の謀反の動機がはっきりしていないことから、彼が信長に命じられて丹波攻めをして落とした城はすべて回って、彼の「心の闇」を探っている次第です。 1579年(天正7年)、織田信 […]

2つの「高松城」から、高松空港近くの道の駅「香南楽湯」へ(トイレ○仮眠○休憩○景観△食事○設備◎立地○) 

高松城は、天守閣は失われているものの、今なお高松市のシンボルです。 海に面している「海城」であることが高松城の大きな特徴で、愛媛県の今治城、大分県の中津城と並んで「日本三大海城」の一つに数えられています。 現在は海側に道路が通っていますが、かつては城壁が海に直接面していたとされており、実際に城内を散策していると、瀬戸内海との近さがよくわかります。 この辺り一帯は当時、香東川の河口から海に繋がるデル […]

「壬申の乱」の形成逆転の地、道の駅「ふたかみパーク當麻」へ(トイレ◎仮眠△休憩△景観○食事○設備△立地○) 

663年(天智天皇2年)、朝鮮半島南西部の白村江(現在のクム川)河口付近で日本・百済連合軍は唐・新羅連合軍に大敗。この白村江の戦いで敗れた後、天智天皇(当時は「大君」)は臣下の反対を押し切って都を奈良・飛鳥から滋賀・大津に移します。 天智天皇は崩御する2ヶ月前に、実弟である大海人皇子を病床に呼んで「後の事はお前に任せる」と伝えました。しかし大海人皇子はこれを辞退。出家して吉野へと向かいました。天智 […]

難波・河内から、日本最古の国道「 竹内街道」を、道の駅「近つ飛鳥の里 太子」まで(トイレ○仮眠△休憩◎景観○食事△設備△立地◎) 

『日本書紀』には、推古21年(613)「難波より京に至る大道を置く」とあります。推古天皇21年に整備されたこの「大道(たいどう)」とは、日本最古の官道、今で言う国道となった竹内街道のことです。 難波と飛鳥のみやこを結ぶこの「大道」とほぼ重なる「竹内街道」は、シルクロードの最終地点といわれる飛鳥に、中国や朝鮮半島のすぐれた文化や海外の使節を運んだ道でした。 都は平城京へと変わり、さらには平安京に遷さ […]

究極の古民家「藤田家住宅」から道の駅「大和路へぐり」へ(トイレ○仮眠△休憩◎景観○食事○設備○立地◎) 

信貴生駒の東に延びる山麓、生駒郡平群(へぐり)町を見下ろす高台の広い敷地。ここは応仁の乱で西軍を率いた山名宗全の邸宅跡だそうですが、そこに、整った「大和棟」の古民家が建っています。この藤田家住宅は、伝統的な町家としての姿を今にとどめる、国登録有形文化財です。通常は未公開ですが、不定期に家の中まで公開されることがあり、そのチャンスには見ることができます。 古図が残されていて、それによると、当初は元禄 […]

日本三大酷道の一角「ヨサク国道」を走って、道の駅「大杉」へ(トイレ○仮眠◎休憩○景観○食事△設備△立地○) 

およそ国道とは思えない、あまりに通行困難な国道には、「酷道」という漢字が当てられます。中でも走った誰もが何度か身の危険を感じる通行困難を極める3つの国道が、いつしか「日本三大酷道」に登り詰め?これらの存在は、マニアックなドライバーなら知らぬものはいないでしょう。 その一つは国道425号(三重県尾鷲市から和歌山県御坊市に至る一般国道)、二つ目が国道418号(福井県大野市から長野県飯田市に至る一般国道 […]

「湯の川温泉」で全身浴のち、道の駅「湯の川」で仮眠と足湯(トイレ◎仮眠◎休憩◎景観○食事○設備○立地◎) 

「火の山の ふもとの湯こそ 恋しけれ 身をこがしても 妻とならめや」 神代の昔、出雲からやってきた大国の主命と恋に落ちた稲羽の国(八上姫)は、主命にスセリヒメというお妃があることを知らず、国に帰られた主命を慕って旅に出ました。出雲の入り海(宍道湖)を船で進まれた八上姫は、南の山の谷あいに湯気が立ち上がっているのを見つけます。 気になって船を降り、近づいてみますと、そこには岩の間からこんこんと湯が湧 […]

日本の至宝「米子城」を潰したアホを許して米子城跡と道の駅「あらエッサ」へ(トイレ◎仮眠○休憩◎景観○食事○設備○立地○) 

米子城は、戦国時代末期の天正19年(1591)頃、毛利一族の吉川広家が築城を開始するも、慶長5年(1600)の関ケ原の戦い後、広家は国替えを命じられ岩国へ。逆に関ヶ原の戦いで軍功が認められた駿河の国の中村一忠がこの地・米子を治める伯耆国18万石の領主に選ばれて赴任。城慶長7年(1602)、湊山の山頂に五重の天守閣と四重の副天守閣(四重櫓)を持ち「山陰随一の名城」と称された壮麗な米子城を完成させまし […]

道の駅「しおのえ」から「イクサ酷道」を南下して宍喰温泉へ(トイレ○仮眠◎休憩○景観○食事○設備△立地◎) 

全国にはおよそ「国道」という名称にそぐわないような、細くて狭い、そして荒れた国道が稀に存在します。このような酷い状態の国道は「酷道」と漢字を当てられ、私のようにそれを好んで走る変わり者も一定数いるのですが、四国の内陸部はその“宝庫”です。 四国の酷道として最も有名なのは、徳島県から四国山地を横断し高知県に至る総延長約350kmの国道439号、通称「ヨサク」。路線が恐ろしく長いのに酷道区間多すぎ、2 […]

「大久保諶之丞」がつくりし道を走って、生誕の地「たからだの里さいた」の露天風呂へ(トイレ△仮眠◎休憩◎景観○食事○設備○立地◎) 

「笑わしゃんすな百年先は 財田の川から川舟出して 月の世界へ行き来する」。 これは、大久保諶之丞が雄大な将来を歌った都々逸です。 道の駅を止まり木に、日本全国を旅していますと、私たちはこの国を縦横無尽に走る道路を当たり前のように利用させていただいているのですが、せめてこれらをつくた先人の尽力を知って感謝することを忘れてはならないと思います。 長い間、狭く険しい山道だけしかなく、そのため経済や文化の […]