長〜〜いお付き合い
「長〜〜いお付き合い」といえば京都銀行のCMですが、CMといえば、D通。そしてD通といえば、「きぬやん」。広告界にいながらにしてこのことすら知らぬものは、モグリと言ってまず間違いないでありましょう。そのきぬやんと私は、私とほぼ40年にも なろうかという「長〜〜いお付き合い」です。歯にきぬやん、もとい歯に絹着せぬ私は、「敵」も人並外れて (おそらく友人以上)に多く、40年もの長きに渡りしかも 間断な […]
「長〜〜いお付き合い」といえば京都銀行のCMですが、CMといえば、D通。そしてD通といえば、「きぬやん」。広告界にいながらにしてこのことすら知らぬものは、モグリと言ってまず間違いないでありましょう。そのきぬやんと私は、私とほぼ40年にも なろうかという「長〜〜いお付き合い」です。歯にきぬやん、もとい歯に絹着せぬ私は、「敵」も人並外れて (おそらく友人以上)に多く、40年もの長きに渡りしかも 間断な […]
「安保闘争」とは、世界が冷戦の真っ最中だった1959年から1960年、そして1970年の2度にわたって日本で起こった、「日米安全保障条約」をめぐる大規模なデモ運動です。 「60年安保」「70年安保」とも呼ばれます。1958年生まれの私には、最初の60年安保の記憶はもちろんありません。しかし、70年安保は中学生になったばかりの多感な時期。少年の心にも強烈なインパクトがありました。 安保闘争に参加した […]
私がリクルートで働いた23歳からの9年間。 仕事を通じて、無限の将来性を感じたコピーライターが二人いました。 天才肌の林海洋(前列向かって左)さんと、努力と誠実が代名詞の上森秀樹さん(後列向かって左)。 一つ年下の林さんと、2つ年上の上森さん。 いまだに夢によく出てこられるほど濃いお付き合いをさせていただいたお二人、私と年も大して変わらないお二人が、なんと今はもうこの世にいません。 努力、誠実の人 […]
私が淡路から明石に移り住んだのは8歳の時。 きっかけは最愛の祖父の容体が悪化し、明石市民病院に入院したことでしたが、父の仕事場がもともと明石だったことが引っ越した理由です。小学校3年生の夏休みが終わって迎えた2学期、私は淡路の豊島小学校の7倍以上の生徒がいるマンモス校「人丸小学校」に転入しました。 このなんとも寂しげで不安そうな顔が、淡路の友達に見送られた後の連絡船上で父が私に向けたカメラに残され […]
2024 年3月24日、雨。今日は、井町岳二が生きていれば63歳を迎えたはずの誕生日。2018年の4月に天に召されて早いものでもう6年が経とうとしています。彼は、40歳台半ばに神戸在住だった私の仕事が京都メインになり、8年間ほど単身赴任していたその頃、2日に1度ほどは立ち寄っていた(笑)音楽バー「Off the Wall」のマスターでした。今をときめく「10-FEET」のメンバーと遭遇して一緒に飲 […]
2024年3月22日。前日の季節外れの雪から一転、快晴のゴルフ日和となりました。そこで急遽、エントリー可能な午後スタートのスループレーができるゴルフ場を探したところ、ヤシロカントリークラブがヒットしたので、行って来ました。ゴルフはここのところの好調を維持し、前半後半とも39で揃えてトータル78でホールアウト。このハーフ39というスコアは今でこそちょくちょく出ますが、ゴルフを始めた最初の10年を思い […]
私がリクルートという会社で1987年から1990年まで大阪で課長を務めた時代、上司である部長はTT屋ひろしという人間で、ほぼ3年間、彼と机を並べて仕事をしました。 この部長、自分が考えた通りにうまくいかないときには部下や他のあらゆることに「要因」を探し、全てを自分以外の「誰か」や「何か」のせいにして、自分は悪くないと言い張るのが常の人間でした。部下の手柄を自分の手柄に、組織としての失敗は全て部下の […]
私は1982年に大学を卒業し、リクルート(当時は日本リクルートセンター)という会社に就職しました。あのバブルの時代を含めてほぼ10年間、この会社で仕事をさせていただきましたが、その仕事とは「就職先を探している学生さんにいろいろな会社の情報を提供する」ことで、具体的には「さまざまな会社を取材して、提供する情報を工夫してつくりあげる」というものでした。それは熟練のプロたち(ブレーン)の力をお借りしない […]
2011年3月11日。その日13時過ぎ、私は京都リサーチパークでの仕事を終え、クライアントの役員Nさんと一緒にタクシーに乗りました。 すると、運転手さんが 「この車は四葉のクローバー車でございます。記念にどうぞ」 と言って、四葉のクローバーシールが入った乗車記念カードを二人にくれました。 ※写真は、2011年3月11日に起こった東日本大震災の1時間前にヤサカタクシーからいただいた「四葉のクローバー […]
私が生まれたのは1958年(昭和33年)。団塊世代からは干支一回り後、さらに一回りすると団塊ジュニア世代が誕生し始める。 つまり、私は、団塊世代と団塊ジュニア世代のその間の世代として生きてきました。 ちなみに、この写真は22歳の私。 いまや廃墟マニア垂涎の的と化した「マヤカン」こと摩耶観光ホテルに大学の友人たちと宿泊し、前日から朝まで酒を飲み続けてすっかり酩酊状態の私です。 いったん廃墟と化しかけ […]
2024年2月9日、満年齢が66になりました。 振り返りますれば私は、写真のローソクの数の如く9年スパンの「7章立て」の人生をあまり深く考えることなく走ってまいりました。 第一章:淡路の祖父を慕い続けた9年(そして明石へ) 第二章:自由奔放だった明石での9年(そして高校卒業) 第三章:食っていく術を見つけた9年(芸大からリクルートへ) 第四章:経済乱高下に踊らされた9年(そして予期せぬ大震災) 第 […]
エージシュートを目指しての旅を始めるにあたって。 ゴルフを始めてから39年間に行ったことがあるゴルフ場とその想い出を整理しておくことにしました。 というのも、まだゴルフをしに行ったことのない都道府県への旅を優先したいかと思うから。そして、ホームコース以外は、生涯でできるだけたくさんのゴルフ場をプレーしたいから。そのためには今後旅するゴルフ場は、再び訪れたいと強く思えるコース以外は過去との重複を極力 […]
私の人生のホームは、淡路島です。 1995年1月17日に全壊した淡路島(北淡町富島)の実家から、私は写真の大時計を運び出して修復しました(動きませんが)。そして、60年も前にやりとりされた祖父と私の手紙を探し出し、今も何より大切な宝物として、大切にしています。 私の人生のホームを築きてくれたのは祖父。その祖父がどんな人だったか、そこから始めて私の人生のホームについてお話しします。 政勝おじいちゃん […]