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道の駅から名所絶景へ

道の駅「源平の里むれ」からは、「総門跡」からの「屋島」に行くっきゃない!(トイレ○仮眠○休憩○景観◎食事○設備○立地◎)

源平合戦の古戦場として知られる「屋島」は、高松市街から東に進んだところにあります。遠くからみると、島にそびえ立つ山がまっ平らな屋根みたいになっていることから、「屋島」という名前がついたそうです。ここは溶岩台地で、山上からは波穏やかな瀬戸の海と一体となった高松市街や瀬戸内の多島美が一望できます。山上には四国霊場第84番札所の「屋島寺」や世界的にも珍しい山頂の水族館「新屋島水族館」などがあり、屋島スカ […]

好天の道の駅「いたの」にて。青は藍より出でて藍より青し!(トイレ◎仮眠△休憩◎景観△食事○設備◎立地◎) 

「青は藍より出でて藍より青し」。よく使う言葉ですね。教えを受けた人がやがて教えた人よりも優れるということを言いたいときに使いますが、この言葉の由来は、青色の染料である藍から取る青色が、原料の藍よりも青くなる、ということにあります。この言葉を使って伝えたいことは「学問は中断しなければすぐれた効果を上げる」「今君を教えている私を君は超えていけ」ということですよね。 「紺屋の白袴」という言葉もよく聞きま […]

道の駅「瀬戸大橋記念公園」にて、二人の「聖通寺城主」の明暗を考える(トイレ○仮眠△休憩○景観◎食事△設備○立地◎)

仕事で大失敗し、惨めな思いをした人はたくさんいるでしょう。私ももちろんその一人です。失敗から学べと人は言いますが、それが「大失態」となると、昔なら改易(かいえき=罪科や不祥事などによって官職や身分、領地などが没収される刑罰)、今なら懲戒解雇や大降格人事みたいな処分を食らうわけですが、こうなると同じ会社で挽回することは難しいということはありますよね。 香川県と岡山県を結ぶ瀬戸大橋の、香川県側の最後の […]

「海賊代将軍」村上武吉の本拠「能島城」から、「村上海賊ミュージアム」へ

瀬戸内海を東西に分断するかのように島々が南北に密集して連なる「芸予諸島」は、一見すると穏やかに見える海況ですが、狭い海峡(瀬戸)にいざ船を進めると、大潮時には高低差3m以上にもなる潮の満ち干きや、最大 10 ノット(時速約 18 ㎞)の潮流が容赦なく襲ってきます。古来より航海者を悩ませてきた海の難所で生きる漁師たちの間では、「船に乗るより潮に乗れ」と言い伝えられてきました。 村上海賊は、このような […]

道の駅「笠岡ベイファーム」で、郷土の国への貢献と犠牲とを考える(トイレ○仮眠△休憩○景観△食事○設備△立地✖️)

笠岡の南東に位置する神島(こうのしま)は、笠岡港を台風の暴風から防ぎ、本土との幅100mほどの神島水道(神島瀬戸)は、船舶の東への近道でした。現在は、笠岡湾の干拓によって陸続きになり、神島瀬戸には橋が架けられて、離島ではなくなっています。 古事記には神武天皇が東征の際、吉備の国の高島宮に8年間滞在したと記述があり、この高島宮が神島の東沖の高島であるとの言い伝えが残っており、神島の西海岸に神武天皇が […]

村上水軍の拠点「因島水軍城」「甘崎城」からの道の駅「多田羅しまなみ公園」「しまなみの駅御島」(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事○設備○立地○)

南北朝時代から戦国時代にかけて因島を拠点として活躍した村上海賊は、その時代の瀬戸内海の制海権を握っていました。遣明船の警護のほか、水軍を重視した毛利軍について多くの幾つもの合戦に参加してきましたが、1576年、織田信長との大阪木津川口の戦いでは、石山本願寺に兵糧攻めを企てる織田信長の水軍を、毛利勢率いる村上海賊が撃破しています。この戦いでは、村上海賊が自ら考案した「焙烙火矢(ほうろくひや)」を敵船 […]

道の駅「よしうみいきいき館」から、村上水軍の南の拠点「来島城」跡へ(トイレ△仮眠△休憩○景観○食事○設備△立地○)

海上支配のため、来島、能島、因島の三家に分立し、長く瀬戸内を支配した村上氏。来島城(くるしまじょう)は、村上義顕(よしあき)の三男吉房(よしふさ)が分家して来島に入って築いたと云われ、 以降6代160年にわたって続く来島村上水軍の拠点であり続けた、最大潮速時速約20kmの来島海峡のまさに喉元に位置する「海賊の城」です。 村上水軍三家のうち最も四国よりに拠点を構えた来島村上氏は、主家河野氏の内紛に乗 […]

道の駅「伯方S.C.パーク」に車を停めて、村上水軍の拠点「見近城」跡へ(トイレ△仮眠○休憩◎景観○食事○設備△立地○)

和田竜さんの小説「村上海賊の娘」をご存知でしょうか。和田竜さんは、映画化された「のぼうの城」で脚光をあびた人気作家で、「村上海賊の娘」は、2014年に本屋大賞を受賞した作品です。 現在の大阪城がある場所に石山本願寺があった時代に、織田信長が退去を求め、それを拒否する本願寺側との戦(木津川口の戦い)で、本願寺側として戦った村上水軍の娘の活躍と生きざまを描いたもので、芸予諸島をはじめ明石海峡や大阪湾な […]

「石州口の戦い」跡から東へ、道の駅「サンエイト美都」から「美都温泉」へ(トイレ○仮眠◎休憩○景観◎食事△設備△立地○)

岸静江は、第二次長州征討の際の石州口の戦いにおいて、単身で関門を守ろうとして討ち死にした幕末の浜田藩士です。名を国治といい、1836年、越智松平家に仕える岸家の長男として群馬県に生まれますが、その年の国替えで浜田の人となります。少年期は極めて優秀な成績で、江戸への遊学も経験した秀才でした。 1860年に浜田藩第4代藩主松平武聡の近習として召し出され、1866年には岸家の家督を継ぎ禄高110石の物頭 […]

道の駅「ごいせ仁摩」にて、尼子氏の盛衰を振り返る(トイレ◎仮眠○休憩△景観○食事○設備○立地○)

尼子氏は、元を辿れば近江(滋賀県)の京極氏の流れで、出雲国守護代でした。応永二年(1395)、江州京極高詮の守護代として富田城に入り、出雲・隠岐両国を治めようと決意したのは尼子持久です。その後、持久の子・清貞が家督を相続して京極からの独立を図りますが、この時は失敗に終わりました。その二年後、富田城を攻め、乗っ取りに成功したのが清貞の嫡男・経久です。守護京極政経に対抗して戦国大名として独立を果たした […]

道の駅「サンピコ江津」から、中国地方の覇者・毛利元就の戦いの軌跡を辿る(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事○設備○立地○)

毛利元就は、互いに対立していた大内氏と尼子氏の双方に仕えながら、多くの戦いを経験しました。元就の時代は、まだ鉄砲の普及が無かった時代です。また、複雑な地形を利用した山城が多く、どれも攻略が難しいものばかりでした。元就の戦いでは、「調略」を用いて多くの戦いに勝利しています。人は、元就のことを「謀神」と呼ぶくらい、謀略に長けた武将でした。籠城戦でも、10倍の兵の尼子氏の大軍を打ち負かした戦いもありまし […]

道の駅「舞ロードIC千代田」はかつて「有田中井手の戦い」があった場所だが(トイレ○仮眠△休憩○景観△食事○設備○立地○)

のちに中国の覇者となった毛利元就の初陣は、永正14年(1517)の有田中井手の戦い(有田合戦)。時に元就21歳でした。この戦いは、圧倒的な大軍を少数で破った戦いとして、織田信長と今川義元が戦った「桶狭間の戦い」になぞらえて「西の桶狭間」などと言われることがあり、元就の指揮を絶賛する向きがありますが、実は元就が全軍の指揮をとっていたわけではありません。 毛利の当主である幸松丸は幼く、もちろん出陣はし […]

三原と言えば「三原城」、三原城と言えば「小早川隆景」。道の駅「みはら神明の里」で地方都市の未来を考えた(トイレ○仮眠△休憩◎景観○食事○設備○立地○)

小早川隆景は、毛利元就の三男として生まれました。隆景はわずか12歳で竹原小早川氏を相続し、天文19年には本家となる沼田小早川氏を相続。天文20年に沼田小早川家の高山城に入り、翌21年には沼田川を挟んだ向かいの新高山城へ。 そして、永禄10年に、海の交通に直結する三原城の築城を始めたと伝わります。沼田東町納所には小早川家の菩提寺である米山寺があり、初代実平から17代隆景までの宝篋印塔(国の重要文化財 […]

道の駅「たけはら」で、竹原市の行政無能と期待することの無理とを確信(トイレ✖️仮眠△休憩✖️景観✖️食事✖️設備✖️立地△)

広島県竹原市の人口は昭和55年の約3万7千人をピークに減少に転じ、令和2年度の国勢調査では約2万4千人。40年間で約1万3千人が減少しています。年齢構成でみるとやはり高齢人口の増加が著しく令和2年度の高齢化率は42.1%で、昭和55年から約19%増加。逆に進学期,就職期に若い世代(10代後半から20代前半)の年齢層が大幅な転出超過となっていて、少子高齢化が急速に進んでいるのです。 竹原市ではこの少 […]

道の駅「湖畔の里福富」で、湖面に映り込んだ紅葉狩りを堪能(トイレ○仮眠○休憩◎景観○食事○設備◎立地○)

福富ダムは、広島県の沼田川総合開発事業により建設されたもので、流域の洪水調整、既得取水の安定化、河川環境保全のための流量確保、水道用水の確保を担う、流域2つ目の多目的ダムです。ちなみに1つ目は、沼田川支流の椋梨川に建設された椋梨ダム。集水域160㎢を有し、昭和44年に完成しています。このダムも多目的ですが、水力発電用水の役割も担っています。 福富だむは、1968(昭和43)年の予備調査着手から20 […]

道の駅「よがんす白竜」から、椋梨ダム55年ぶりの常時満水位を見物(トイレ○仮眠○休憩◎景観○食事◎設備○立地○)

「椋梨ダム」は、山陽自動車道の河内ICから国道432号線を北に20km弱、 もしくは山陽自動車道の三原久井ICから国道486号線→国道432号線を北西にこれも20km弱走って到着する、 広島県南部の旧大和町(現三原市大和町)に昭和44年に完成した多目的ダムで、「白竜湖」はこのダムによって出来た湖です。 椋梨ダムでは現在、水力発電設備の試験運転のため、一時的に貯水位が「常時満水位」と呼ばれる最高水位 […]

道の駅「豊平どんぐり村」のトップシーズンは、やはり秋(トイレ○仮眠○休憩◎景観○食事○設備○立地○)

私もかつてそうでしたが、落ちているどんぐりを見つけては、その木を無邪気に「ドングリの木だ」などと言っていました。しかし「ドングリ」とは、実の形状を表しているに過ぎず ドングリという名前の木はありません。 たとえば、これは「コナラ」の木です。 ドングリがなるのはブナ科の樹木で、ブナ科はさらにブナ属、コナラ属、シイノキ属、マテバシイ属、クリ属に分かれます。落葉樹だろうと決めつけていましたが、常緑樹もあ […]

「郡山合戦」と「郡山城」を道の駅「北の関宿安芸高田」から高みの見物!(トイレ○仮眠○休憩◎景観○食事◎設備○立地○) 

尼子晴久が三万の大軍を率いて吉田郡山に侵攻してきたのは、天文九年(1540)のことです。最初、尼子軍は「風越山」というところに本陣を置きました。風越山は郡山城からやや遠い上、標高も555メートルと高く、大軍の収容には向かないところでした。ここを本拠に郡山攻撃をするつもりというよりは、ここは単なる「着陣地」。「後方兵站基地」のような役割と多少の「防御機能」を整えるためだったようです。 尼子軍はほどな […]

「毛利元就」の「謀略に明け暮れた処世術」について、道の駅「三矢の里あきたかた」で考える(トイレ◎仮眠△休憩○景観○食事○設備◎立地○) 

サッカーJ-1サンフレッチェ広島は、1992年4月24日に広島市をホームタウンとして誕生したプロサッカーチームで、言わずと知れたJリーグ創設期からの「オリジナル10」のひとつ、名門中の名門です。今シーズンも非常に強く、最終節で惜しくも優勝は逃したものの、J−1最多得点の攻撃力は本当に素晴らしいものでした。 私は、幼少期の数年、広島県(福山市)で育ったということから、このチームのファンであってもおか […]

中世の名城「三隅城」へ。道の駅「ゆうひパーク三隅」から(トイレ○仮眠○休憩◎景観◎食事○設備○立地○)

三隅城は、この地の豪族・三隅氏の初代兼信が、三隅の町並みの東方にそびえる標高362mの高城山(たかじょうざん)の頂上に寛喜元年(1229)に築いたもので、三隅氏代々の居城でした。中世の石見における代表的名城の一つで、十指に余る支城を持ち、難攻不落を誇っていました。 南北朝の頃には、南朝方にくみした三隅氏四代兼連(かねつら)が、暦応5年(興国3年、1342)周辺の諸城を落として攻め寄せた上野頼兼の軍 […]