明智光秀の「周山城(址)」から、「周山街道」をひたすら北上。「陰陽道」ゆかりの「名田庄」へ(トイレ○仮眠○休憩◎景観○食事○設備○立地◎)

京北周山町の西に位置する黒尾山(標高509.4m)の東峰、城山(標高480m)の山頂付近一帯の杉林の中に、明智光秀が築いた山城・周山城(しゅうざんじょう)の遺構が残されている。

城は桂川と弓削川の合流地点の西、山の頂にある。冒頭写真の「名田庄」を経由して小浜まで抜けていく「周山街道」を一望することができる。

ちなみに周山という名は、光秀の命名。BC1000年代に、周の武王・姫発は悪政が続いていた殷を牧野の戦いでうち破り、殷周革命を成した。光秀は中国・周の武王のその後の善政に倣い、地名を縄野から周山に改めさせ、城も周山城と命名したと言われている。
周山城を築く前、この地は宇都(宇津)右京大夫が四代に渡り北桑南部を支配し、暴力による悪政を敷いていた。1579年、光秀はこの宇都(宇津)城を攻め、戦うことなく降伏させ、自らの戦略拠点にするため、城の修復を急いだ。この際に、周辺の神社仏閣の石垣や墓石も徴用 し、資材として使ったという。そして城は、周山城と名付けられたのだ。

1582年に光秀は信長を本能寺で討つわけだが、この周山城築城の頃には、信長が天下をとれば「悪政」に向かう確信があったのではないか。「周山」命名の由来からして、悪政許すまじ、つまり信長を討たねばならないと考え始めていたのだろうと、私は考えている。

光秀は、周山城を築城しつつ信長を討つことを考えていた(私論)

宇津氏ら土豪の活動と、周山街道の抑え、さらに支配する領民に対する政治・経済的な意味も含めて周山城は築城されたと言われている。周山の地は山陰にも通じていて、信長には1581年に毛利輝元が奪還した鳥取城攻略の計画があったため、光秀は周山城信長の御座所として築城したとも言われている。

しかし光秀が周山城を築き、明智光忠を城主に配したのは本能寺の変の直前で、1582年に光秀は本能寺の変を決行している。

光秀が信長を討つ決意をした背景には諸説あるが、信長より徳川家康の慰労を命じられたこと、さらに、秀吉の備中高松城包囲に救援を命じられたことなど光秀には受け容れ難い命令に、さすがの光秀も反発したのだろう。かねてより信長妥当を考えていた光秀は亀山城に入って愛宕山に詣り、謀反を決意したに違いない。

1581年旧8月。光秀は、堺の茶人・津田宗及を周山城に招き、山上の本丸天守で十五夜の月見を愛で、一晩中茶会が催されたという(『津田宗及茶湯日記』)。
この時点で、翌年に信長を討つ決意は完全に固まっていたと私は見ている。

周山城の特異な構造から察する光秀の思い

周山城には、当時としては最新の、織田信長系の築城技術が用いられている。

城郭史上の歴史的位置づけとしては、信長の旧二条城、安土城、秀吉の大坂城、聚楽第の間に位置しているが、この間に山城から平城・定型した城へ移行しており、周山城は山城としてはこの時代最後のものとなった。

周山城は、大きく2つの部分に分けられている。城山を中心にした大規模な主郭である東の城(東城)と、その北西にある峰を中心にした小規模な西の城(西城)の二つだ。

前者は「石の城」、後者は「土の城」になり、周山城では両者が共存している。

2つの城の間には、防御機能として尾根筋の東西方向の谷を南北に切断する形で大規模な大堀切が2つ築造されている。

石垣石材は自然石・荒割石を使用し、隅角部は強度を増すために「算木積(さんぎ-づみ)」にしているが、基本的には加工しないで割ったままに積む「野面積(のづらづみ)」である。

本丸(主郭)は中央にあり、本丸周辺は大きく3つの郭に分かれ、各面が削平され総石垣により防備している。初川家所蔵『周山城図』によると、山全体が城として機能していた。本丸の東の郭は「二ノ丸」、本丸の西の郭は「小姓丸(小姓郭)」といわれ、数段の削平によりなる。

特徴的なことは、二ノ丸と小姓丸の2つの郭間は、短い登り石垣になって繋がれていたことだ。また、天守台南半分に穴蔵(地下)があり、入口は3カ所に設けられ、通路幅のみが開けられて、地下室と天守が繋がっていた。ほかに類例はないという。

光秀は、何を想定してこのような城を築いたのだろうか。

周山街道の北半分を走って

国道162号線、通称「周山街道」は、京都市から福井県の小浜市までの大動脈であり、「西の鯖街道」と呼ばれる道だ。
私は京都在住期間が長かったので、京都市から道の駅「ウッディー京北」まで、周山街道の南側は何度も走って熟知している。

しかしそこから福井県への周山街道の北側は、若狭に海水浴に行ったときに利用したことはあるが、今までそんなに足を伸ばしてこなかった。そこで今回、一度行ってみたかった「名田庄」まで、周山街道を行くことにした。

途中の道の駅としては「美山ふれあい広場」がある。立ち寄って、道標があったので確認したら、まったく役に立たない代物だった(笑)。

ローマやモスクワや北極点をここから案内してどないすんねん?

京都と福井の県境の「堀越峠」。この「堀越トンネル」を抜けたら福井県だ。

福井県に入ったら、もう名田庄は近い。

道の駅看板

陰陽道宗家安倍家ゆかりの地「名田庄」

道の駅「名田庄」は、福井県南西部の旧名田庄村(現おおい町名田庄)にある。

名田庄村は陰陽道(おんみょうどう)の宗家である安倍家ゆかりの地。

戦国時代に戦火を逃れ京都から移住した安倍春明が「安倍神道」を成立させた場所である。

陰陽道に基づく暦を創ったのもこの地で、駅横には暦歴史館もある。

駐車場は、道の駅の施設前に、十分な広さが確保されている。

トイレは少々年季が入っているが、清掃をきちんとしていただいており、気持ちよく使わせていただけた。

周山街道を走っていて少し休憩をとりたいドライバーには絶好の立地に、のんびりできる環境が用意されている。

名田庄漬けと自然薯そばが特産品

道の駅の施設としては、物産館、そば処、宿泊施設「流星館」。 流星館内にはレストランがあり、近くにはバーベキュー広場、テニスコート等のスポーツ施設、暦記念館もある。

物産館では、名田庄漬けと自然薯そばが2枚看板。

名田庄漬けは30年ほど前の旧名田庄村の時代に村興しのために開発された特産品で、地産の野菜の漬物だ。 切り干し大根、胡瓜の漬物、茄子漬け等の種類がある。

自然薯そばは、もう一つの村の特産品。大々的に販売されている。

「よってっ亭」では地産のそばを提供

私は自分がダジャレ大好きなくせして、他人のダジャレには厳しい。

自分に甘く、人に厳しい最悪の私だが、このそば処「寄ってっ亭」も、そばはいただけてもダジャレの店名はあまりいただけないレベルだ(笑)。

しかし、名田庄の自然薯そばをベースにしたそばは美味しい。

メニューは多彩で、私はざるそばをいただいたが、他に月見そば、きつねそばといった定番のそばから、 カレーそば、にしんそば、納豆そばまで、13種類もある。