80年前までの50年間は「四十連隊」「五十五師団」などが激しい軍事訓練を繰り返していたのに、それ以降の80年間を費やして今や1,000を超える「連」が自由に踊り狂う、最高の国になった日本。

例えば、今では年間100万人以上が訪れる観光地となった鳥取砂丘は、今から130年前、1896年に陸軍歩兵第四十連隊(鳥取)創設を機に砂丘訓練が始まって以来、終戦まで半世紀にわたって激しい軍事訓練が実施されてきた「軍事演習場」だった。

鳥取40連隊の本部
鳥取四十連隊の本部

私の父の兄たち4人は海軍に入隊。フィリピンのミンダナオで戦死したが、私の母の父、私にとっては母方の祖父は、昭和12年、母の誕生直後に陸軍に招集され、陸軍歩兵第四十連隊の一員としてここ鳥取砂丘で陸軍兵士としての訓練を受けた。

祖父は、この軍事演習場で重装備を身につけた状態で真夏の気温50度にも達したという灼熱の砂丘を駆け、銃を撃つ訓練を重ねた。

夏は灼熱地獄、冬は日本海からの寒風という厳しい環境。

兵隊たちは砂に足を取られながら、斜度30度以上の坂で上り下りを繰り返したという。

砂丘での軍事訓練(「写真で綴る市民の暮し」より)
砂丘での軍事訓練(「写真で綴る市民の暮し」より)
砂丘での軍事訓練(「鳥取因幡の100年」より)
砂丘での軍事訓練(「鳥取因幡の100年」より)

旧陸軍四十連隊とは

旧陸軍の歩兵第四十連隊(ほへいだいよんじゅうれんたい)は、明治29年(1896)に創設された部隊で、鳥取県と兵庫県、岡山県の一部から徴兵された兵士で構成されていた。
「鳥取県史」には、『健脚で質朴な優秀部隊として全国に名を知られた四十連隊は、鳥取砂丘で旺盛な攻撃精神を養った』『山陰海岸一帯の砂丘地と峻険な久松山が健脚部隊を生み出したわけで、その演習・訓練は昭和の敗戦まで一日として休むことはなかったとされている』と記されている。

砂丘会館手前の松林の中に、鳥取四十連隊の碑が建立されていて、そこにはこう刻まれている。
「われら この地に 祖国を守るため 身心を 鍛錬したり」

鳥取砂丘の40連隊記念碑(砂丘会館前)
鳥取砂丘の四十連隊記念碑(砂丘会館前)

実戦を想定した訓練をするのに鳥取砂丘はまたとない条件だったらしく、だからこそ鳥取の兵隊はみな足腰が強く、強靱な体力と忍耐力を持つと言われていたようだ。

靖国の246万6584柱の一柱となった祖父

しかし。

いかに肉体を鍛えようとも生身の身体は爆弾、銃弾の雨にはひとたまりもなく、祖父は戦地に散った。

母すら覚えていないのだから、祖父の笑顔は、残っている写真から想像するよりない。

一般人を含めて310万人もの日本人が命を落とした太平洋戦争は、80年前の8月15日に終わった。

靖国神社に祀られている246万6584柱うち、213万3915柱は大東亜戦争(太平洋戦争)で戦って、日本のために散った戦没者の英霊である。父の実兄4人、そして母の実父は、ここにに等しく祀られる5柱となったが、その霊はいまだかつて泯びず、とこしえに天地の間にあると私は理解している。

だから靖国へ参拝するのは家族としても日本人としても当然のことであり、いつもなら8月15日は靖国神社にいる私である。

私が永眠する予定の生福寺にて黙祷

ただ今日私は、自分がご先祖さんのもとで眠るために、終活として「永代供養」を段取りした生福寺にいて先祖供養の「施餓鬼会」に参加したため、今日は靖国神社にはいない。
しかし、生福寺にいるみんなと一緒に、そして日本人の皆さんと心を一つにして、正午には天地の間にある母方の祖父と父方の叔父さんたちせめて血縁5柱が落とす涙の滴を汲まんと黙祷を捧げた。
もちろん敵国であったアメリカも、アジアの皆さんも、ナチスに荒らされたヨーロッパの皆さんも、同様にたくさんの尊い命を失った戦争だった。

犠牲になった方々のために、2度と過ちを繰り返すまいと誓うのは、国境や人種を超えて、人間として貫かねばならない在り方であろう。

8月6日、9日、そして15日。今後、どれだけの日本人が、戦争の悲惨さのリアリティを持って、あるいは英霊への感謝を込めて、黙祷を捧げ続けるだろうか。

少なくともその継続無くして、「日本の平和」はない。

軍事訓練の強制から解放され、みんな踊る阿呆になれた

黙祷を終えてから、徳島の阿波踊りを見に行った。
人混みが大嫌いな私だが、思い切って、平和の願いを踊りに託す阿波踊りに、今年は参加することにしたのだ。
戦中、徳島県で徴兵された人たちは主に徳島連隊区司令部が管轄する部隊に配属されたが、四国四県を徴兵区とする「第55師団」が存在し、太平洋戦争末期には、海軍の特攻隊基地が、徳島県阿南市の小勝島に設置されていたので、そこに所属した人たちも少なくない。
しかし、その時代から80年後の徳島は、平和そのものだ。
かつての「連隊」「師団」という括りが、1,000を超える「連」へと変わり、10万人を超える人たちが笑顔で、平和への祈りを心に自由に踊り狂える世の中になった。
改めて。
「命」そして「平和」に勝る、大切なものはない。
次々に踊り込んでくる阿波踊りの、実に自由な「連」に、感無量になった。

平和を祈って踊る祭り、阿波踊り最高!
平和だからこその笑顔、枚数は多いけど、一緒に味わっていただければ幸いだ。
今の、平和な日本の素晴らしさは、何者にも変えられないのだから。