
明治の初めから大正・昭和初期にかけて。
「殖産興業」の国策のもと、当時の主力輸出産業であった生糸工業で大きく発展していた諏訪地方・岡谷へ、現金収入の乏しい飛騨の村々から大勢の女性たちが、工女として出稼ぎのために野麦峠を越えていた。その多くは13歳くらいの少女であった。
少女たちは一年間稼いだ賃金を持って故郷へと帰るために、年の暮れに雪深い野麦峠を越えて飛騨で正月を迎えようとしたが、遭難して命を落とした少女たちがたくさんいたという。
とうちゃん、かあちゃんに会いたかっただろうに。胸が締めつけられる。
この史実は、昭和43年(1968年)に発表された山本茂実(やまもと・しげみ)のノンフィクション『あゝ野麦峠』に生々しく描かれ、昭和54年(1979年)には映画化もされて全国的に有名になったが、『就労先で妊娠して厳しい峠越えの最中に胎児を流産する工女も少なくなかった。故に野産み峠となり野麦峠となった。』との記述には涙するほかない。

昭和の初め、列をなして冬の野麦街道を歩く工女たち。列の後の方に、13歳ほどの女の子がかたまって、大人について歩いてくるのが見える。
私の娘がこの年頃だった頃を思い出すと、言葉が出ない。

出稼ぎの行進の様子を再現する「野麦峠まつり」(5月)。
実際に行ってみると、その峠越えはあまりに厳しい。いい季節に、横着にも車で行ってそう思うのだから、真冬に歩いて越えるなど、彼女たちのような苦労を知らない私には到底できないことである。

これは隈笹。飛騨地方ではこの実のことを野麦と呼び、地名になったと言われている。
「あゝ野麦峠」にある「野産み峠」が地名になったというのなら、それはあまりに悲しすぎるではないか。

峠近くには、地蔵堂があった。
中世の野麦峠
かつて「飛騨道」「善光寺道」とも呼ばれていた「野麦街道」は、古来より、東日本と西日本を結ぶ重要な道路であり、飛騨国と信濃国を結ぶ主要路であった。
中世には、北陸と信州を結ぶ交易路として、能登で取れたブリ(鰤)を飛騨を経由して信州へと運んだ。信州では飛騨ブリとして珍重され、能登では1尾=米1斗の値段が、峠を越えると米1俵になると言われ、野麦峠の麓にある奈川は、運搬を担う人と牛の中継地として重要な場所であった。
この頃から野麦街道は「ブリ街道」とも呼ばれ、江戸時代には、尾張藩の庇護のもと発達した尾州岡船と呼ばれる牛による運送が、貴重な産業として奈川の地域を支えた。
野麦街道のブリの輸送は、明治35年(1902年)に国鉄篠ノ井線が開通し、松本地方が鉄道で結ばれるまで続いた。

街道最大の難所であり続けて
標高1,672mの野麦峠は、街道の中で最大の難所である。
道が険しく、荷物の運搬には馬が使い難かったため、傾斜に強い牛が用いられていたほどだ。
冬は雪が深く天候も荒れることがあるため、およそ13km程の峠越えをするのに丸一日を費やすことも。
多くの旅人が命を落としていたことから地元住民は幕府に対策を再三願い出ていたが、天保12年(1841)にようやく峠に「お助け小屋」と呼ばれる救護や休息のための小屋が建てられた。
この「お助け小屋」は、昭和45年(1970年)に岐阜県側に移築。古民家を移築した建物は現在、休憩や食事ができる観光施設になっている。

そして時代は、明治、大正、そして昭和へ。
写真、昭和の初期、岡谷の製糸工場で働く工女たちの姿だ。
野麦峠を越えて働きに出て、働き詰めだった飛騨地方の彼女たちが当時の日本を支え、昭和から平成、そして令和の今があり、私たちの幸せな生活があるということを忘れてはならないだろう。
現在の野麦峠
野麦街道は、長野県道・岐阜県道39号(奈川野麦高根線)となって、そのほとんどが舗装されているが、旧道の一部は当時のまま残されている。
岐阜県側は県立自然公園として旧街道を利用したハイキングコースが整備され、峠の資料館「野麦峠の館」「お助け小屋」などの観光施設があり、長野県側では県史跡として整備され、旧街道の一部1.3km程を保存している。

現在の野麦峠の様子。標高は1672mある。





道の駅「風穴の里」
野麦峠から北東方面に数十キロ、長野県西部の旧安曇村(現松本市安曇)に、道の駅「風穴の里」がある。


ここは、避暑地として名高い上高地、温泉地として知られる白骨温泉がある地域の一角。
沿道の国道158号線は、松本方面からこれらの観光地に向かう唯一の道路で、交通量は多い。
道の駅も比較的多くの客で賑わいを見せ、駐車可能台数が50台程度と少ないため、ハイシーズンは駐車場待ちが出るようだ。

トイレは駐車場から近く、とても便利。
6月の今は快適だが、これから夏もきっと涼しくて、トイレもすぐそばなので、仮眠などとてもしやすそう。




道の駅には、物産館、レストラン、売店がある。
風穴見学
駅名にもなっている「風穴」とは、冷蔵庫などなかった時代の食品保管場所だ。
道の駅が位置する旧安曇村稲核地区には昔から山の斜面から冷涼な空気が噴き出す場所があり、 江戸時代よりこの空気を用いて天然の冷蔵庫として食品を保存していた。これが「風穴」である。
風穴は養蚕産業にも利用され、地域の発展に大いに貢献した。 道の駅からは歩いて約10分。無料で見学することができる(冬期は閉鎖)。

風穴は、古風で質素な木造の建物の中にある。


涼しい、というか寒い。
部屋の中は風穴から流れ込む冷たい空気で、なんと8℃位の温度が保たれているというから驚きだ。
道の駅「風穴の里」では、今もこの風穴を食品の醸造/保存に用いており、その食品を物産館で販売している。