なぜ「ブリ街道」?なぜ「籠の渡し」?なぜ「ケロリン」? 道の駅「細入」で蘊蓄(トイレ○仮眠○休憩◎景観◎食事○設備◎立地◎)  

「飛騨街道」は、越中富山から神通川沿いをさかのぼって、飛騨高山に通じていた。

街道は3つのルートがあって、その一つは恐怖の空中ブランコ「籠の渡し」で渓谷を渡っていたという。

怖いもの見たさでそこに行ってみたが、高所恐怖症の私のことである。その場から峡谷を眺め、そこを渡っているところを想像するだけで、ただでさえ可愛らしいキ●タマがみるみるビー玉ぐらいに縮み上がった。
ところでこの飛騨街道、毎日通っても、ひさし「ぶり街道」と呼ばれていたのはこれいかに?
それは富山湾で獲れた「越中ぶり」がこの街道を通って高山方面へ大量に運ばれていたからで、私も道中、大ぶりの木箱に入った高価な「ぶり寿司(写真)」を、しぶりず、はぶりよく購入したw。
もう一つのこれいかに?は、富山では「飛騨街道」「高山道」と言うのに、飛騨では「越中街道」と言うのは??さらに宮川沿いを通った道を「越中西街道」、高原川左岸沿いの道を「越中東街道」、高原川右岸沿いの道は「越中中道」と言ってややこしいが、これいかに?

名前が地域によって変わったのは、「おらが村」中心発想だったから。

自分の村から出て着きたい目的地の名前を勝手に?つけていた、その名残である。

飛騨街道の3つのルート

さて「地動説」的立場による統一見解はこうである(笑)。
飛騨街道には①②③の3つ(脇道を入れて4つ)のルートがあった。

①東街道…神通川右岸沿いに東猪谷関所(加賀藩)を通り、高原川右岸の荒田口留番所を通り、茂住、船津(神岡)から高山にいたる道。
②西街道…神通川左岸沿いに楡原、西猪谷関所(富山藩)を通り、蟹寺を経て宮川沿いに小豆沢口留番所を通り、古川から高山にいたる道。これがのちに本道となる。
③中街道…西猪谷関所を通り、蟹寺で宮川を、今回の旅で寄ったとんでもない「籠の渡し」で渡って谷村へ出て、高原川左岸沿いに中山口留番所を通り、船津で東街道に合流する道。
ちなみに4つ目の脇道は、八尾から大長谷川沿いを庵谷の切詰関所(富山藩)を通り、二ッ屋口留番所を通り西街道に合流する二ッ屋街道である。

このうち、信じられないような恐怖の空中ブリ、もとい、空中ブランコがあったのは、③のルートの、越中と飛騨の境である。

命懸けで籠に乗って川を渡った中街道」へ

蟹寺(富山)と谷村(飛騨)の間の、宮川のV字峡谷の断崖を渡る「籠の渡し」は、飛騨街道の難所を渡る手段として実際に存在した。

恐怖の空中ブランコ「籠の渡し」は、あまりに珍しい景観のため、富山藩10代藩主・前田利保や、8代藩主の母・自仙院などが見物で訪れた。また、歌川(安藤)広重が『六十余州名所図会「飛騨 籠渡し」』、三代歌川広重が『日本地誌略図「籠渡之図」』でその様子を描いている。

この版画には、両岸にいる籠当番の村人に縄を引いてもらって渡っていた様子が描かれているが、渡し賃は六文ともいわれていて、これをケチってか、一人で渡る猛者もいたそうだ。

文化12年(1815年)にここを通った僧・野田泉光院(成亮)は、日記に「日本一難所渡り也」と記している。

まったく同感だが、初めてここを渡った人は凄すぎる。

転落死もさぞ多かったろう


写真は現在の「その場所」だ。

そして、これが乗って渡った「籠」である。写真は「猪谷関所館」に展示されているものだ。

この籠は、次のようにして設置されたという。

「両岸に頑丈な力杭を打ち立てます。この力杭に山ブドウや藤づるをよって作った大縄を結びつけます。この縄の太さは直径15〜20センチほどあったそうで、この縄に籠を取り付けます。籠は長さ約5メートルほどのハンノキの枝を曲げて十字に組み合わせます。その下に縄を巻いた尻当て(曲輪蓙〔かわござ〕)を取り付けます。籠がよく滑るように、ハンノキを半円形に切り内側をくりぬいた刀良(とら)を大縄にかけ、その下に籠を吊り下げ、籠の下に引き縄と控え縄を結びつけ、それぞれを両岸の力杭に結びつけます」

って、プラモデルの組み立て方説明でもあるまいし、よくも淡々と語れるものである。

県境の近くにある道の駅

この「籠の渡し」が行われていた所のほんの少し北に、道の駅「細入」がある。
北陸自動車道の富山ICから国道41号線を南に20km、富山県南部の旧細入村(現富山市)は人口1,000人ほどの過疎の村。 富山県と岐阜県の県境で、両県を跨ぐ国道は「スーパー酷道」の汚名が定着している国道471号線ほか2本、舗装はされていても要するに昔からの飛騨街道3本のルート、ほぼそのままなのである。

駐車場には車がパラパラと。

トイレは駐車場のそばに独立していて、駐車場との組み合わせは「仮眠」に最適だ。

のんびり休憩できる。お子さん連れも大丈夫。

五平餅、牛串、鮎の塩焼き、ソフトクリーム

お腹が空いたら、建物内にあるテイクアウトコーナー、屋外にある「五平餅の店」「牛串の店」「鮎の塩焼きの店」などで、小腹を満たすことができる。

テイクアウトコーナーではソフトクリームが人気。

季節ごとに「マロン」「いちご」「メロン」など、一部味付けが変わるようだ。

富山と岐阜の特産品が競い合う

道の駅には、物産館、農作物直売所、フードコート、屋外の売店などがある。
県境の道の駅の特徴は、ここなら富山県・岐阜県の両県の特産品を競い合うように販売しているここと。 県境の道の駅だから当たり前なのに「富山県内最南のすし直売所」と銘打っていたり、「ケロリン」コーナーが可愛かったりして、富山土産と岐阜土産のアピール合戦は富山県が優勢に見えた。

「ケロリン」の蘊蓄

銭湯マニアならご存知だろう、全国の銭湯で必ずと言っていい程?使われていた「ケロリン」と書かれた黄色いプラスチック製の湯桶やタオルなどがこの道の駅で販売されているのは、ケロリンの生みの親が、富山市に本拠を置く「内外薬品」「富山めぐみ製薬」だから。知名度抜群の「ケロリンおけ」が、 富山県の特産品として紹介されている。

ところでこの「ケロリンおけ」。いつから、どのような理由で全国の銭湯に出回るようになったのかご存じだろうか?

「木→プラ」「置き薬→薬局」の流れをつかむ

『ケロリンおけ』が誕生したのは1963年。

それ以来、年約5万個のペースで生産し続け、累計で約250万個が全国の銭湯や旅館、ホテル、レジャー施設などで使われているとされる。

1963年といえば、ちょうど翌年に東京五輪開催を控えた高度経済成長期のさなか。

全国の銭湯では衛生面や耐久性の問題からそれまで使っていた木おけをプラスチック製のおけに切り替える時期にさしかかっていた。

「そのプラスチックのおけに文字を印刷して広告にしてみたらどうだろうか?」

閃いたのは、東京の広告会社、睦和商事(江戸川の個人企業)の山浦和明社長。社長はなぜか日本海沿いの酒造、製薬、化粧品会社などを中心にスポンサー探しの旅を続け、最後に富山県の内外薬品にたどり着いた。

内外薬品の主力製品は「ケロリン」。鎮痛効果がある「アスピリン」と胃の粘膜を守る「桂皮(けいひ)」を配合した鎮痛薬は効き目が早く、「飲めば痛みがケロリンと治る」ことから「ケロリン」と命名された。もともとは富山の薬売りが全国を回る「置き薬」として販売されていたが、内外薬品はこの時期、急増していた薬局への販路拡大を模索していた。

「桶」だけに「オーケー」が出た?

「薬は味見ができない。商品名の知名度を上げるのが効果的。銭湯のおけを広告媒体にするアイデアは面白い!」

と、当時内外薬品の副社長だった笹山忠松氏は山浦社長に向かって、「桶」だけに「オーケー」と叫んだかどうかは定かではないが、兎にも角にも両者は意気投合した。

そして、全国各地の銭湯に営業をかけるため十数台の自動車でキャラバン隊を組み、宣伝を兼ねながら行脚を続けた結果、「ケロリンおけ」は徐々に全国の銭湯に普及していったのである。

ちなみに内外薬品は私が生まれた年=1958年にCMソング「青空晴れた空」(サトウハチロー作詞、服部良一作曲)を制作。さらに後楽園球場(場所は違うが現在の東京ドーム)のゴミ箱や東京タワーの入場券の裏側にも「ケロリン広告」を展開するなど、徹底的に「ケロリン」の名を売った。

初期は白色、黄色に変わって関西版は小ブリに

初期は白色だった「ケロリンおけ」。「湯アカが目立つ」ために後に黄色に変更されたが、お持ちならかなり希少性が高い”お宝”だ。

みなさんご存知の黄色いケロリンおけ。

左が関東版、右が関西版で、「関東版」と呼ばれる通常のサイズは直径22.5センチ、高さ11.5センチ(重さ360グラム)なのに対し、「関西版」のサイズは直径21センチ、高さ10センチ(重さ260グラム)と一回り小さい。

関西では最初に湯船からおけでお湯をくみ上げ、掛け湯をする習慣がある。だから、「客が持ちやすいように軽くした」とも、「掛け湯の量をできるだけ節約するように小さくした」ともいわれている。

普及を促した画期的なビジネスモデル

さて、「ケロリンおけ」は全国の銭湯に次第に広がったが、元経営コンサルタントとしては、この広告戦略成功の鍵となった、画期的なビジネスモデルを紹介しないわけにはいかない。

「ケロリンおけ」は睦和商事が群馬県にあるメーカーに委託生産し、内外薬品と共同のキャラバン隊などを通じて全国の浴場組合、問屋、旅館、ホテル、レジャー施設などに売り込んだ。その販売個数に応じた広告費を内外薬品が睦和商事に支払うという仕組みだ。

広告費を内外薬品が負担するから、銭湯にとっては割安で「ケロリンおけ」を仕入れることができる。その価格は条件によって柔軟に取り決められた。

大きな枠組みとしては、「ケロリンおけ」1個あたりの原価が600円、その半額の300円を内外薬品が広告費として負担する」というもの。この条件だと銭湯側は1個300円で「ケロリンおけ」を仕入れることが可能。「ケロリン」をPRしたい内外薬品にとっても、おけを安く仕入れたい銭湯にとっても、双方にメリットがあったわけだ。

トランプも唸る「ウインウイン・ディール」の古典である。

なぜ「ケロリン」が浴場市場を独占できたのか?

よくできたビジネスモデルなのだが、元経営コンサルタントとして疑問に思ったことはある。
銭湯のおけにほかのメーカーの広告が印刷されることはなかったのか、そして、なぜ「ケロリン」が浴場市場を独占できたのだろうか?ということだ。

一つには、維持費や手間が大変なこと。二つ目には先行できた強みが大きかったこと。そして3つ目は笑ってしまうが、睦和商事は事実上、山浦社長1人で切り盛りしており、ほかの広告を請け負うための時間的余裕がなかったこと。
私もそうだったが、手が回らないというのはピンのビジネスパーソンの「あるある」だ。

そして、4つ目が素晴らしい。それは、おけの頑丈さ。

私はこれが市場独占の決め手だったと思う。

ポリプロピレン製の「ケロリンおけ」は耐久性に優れ、腰掛けとして使っても壊れることはない。普通に使えば10年は楽勝。「永久おけ」とも呼ばれているほどだ。

おけが長持ちするので、先行者としていったん全国の浴場市場を独占したら、それを覆すのはなかなか難しかったというわけだ。