
2024年1月1日(月)に本震が起こった能登半島地震は、地盤の隆起という滅多にない現象を引き起こした。能登半島の北西部で4メートル以上、能登半島北側の海岸でも複数の地点で2メートルを超える地盤の上昇が確認されている。
地震の震源地である石川県能登半島には、再稼働の計画が進んでいたものの発災時には稼働していなかったためかろうじて事なきを得た志賀(しか)原発がある。そして、計画されたが建設されなかった珠洲(すず)原発が、もしも建設されていたら…。
珠洲(すず)原発は建設が計画されて以来、長きにわたって住民同士の対立を引き起こした末に建設中止となっていたが、珠洲の街は壊滅的な被害を受けた。
志賀(しか)原発は福島第一原発の事故などの影響で運転停止状態が長期化していたが、今回はそれが幸いした。
私は、地震から1年半が過ぎた、志賀原発の現状を知りたく、現地に向かった。

志賀原発は再稼働寸前だった
1993年に1号機、2006年に2号機の運転を開始した北陸電力の志賀原子力発電所は、石川県唯一の原発だ。2011年の3月、東日本大震災が発生し、福島原発事故の後、日本全国すべての原発が運転停止となった際に、志賀原発も運転を停止した。

その後、政府は2014年に安全が確認された原発から再稼働をすすめる方針を打ち出し、以来11年間、志賀原発の再稼働を巡る攻防が繰り広げられてきた。
2012年7月には原発直下に活断層がある疑いが浮上し、立地調査や2006年に既に終了していた再確認調査の正確性が問題となった。専門家は「典型的な活断層」と指摘し、立地不適格で廃炉となる可能性も高まった。
しかし、北陸電力はこれに反論し、新しい調査方法を用いて「活断層でない」とする根拠を提出。能登半島地震からおよそ10カ月前の2023年の3月、原子力規制委員会がこれを認め、敷地内を通る断層を「活断層ではない」と結論づけていた。その後、経団連が視察に入るなど、志賀原発の再稼働推進の動きは非常に強いものだっただけに、強硬に再稼働を進めようとした輩は冷や汗をかきながら胸を撫で下ろしたことだろう。
志賀原発の被災
志賀原発が位置する石川県羽咋(はくい)郡志賀町(しかまち)から30キロ圏内でも地震後孤立状態となった場所が多くある。原発事故があった際の避難ルートとなっている「のと里山海道」の複数カ所が大きく陥没して通行不能となったのだ。






幸運にも志賀原発は稼働していなかったが、外部電源や非常用電源が一部使えなくなり、放射線監視装置(モニタリングポスト)の一部も測定不能になるなど多数の被害が出た。もし稼働していたとしたら、福島第一原発と同様の経過をたどった可能性は大きかった。


志賀原発の立地そのものが不適切
2023年10月6日の審査資料で北陸電力は、能登半島北部沿岸断層帯をひとまとまりの活断層として扱っており、それら相互の関連を想定したり、たとえば兜岩沖断層と富来川南岸断層をひとつながりのものとして扱うということは一切していない。
志賀原発を再稼働させたくて仕方ない北陸電力による、こうした活断層の想定は、不十分すぎると言わざるを得ない。
今回の地震の教訓からは、活断層をまたぐような活断層による地震も想定すべきだし、海成段丘面の高度の変化や海底の地形を考慮して、少なくとも兜岩沖断層と富来川南岸断層などはひとつながりの活断層として扱うべきである。
また、能登半島の北岸から西岸にかけての90kmにわたる海岸線付近の土地が隆起したことがわかっているが、珠洲市の北岸と輪島市の北西岸では特に隆起量が大きかった。
珠洲市の北岸では、12万~13万年前につくられはじめた海成段丘が標高100m以上の高さにまで隆起していることがわかっている。今回のような地震による隆起規模で推測すると、50回以上の地震によって現在の高さに持ち上がったことになる。
志賀原発の原子炉建屋は12万~13万年前の海成段丘の上に建っており、標高は約20m。今回の一連の地震では、志賀原発が建っている地盤の隆起に目立ったものはなかった。しかし、過去の地震で隆起した結果、現在の高さにあるのだから、今後も隆起を続けるのは確実なのだ。
地震で地盤が隆起する際に、もし地盤の方に大きなひび割れがあったら地盤の上にのっている建物・構造物が自重によって壊れたり、倒壊したりする可能性は高い。そもそも志賀原発は、不適当な場所に立地しているのだ。
珠洲原発が中止されたからこそ
石川県珠洲市に原発の建設計画が持ち上がったのは1975年、私が高校2年生の頃だった。
計画地近隣の高屋(たかや)地区、 寺家(じけ)地区では、建設をめぐって若い世代も巻き込んだ熾烈な市民の対立が起こった。
反対派の住民は、交代で建設予定地の監視を続け、立地調査の阻止行動を行うなど、粘り強い反対運動を展開した。推進派とされた人々の決断も、その多くは過疎や地理的事情、産業の不在など、生活のための苦渋の容認であった。
小さな集落は28年もの間、原発建設計画に振り回され、真っ二つに引き裂かれた挙句、2003年12月、北陸電力は手を引いて計画は凍結される。
計画中止後も、推進派と反対派住民の間にできてしまった溝は幾年も元のようには埋まらない中、福島原発の事故があり、そして能登半島地震は珠洲の町を破壊した。
今回の能登半島地震で、珠洲原発の建設予定地だった石川県珠洲市高屋町では、ほとんどの住宅が倒壊し、陸路海路ともに通行不能となった。
珠洲市では、揺れの被害にだけでなく津波の被害も大きかった。




無茶苦茶に壊れてしまった珠洲の街に、皮肉なことに日本中から、計画の凍結に貢献した原発反対運動への感謝の声が寄せられている。
もしも、珠洲原発ができていたら、今頃、日本はどうなっていただろうか。