神生 六
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私は旅する歌手である。 かつては「ギターを抱いた渡り鳥」の異名をとった。 時の過ぎゆくままに67歳になった私、神生六(かみお むつ)は 「おむつをはめた渡り鳥」と呼ばれるようになった。 すっかり歳をとった。 何もかもが変わった。 ある日、神に問うた。 「これから私はどう生きるべきでしょう」と。 神から降りてきた啓示はこうだった。 「旅に出よ、神の元へ」  私は神の思し召しにより、死出の旅に出たのである。

「真田」に追い詰められて元服前の子どもが崖から身を投げた「嵩山城」へ。道の駅「霊山たけやま」から(トイレ○仮眠△休憩◎景観◎食事○設備△立地○) 

「嵩山」と書いて「たけやま」と読む。 死者の霊が山上に集まるといわれる霊山だ。 天狗が住む山とも言われ、山の3つのピークにはそれぞれ大天狗、中天狗、小天狗の名前がつけられている。 嵩山は標高789mの独立した姿の美しい山で、渋川方面から吾妻街道、国道353号を中之条町に入ったあたりから巨岩奇岩が天を突く嵩山がチラチラと姿をあらし始める。 東南面は切り立った岩肌、西北面は見渡す限り見事な樹海が広がっ […]

予約なしでお金ケチりたい私のような人間が「草津温泉」を満喫するには天気最悪の日しかない。道の駅「草津運動茶屋公園」から(トイレ○仮眠△休憩○景観◎食事○設備◎立地○) 

下呂温泉、有馬温泉、そして草津温泉。 草津温泉は言わずと知れた日本三名泉の1つである。草津温泉の自然湧出量は日本一を誇り、毎分32,300リットル以上。1日にドラム缶約23万本分もの温泉が湧き出しているということだ。草津の旅館や温泉施設で「源泉かけ流し」ができるのはこのおかげである。 そして、驚くべきはその泉質! 日本有数の酸性度で、pH値はナント2.1(湯畑源泉)。雑菌などの殺菌作用は抜群なのだ […]

史上最強なのになぜか横綱になれなかった謎の「無類力士 雷電為右衛門」。道の駅「雷電くるみの里」へ(トイレ○仮眠○休憩○景観△食事○設備○立地○) 

早いもので、大相撲はもう「九月場所」である。今日から15日間の熱戦が繰り広げられる国技館の熱気とは真逆で、ほど近いがひっそりとした「富岡八幡宮」の境内には、「横綱力士碑」がポツンと建っている。 碑は明治33(1900)年に建立されたもので、ここには歴代横綱と新横綱の名が刻まれている。 もちろん横綱ではない力士が、この横綱碑に刻まれることはありえない。本来は。 しかし、ここになぜか一人だけ、横綱にな […]

「島崎藤村」や「永六輔」の素晴らしい詩を生んだ「小諸なる古城のほとり」へ。道の駅「みまき」から(トイレ○仮眠△休憩○景観○食事○設備○立地○) 

「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ…」 日本語とは、かくも美しいものかと感嘆させられた島崎藤村の「千曲川旅情のうた」の冒頭だ。中学校の修学旅行で最初に接してから半世紀以上、ずっと頭にあって、時折誦じてもいた。藤村は、小諸城址・懐古園をよく訪れていた。 『千曲川のスケッチ』には、小諸義塾の同僚たちと連れ立ってここに弓を引きに行ったことを書いている。当時園内には十五間ほどの矢場があって、藤村は弓 […]

長野北東部から「中山道」旅。数ある名所を通って江戸時代の面影残す南西部へ。 道の駅「ほっとぱーく・浅科」から(トイレ○仮眠△休憩○景観○食事○設備△立地○) 

「中山道」は、江戸時代に整備された五街道のひとつで、江戸と京都を結ぶ街道である。江戸幕府が1602年から時間をかけて他の五街道とともに整備していく過程では、「東参道」・「木曽街道」・「中山路」・「中仙道」など、地域ごとに様々な名称で呼ばれていたが、1716年に学者・新井白石の進言により「中山道」という名前に統一して、定着していく。 全長約530kmの険しい街道には69もの宿場町が点在し、交通と文化 […]

年末の「全国高校駅伝」も新年2日3日の「箱根駅伝」も注目は「佐久長聖」。道の駅「ヘルシーテラス・佐久南」から(トイレ◎仮眠△休憩○景観○食事○設備○立地○) 

何を隠そうハゲを隠そう、私は「駅伝好き」である。 高校駅伝では故郷兵庫の「小野工業」が強いこともあるし、箱根駅伝では瀬古利彦の時代から、渡辺康幸、大迫傑の時代までずっと「早稲田大学」のファンであることもあるし。先日は、高校駅伝11回の最多優勝(男子)を誇る、通算「最強」の「世羅高校」を訪ねたほど。それほど熱心なファンである。ちなみに来年早々の箱根駅伝では、ずっと青学、駒澤の後陣を配してきた早稲田の […]

減税求めた庶民28人うち子ども10人を磔にして処刑した松本の悪政。道の駅「女神の里たてしな」から(トイレ○仮眠○休憩△景観○食事○設備○立地○) 

多田(中萱)加助という人物をご存知だろうか? 水野忠直が松本藩主を務めていた頃の、地元の庄屋である。 貞享元年(1684)、凶作が続いて、農民の生活は困窮をきわめていた。 農民の悲願を受けた庄屋の加助は年貢の軽減を長尾組の組手代に申し出るが受け入れられず、松本藩に直接陳情した。この行動を問題視された加助は、庄屋の身分を取り上げられた。 その2年後の貞享3年(1686)、今度は凶作の上に疫病が同時に […]

「真田」「仙石」「松平」のそれぞれの時代に姿と役割を大きく変えた上田城へ。道の駅「あおき」から(トイレ○仮眠○休憩◎景観◎食事◎設備○立地○) 

上田城は、天正11年(1583)、真田昌幸によって築かれた平城で、上田盆地のほぼ中央に位置している。堀と土塁で囲まれ、虎口(出入口)に石垣を使った簡素な城なのに、第一次、第二次上田合戦で徳川の大軍を撃退し、天下にその名を轟かせた。 数ある城郭のなかでも、2度もの実戦経験をもち、輝かしい戦果をあげた城は全国広しといえどもなかなか他に例を見ない。しかし、上田城は関ヶ原の合戦後に壊され、藩主であった真田 […]

阪神タイガース優勝マジックが1の日。夜は「六甲おろし」を歌わねばと帰りを急ぐ途中に食した「越前おろしそば」は最高だった。

都道府県ごとの巨人ファン比率が、実は日本でもっとも高いといわれる福井県。 統計サイト『J-READ』が発表している「最も好きなプロ野球球団勢力図」では、各都道府県で最もファンの多い球団を知ることができるが、福井県はほぼオレンジ色に塗りつぶされており、つまり巨人ファンが最も多いとされている。 そんな福井のど真ん中に、福井の虎党たちの憩いの場として愛され続けるの店がある。 『味とら』だ。 元阪神監督の […]

武田信玄の初敗戦「上田原の戦い」古戦場から連敗喫した「砥石崩れ」へ。道の駅「上田道と川の駅」から(トイレ◎仮眠△休憩◎景観◎食事○設備△立地◎) 

諏訪、伊那、佐久地方をほぼ平定し、北信濃への進出を目指した武田晴信(信玄、以下信玄)だったが、北信地方への関門といえる坂城には村上義清がいた。 信濃全土の攻略に意欲満々の信玄にとって、東信濃の勇将・村上義清は、避けては通ることができない、どうしても打ち倒さなければならない存在だった。 信玄は村上氏への攻撃を企て、天文17年(1548)2月、諏訪から大軍を率いて大門峠を越え、小県郡に攻め込んだ。 対 […]

道の駅「マルメロの里ながと」に併設された「やすらぎの湯」で知ったこと(トイレ○仮眠○休憩○景観△食事○設備◎立地○) 

マルメロ?なんそれ? カリメロの兄弟?ナツメロなら好きだよ、なんて私のような人間もいるぐらいだから。 果物らしいが、食べたことがないな、食べ方が分からないという人も多いのではなかろうか。カリンなら知っているよという人は、それとよく似ているというと、その大体の姿形は思い浮かべられるだろう。マルメロはカリンと近縁で「西洋カリン」ともよばれ、カリンとして流通していることもあるのだとか。 マルメロとカリン […]

旅情演歌の最高峰「奥飛騨慕情」の地で温泉を楽しむ。道の駅「奥飛騨温泉郷上宝」から(トイレ○仮眠○休憩◎景観◎食事○設備◎立地◎) 

「奥飛騨慕情」を作詞、作曲し、自ら歌ったのは竜鉄也という人だった。 竜鉄也は、飛騨高山で生まれ育った。子供の時患った麻疹の影響で視力が低下し、26歳の時完全に失明する。その後「歌の流し」でなんとか生計を立て、そして歌作りも手掛けるようになった。 彼が流しの仕事で奥飛騨温泉郷を訪れたのは、1972年の梅雨の時期。奥飛騨滞在の間に、雨の中で想像した情景を書きとめ、その歌詞にメロディーをつけて、名曲「奥 […]

あわら温泉&東尋坊の定番セットより稀代のエロ坊主「東尋坊」がいた「白山平泉寺」を優先。道の駅「みくに」から(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事○設備○立地○) 

「あわら温泉」&「東尋坊」は、私的にはセットになっていて、それぞれ3度目になる。 最初に来たのは、23歳の時。東尋坊の崖の上に立って、海に向かってなぜか「とうちゃんのバカヤロー」と叫んだことを覚えている。若かった。 それから40年経って、コロナで職を失った63歳のタイミングで行ったときは、あわら温泉がやはりコロナでエライことになっていた。 そして、東尋坊に立ってやっぱり叫んだ。「コロナのバカヤロー […]

大伴家持も国司として赴任し、在任中に223首の歌を詠んだ「能登国総社」へ。道の駅「織姫の里なかのと」から(トイレ○仮眠○休憩◎景観◎食事○設備◎立地◎)  

「能登国総社」は、国分寺跡から東方約1キロ。石動山への登山口にある。 能登國総社は、総社由来碑にあるように、創建は大穴持命(おおあなむちのみこと、大国主)が能登を平定した際に腰掛けた石をご神体にして祀ったのが始まりとされている。 ちなみに北陸道には大国主の伝承が多い。 能登国内四十三座の神を祀るほか、 明治40年(1907)に合祀した諏訪神社の建御名方神を祀る。 旧社格は「村社」と称したこの総社は […]

上杉謙信が最後に手に入れた難攻不落の「七尾城」とそこからの絶景。道の駅「いおり」から(トイレ△仮眠○休憩○景観◎食事△設備△立地○)  

上杉謙信の晩年の戦いの一つに、「七尾城の戦い」がある。 「七尾城の戦い」とは、能登畠山氏が居城とした巨大な山城「七尾城(石川県七尾市)」を舞台に、天正4〜5年(1576〜1577)にかけてのほぼ1年間にわたって繰り広げられた、上杉謙信と能登畠山氏の攻城戦である。 七尾城は「五大山城」に数えられる全国屈指の規模、具体的には南北約2.5キロメートル、東西約1キロメートル、面積は約252.6ヘクタールに […]

多少サバを読んで1300年以上にわたって50億人前の「鯖の塩漬け」が中継された「熊川宿」へ。道の駅「若狭熊川宿」から(トイレ○仮眠○休憩◎景観◎食事○設備○立地◎)  

「若狭」は古代から都に海産物を供給する御食国の1つで、当時の外交は主に日本海を挟んだ対岸交流だった事から外国との玄関口でもあった。 若狭国と都(奈良・京都)の間には幾つもの街道が整備され、多くの物資や人の往来によって、街道沿いにはそれぞれの時代に様々な文化が花開いたという。小浜の名産である鯖の塩漬けを中心に日本海の海産物を京都へと運んだルートは様々あって、総称として「鯖街道」と称していたようだが、 […]

ついに「万札」に刷られた渋沢栄一が参拝重ねた射水神社へ。リニューアル中の道の駅「カモンパーク新湊」から(トイレ○仮眠△休憩○景観△食事○設備○立地○)  

皇族をはじめ、「日本資本主義の父」「実業界の父」「金融の父」と呼ばれてついに「マン札」に印刷された渋沢栄一、戦後の「日本の三大億万長者」のひとり『ホテルニューオータニ』の創業者・大谷米太郎ほか日本を代表する実業家たちが参拝を重ねた、富山県高岡市の『越中総鎮守一宮 射水(いみず)神社』。 渋沢栄一は、遷座50年の節目において「射水神社」と揮毫した社号額まで残していた(冒頭写真)。 この実筆は、新札発 […]

5百数十年前、ついに「百姓ノ持チタル国」となった加賀国一向一揆の時代へ。道の駅「めぐみ白山」から(トイレ◎仮眠◎休憩◎景観○食事○設備○立地○)  

高尾城の戦いとは、加賀国の守護・富樫政親が高尾城を一向一揆に攻め落とされた戦いである。 長享2(1488)年、一向宗を信仰する人たちが団結した集まりである一向一揆の人々が、重い税に怒りを爆発させた。彼らは富樫家の内乱に乗じて政親の叔父の泰高を同盟の中心にしてまつり上げ、政親に対して反乱を起こしたのだ。 一向一揆の人々は、野々市の大乗寺に陣を置いた泰高とともに高尾城を取り囲み、政親は高尾城(たこうじ […]

五大老にまで出世した「加賀百万石」前田利家の原点「金沢城」跡へ。道の駅「内灘サンセットパーク」から(トイレ△仮眠△休憩○景観○食事○設備○立地○)  

金沢城は、加賀一向一揆で支配権を握った本願寺が天文15(1546)年に金沢御堂(尾山御坊)を建てた地に、佐久間盛政が天正8(1580)年に築城を開始した城である。 尾山御坊は寺院でありながら加賀一向一揆の拠点でもあったため、堀や柵、土塁などを備えた城としての性格も持ち合わせていたのである。賤ケ岳の戦いでいち早く柴田勝家を裏切って戦線を離脱し秀吉に降伏した姑息な前田利家は、その功?により能登一国に加 […]

織田信長の部下でよきライバルだった二人が敵として戦った「末森城」へ。道の駅「高松」へ(トイレ◎仮眠△休憩◎景観○食事○設備○立地◎) 

織田信長の側近で豊臣秀吉の五大老の1人として政権を運営し、加賀百万石を築いた前田利家。 そんな利家はうまく出世したが、一世一代の危機に陥った戦いは一度だけ、天正12年(1584年)9月9日に起こった「末森城の戦い」だろう。かつて一緒に織田信長のもとで働いたライバル佐々成政が前田家にとって重要な拠点だった能登国(現在の石川県)の末森城を奇襲。 末森城は落城寸前となる。 この奇襲は「小牧・長久手の戦い […]