
噴火湾。
別名内浦湾というが、今とても穏やかである。
10月に入って朝晩かなり寒くなってきた北海道だが、このあたりはまだ暖かい。
このあたり、つまりその直径が約50キロと長大な海岸線をもつ噴火湾(別名内浦湾)に面した沿岸は、渡島半島に西から抱かれて、巨大な、そして実に綺麗な円を描いている。
この大きくてまるい噴火湾には、冬から春には流氷で冷やされて千島列島から南下する千島海流が反時計まわりに入ってくる。
そして夏からは、今度は日本海を北上する対馬暖流の支流が津軽海峡を東進して時計まわりに入ってくる。
こうした海流の入湾によって、秋から冬の噴火湾の底は夏の津軽暖流の名残で暖かく、春から夏は冷たい千島海流が混ざってきて水温はほど良く低くなる。
暖流と寒流がぶつかるこの地の湾口は古来より豊かな潮目となって海産物を育み、そして沿岸は、北海道にしては比較的寒暖差のない、暮らしやすいおだやかな気候に恵まれている。
少なくとも、現在は、そうである。
カルデラが大地に描く奇妙な「まるさ」
湾の内陸部には、直径ほぼ10キロで周囲約43キロ、湖畔道がちょうどフルマラソンの距離に近い、まるい洞爺湖があり、その東には、それよりずっと小さいが、これこそまさに「まんまる」の倶多楽(クッタラ)湖がある。
噴火湾や洞爺湖、倶多楽湖などに共通した、この「まるさ」というのにはちゃんと理由があって、それは激しく繰り返されてきた火山活動のカルデラに由来する。
つまりこの一帯は、繰り返し火山噴火による大災害に見舞われてきた、だから「まるい」のである。
普通、火山活動については何千年、何万年スパンの話になるのだが、この地域は違う。
300数十年ほど前、17世紀半ばから数十年間の噴火湾は、駒ヶ岳、有珠山、そして樽前山の3つの火の山がわずか27年のあいだに大噴火を連ね、まさに地獄の様相を呈していた。
駒ヶ岳、有珠山。樽前山、お前もか!
17世紀の地獄絵図の端緒は、1640(寛永17)年の夏、噴火湾南岸にある駒ヶ岳の大噴火であった。
山頂が崩れて湾になだれ込み、大津波が起こり、松前藩や津軽藩の記録によれば百隻あまりの舟が巻き込まれて700人もの死者が出たという。対岸の有珠を襲った津波は伊達市有珠町善光寺如来堂の後山までを襲い、80キロ以上離れた松前でも1メートル近い降灰があった。
そして1663(寛文3)年の夏、今度は有珠山が大噴火を起こす。
一帯のアイヌのコタン=集落は火山灰に埋まってしまった。降灰や軽石まじりの噴出物で5キロ沖までが陸地にように見えたと松前藩の記録に残っている。
津軽でも灰で空は暗黒となり、鳴動は庄内まで響いたという。虻田、伊達、白老あたりまで1メートル以上の灰が積もり、『伊達市史』には「恐らく有珠地区は一時無人の荒野と化したであろう」と書かれてある。
こうした事態にさらにとどめを刺したのが、1667(寛文7)年の樽前山の大噴火だった。
これまた津軽までを鳴動させる規模で、噴煙は成層圏(高さ10〜50キロ)にまで達したと推測される。というのは、膨大に吹き上げられた火山灰は、日高山脈を越えて十勝や釧路にまで降ったのだ。
噴火湾展望公園
その地獄の時代から300数十年の歳月が流れた。
この間、18世紀末に極東調査にはるばるやってきた英国帆船の艦長ウィリアム・ロバート・ブロートンは地獄から百年経ったこの地の景色を見て、「volcano bay」と記した。
「噴火湾」という名前は、恵山、駒ヶ岳、有珠山、樽前山など湾を囲んでもくもくと噴煙をあげる火山群を、湾内海上から見た彼がこう記したことに由来している。
いま私は、噴火湾展望公園から美しい海に面した豊浦町の全貌を見ている。
今日までに、恵山、駒ヶ岳、有珠山、樽前山のすべてを回ってきて、今ここにいる。
これらの山々の活火山としての活動はすべて連動していることも理解できたし、その危険はひしひしと感じる。
でも、何もできない。恐怖を抱くことしかできない。
他にできることが他にあるとしたら、300数十年前の地獄絵図が再現されないことを祈ること、それだけである。
北海道縦貫自動車道で最も海岸に近い噴火湾P.A.
札幌~函館を結ぶ北海道縦貫自動車道で、最も海岸に接近したP.A(パーキングエリア)は豊浦の噴火湾P.A.だが、このP.A.は噴火湾展望公園になっていて、町内を一望でき町の特産物を販売している「展望塔」のほか、ローラーすべり台などの遊具があり、シラカバ、カエデ類が植栽された公園として整備されている。

360℃ぐるりと眺望を楽しめる造りになっていて、豊浦町を一望できる。台の上から噴火湾を見るとこんな感じだ。
展望台のある建物の入場も、展望台に向かうエレベーターに乗るのも、もちろん無料である。

展望塔の周りはシラカバやカエデなどがはえる森になっていて、遊歩道が整備されている。
豊浦はボクシング元世界チャンプ内藤大助の故郷
高速を降りて、道の駅「とようら」に寄った。

国道37号線沿いにある「道の駅 とようら」の2010年にリニューアルオープンした館内には、豊浦町出身のプロボクシング元世界チャンピオン内藤大助選手の記念展示コーナーがあり、彼が獲得してきたトロフィーなどが飾られていた。
ボクシング大好きな私だが、モンスター井上の無双には遠く及ばなくても、激しいいじめを受けていた子ども時代の悔しさをボクシングにぶつけ、技を磨いて世界チャンピオンにまでなった彼は大好きだった。
ああ、彼はここで育って、そして、激しいいじめを受けていたんだなと。
そして、内藤大助といえば、ちょうど18年前。
逆に私が大嫌いな亀田家との因縁が忘れられない。
経験と技量、そして人間性のあまりに大きな差
「内藤は強くもうまくもない。変則なだけ。4回戦(ボクサー)と同じ」。
2007年9月、内藤への挑戦を前にして、亀田家二男・大毅(亀田、当時は協栄)は世界チャンピオンに対してあまりに失礼なことを言い放った。
大毅はさらに「内藤は4回戦レベルでも世界王者になれることを証明した。おれは子ども(当時18歳)でも王者になれることを証明する」とほえ立てた。
迎えた2007年10月11日の世界戦日本人対決。
挑戦者亀田大毅は顔面をガードで固めて接近戦に持ち込み、得意のフックとボディーで仕留める作戦。
だが、王者は冷静だった。顔をガードすれば腹が空く。内藤はフェイントを織り交ぜながら、左右のボディーを的確にヒットさせ、経験と技量の差を見せつけてラウンドは進んだ。
やがて18歳の焦りが爆発する。倒れ込んだすきに太ももを打つ反則や、グローブの親指部分で目を突く「サミング」を繰り返した。
なんと、セコンドについて父親の亀田史郎、長兄の亀田興毅が、大毅に反則を指示していた。
終盤は、もうボクシングではなかった。
最終12ラウンドには大毅はレスリングのように王者を持ち上げて投げ捨て、結局、自ら試合まで投げて終わった。
亀田家を問題にしなかった内藤の度量
当然、試合は王者・内藤の大差判定勝利。
大毅は挨拶もなしに無言のまま引き上げた。
かたや王座を防衛した内藤大助のコメントには大人の余裕があふれていた。
「(大毅は)反則はとにかくうまかった。そんな練習をしないで、もっとクリーンなボクシングを磨いた方がいい。もったいない」。自分を侮辱し続けた相手にもアドバイスを送った。それは、内藤が人の痛みが分かる人間だから言える言葉だっただろう。
幼少時から体が小さく、中学時代には、いじめを受けて悩んだ。試合前、亀田大毅が「内藤はいじめられっ子やろ。おれはいじめっ子や」と吠えた。試合後、王者は「いじめられっ子がいじめっ子に勝った。やればできる」と、同じ境遇にある全国の子どもたちにもメッセージを送った。
いじめられた経験やボクシングの試合で負けた経験もあったからこそ、いじめを受けている子どもたちにも、そして敗北を味わった大毅にもかける言葉を持っていたのだと思う。
亀田家に対しても「これからは、恨みっこなしで笑って過ごしたい。もうネチネチ言うつもりはない」と、寛大だったが、世の中は前代未聞の反則を許すわけがない。亀田大毅は、1年間のボクサーライセンス停止処分を受けた。
亀田父子の謝罪
ちなみに。
内藤大助との一戦から6日後、反則行為を繰り返した亀田大毅、父親で試合のセコンドを務めた亀田史郎、協栄ジムの金平桂一郎会長の三人が公の場で謝罪した。同じくセコンドについた長兄の興毅は同席しなかったが、のちに「自分たち亀田家のせいでボクシング界のイメージを悪くした。亀田家を代表しておわびしたい」と謝罪している。
翌日大毅は内藤の東京都内の自宅を1人で訪ね、反則行為について直接わびた。
大毅が内藤の自宅に足を運んだ際、内藤は、周囲の目に触れないよう車内にとどめて謝罪を受けていた。
このことについて内藤は、「大毅君本人の言葉で『すみませんでした』と謝罪を受けた。僕は『もう済んだこと。きょうで終わりにしよう』と言った」と、語っている。
反則を指示した父・史郎は混乱を避けるため謝罪には同行せず、内藤に電話で「迷惑を掛けすみませんでした。次の試合も頑張ってください」と伝えると、内藤は「いいですよ、お父さん」と言葉を返したという。
道の駅「とようら」
道の駅「とようら」は、豊浦町のいちご・野菜・加工品などを販売する直売所から始まった。
その後、札幌・函館間の中間地点という立地の良さもあって平成15年に道の駅になり、テイクアウトコーナーや24時間トイレの増設・拡張などがあって、現在に至っている。


小さな道の駅なので、駐車場も小さいが、あまり車は停まっていない。





トイレは駐車場の真正面にある、施設の端っこ。
綺麗に清掃していただいており、ありがたい。



休憩環境としては、施設の前にベランダ上に東西に長く続いている休憩スペースが、日当たりが良くてとてもいい。






四季折々の名産品が楽しめる
豊浦町といえば、春のいちご、冬のホタテ、そして豚肉である。
この3つをすべて味わえるのが、道の駅「とようら」だ。
レストランのない道の駅だが、農産物直売所と、地元食材によるグルメを提供するテイクアウトコーナーがある。
直売所には、春には特産品のいちごがたくさん並ぶ。 今はもちろんいちごの時期を外しているが、テイクアウトコーナーでは「いちごソフトクリーム」を味わえる。
冬になるとホタテのシーズンが始まるが、こちらも今はまだ。
オールシーズン提供されている豚肉をと思ったが、内藤選手にちなんで名付けられた「ホタテフライ級」という、おそらく冷凍物のホタテ3個の串をフライにしたものを売っていたのでそれにしたが、とても美味しかった。
1個食べて2個目の途中で写真を撮ったので、階級としてはミニマム級になってしまっているがw
