第104代内閣総理大臣が決まった日、第64代の元総理に会いに。道の駅「西山ふるさと公苑」から(トイレ○仮眠○休憩◎景観○食事○設備◎立地○) 

今日、日本国第104代の内閣総理大臣が決まった。
高市早苗氏。

女性初の総理が、憲政史上104代目にしてようやく誕生した。
神戸大学の女子学生のグループがたいそう感激して大はしゃぎしていたが、私の少年時代は総理大臣といえば田中角榮氏であった。

思えば田中氏が日本の第64代内閣総理大臣だったということだから、彼が総理の座を降りた1974年12月から今日まで、ほぼ50年の間に実に40回、総理が変わってきたことになる。
平均すると1代あたりが1年と少しだが安倍晋三氏など比較的長期の政権もあったから、ここ半世紀間と言うものほぼ一年ごとに、実に目まぐるしい総理交代を繰り返されてきた国であることに改めて驚く。
ロッキード事件で悪く言われることも多い田中氏だが、昭和22年4月25日に戦後2回目の衆院議員選挙で当選以来、44年の間に当選回数17回を数え、手掛けた議員立法数は実に117本にのぼる。
郵政大臣、大蔵大臣、自由民主党幹事長、通商産業大臣、そして内閣総理大臣を歴任した彼は、新潟県はもちろん日本の復興と発展をリードし、具体的には「列島改造」と、総理大臣就任後についに誰も為せなかった「日中国交正常化」という偉業を成した。

今で言うなら、北朝鮮による拉致問題を完全解決し、最高指導者である金正恩(キム・ジョンウン)総書記に正式謝罪させるに匹敵すると私は思っている。

田中角榮氏の40代後の総理大臣が決まったこの日、彼の生誕の地であり、彼が学んだ二田小学校跡地に平成10年4月に建てられた田中角榮記念館に行って、彼の政治家としての歩みを学び直してきた。

不世出の大人物

上記は実にざっくりとした業績にすぎないが、これほどのことを為せる政治家は、百年に一人出るかどうかと言われる。

私もお世話になったリクルートの江副浩正社長も、百年に一人出るかどうかの経営者だと勝手に思っていて、経済界と政界との違いはあるが、このお二人は私が生きた時代の突出した偉人であると私は思っている。

とかく日本人は「事件」の張本人と決めつけると全否定し、事件の内容やその他のことを一切無視してただ犯罪者のレッテルを貼る。そして政治も経済もほぼわからない人が付和雷同でバッシングする国民性があって、評価する向きをただ白い目で見ると言う悲しい国民性がある。
リクルートの仲間には自分の意見をしっかり持ってモノを言う人が多いが、そうではない付和雷同タイプの人に私が尋ねてきたのは、「一体、他の誰が江副さんのような経営、田中さんのような政治ができると思いますか?」と言う質問だ。
そう聞かれると、ほとんどの人が思考停止となる。

私に言わせれば、バカでしかない。

戦争だけはダメだ

戦後80年の今年、太平洋戦争以前に生まれた現役国会議員はほとんどいなくなり、衆参両院の約99%を戦後世代が占めるに至り、まさに杉田二郎が歌った「戦争を知らない子どもたち」による政治が現実として進められている。

それはもちろん寿命ある人間の社会では当たり前のことであり、それ自体をどうこうは思わない。
しかし私は今、田中角榮氏が生前に仰っていた言葉はとても重いものだと考えている。

「戦争を知っているやつがいるうちは日本は安心だ。」

「戦争を知らない世代がこの国の中核になった時が怖い。」

かつて旧満州(現・中国東北部)に出征した経験を持つ彼は、この言葉を議員たちにしばしば語っていた。

田中氏は、自身が軍隊で理不尽ないじめを受けていたこともよく話していた。

田中氏は1938年に徴兵検査で名誉とされた「甲種合格」となり、現役兵として旧満州に行った。これは、実は私の母の父と全く同じである。ちなみに母の父、すなわち私の祖父は母が0歳にして満州で戦死したが。

田中氏は旧ソ連の国境に近い富錦に駐屯したが、着任後の私物検査で当時人気だった外国人俳優のディアナ・ダービンの写真が見つかって上官に鼻の骨が折れるほど殴られたこと、何もしていないのに態度が気に入らないとビンタをくらったこと。柱にしがみついて意味も無くセミの鳴き真似をさせられた話もしていた。

「軍隊では、人間が常軌を逸した行動をとる。」

「人権もない。そうさせるのが戦争なんだ。」

「だから戦争はしちゃいかん。」

田中氏の口癖だった。

道の駅「西山ふるさと公苑」

道の駅「西山ふるさと公苑」は新潟県中越地方、日本海沿いの旧西山町(現柏崎市西山町)にある。
西山町と言えば、言わずと知れた田中角栄元総理大臣の出身地である。

今の子どもたちも、田中角榮元総理が日中国交正常化を実現したことぐらいは知っているだろう。

彼の故郷であるこの旧西山町は、中国の淮安市と姉妹都市提携を結んでいた関係があり、道の駅の施設は中国風に仕上がっている。

入り口付近に中国庭園があり、西遊記に登場する主要人物の石像が設置されている。

そしてこの中国庭園の奥には、「西遊館」と呼ばれる中国風の建物が。

この西遊館の中で、かつては中国の民芸品販売が行われていたらしい。現在は、展示だけだが。

西遊館の横には西山ふるさと館と呼ばれる2階建てガラス張りの大きな建物があり、 その1階では映像などで淮安市や西山町のあゆみや伝統工芸を展示する施設となっており、 2階にも映像ホールがある。

田中角栄記念館と角さんの台所

上記の他の施設は、田中角榮記念館とレストラン「角さんの台所」の2つ。

田中角榮記念館は有料だがとても内容は濃い。ただ、撮影全面禁止のため、写真も撮れずご紹介はやめておくが。

レストランでは田中元総理が大好物であった越後の郷土料理「のっぺ定食」を味わうことができる。

人間、どんなに偉くなろうが、金を持とうが、一番の好物は「おふくろの味」であろう。
田中氏もまた、ロッキードからいくら金をもらおうと、高級料理をたらふく食せるようになっても。結局、母親が作ってくれた「のっぺ」が一番好きだった。
青年時代に戦争した相手・中国で、憎み合い殺し合った日中の関係を修復するという偉業を為し、そして日本の高度成長を仕上げて、この世を去った田中氏が総理を辞めて51年。
昭和100年、終戦から80年。

いま、天国から今の日本を見下ろして、彼は何を思っているのだろう。
「田中さん。日本の何が前進して、何が後退したでしょうか?」

「今の日本人は、あなたが理想とした姿に近づいていますか?」

私が問うと、彼の声が聞こえた。
「まあ、しょのお〜、ねえ、しゅくなくともだねえ、互いに足を引っ張りあってだねえ、たった1年しか続かないようなシェイケンではねえ、まあ、しょのお〜、シェイジなんてもんはジェンジェン、シュシュまんでしょう?ねえ、キミ、しょうはおもわんかね?」

さあ、高市さん、頑張ろう!