信長を2度にわたって逃した朝倉義景の運が尽きた「一乗谷の戦い」へ。道の駅「一乗谷あさくら水の駅」から(トイレ△仮眠△休憩◎景観○食事○設備○立地○) 

越前朝倉氏は、5代約103年間に渡り「一乗谷」を治めた。

当時の一乗谷には、応仁の乱で荒廃していた京から文化人が多数来訪。

人口は1万人を超え、城下町は越前の中心地に。そこで華やかな「一乗谷文化」が開花した。

しかし戦国の世はその永続を許さなかった。
5代義景は織田信長を討つチャンスを2度にわたって逃したあと結局彼に敗れ、火を放たれて町は消滅する(冒頭の写真は現在復元されている街並み)。

主を失ったこの地は田畑の下に埋もれ、それから400年という時を田畑の下で過ごすことになる。

そして今、「一乗谷」は「日本のポンペイ」と言われる。

というのは、1967年から始まった発掘調査で戦国時代の暮らしぶりがわかる膨大な物や資料が出土。武家屋敷や寺院、町屋、職人屋敷、道路、当時の町並みまでもがほぼ完全な状態で発掘され、再び栄華の地が私たちの前にその姿を見せたからである。

戦国ファン必見!現代によみがえる城下町「朝倉氏遺跡」を満喫する1日!

朝倉氏のはじまりと繁栄

朝倉氏の祖先は、今の兵庫県養父市、当時は但馬国朝倉庄と呼ばれる地の豪族だった。

南北朝時代の1337年に越前守護として、斯波高経に従って越前に入り、黒丸城に居を構えていたが、応仁の乱では、当初は斯波氏側の西軍について参戦。すぐに細川勝元の東軍に寝返って、文明3年(1471)、斯波氏を追放して越前一国を掌握するに至る。

越前朝倉氏の初代・朝倉孝景は、三方を山で囲まれた守りの面で軍事環境に適した一乗谷に本拠を移し、人材登用、軍略・兵法に注力して、越前朝倉氏の土台を一代にして築きあげた。その後、朝倉義景まで103年間、朝倉氏は5代にわたって越前を統治した。

上の写真は、諏訪館跡(すわやかたあと)庭園。出土した庭園跡は4つあるが、その中で最も大きく、上段と下段で構成されている。諏訪館は、5代義景が最愛の妻「小少将(こしょうしょう)」のためにつくったと伝えられている。

一乗谷は当時、全国有数の大都市であったと伝わっており、発掘品には貿易によって得た中国の高級陶磁器やヴェネチアンガラスなどといった超一級品も数多く見つかっている。

朝倉軍事の要・朝倉宗滴

京の文化人と遊び、また織田信長に完敗したことから、越前朝倉氏は弱いと思われているようだが、1500年代ごろの朝倉家は強大な軍事力を誇っていた。

朝倉氏の軍事力を強大にした立役者は、初代朝倉孝景の八男として生まれ、当時としては稀に見る長寿で3代貞景、4代孝景、5代義景までを支えた「朝倉教景(のりかげ、号して宗滴)」だった。

宗滴は、自らの12度に及ぶ合戦経験を側近に語り、筆記録として残し、下剋上の世を生きる武将の厳しさを後世に伝えている。

ちなみに明智光秀は一時期越前で雌伏のときを過ごしたと言われているが、実際に加賀の一向一揆の際に活躍。朝倉軍の勝利に貢献し、朝倉義景に鉄砲指南役として仕官したという。

この説を元に、光秀の生涯を描いた2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、越前での雌伏のときが描かれていた。

5代朝倉義景と織田信長

国を滅ぼした暗君とされる朝倉義景は儒学を治世の根本とし、小笠原流の兵学を身につけ、文芸、絵画、和歌に秀でていた。

そんな彼が滅亡の憂き目に遭ってしまったのは、まず織田信長と同じ時代に生まれた不運があり、そして自ら信長を討つチャンスを2度にわたって逃したからであったろう。

軍事の要であった朝倉宗滴を失った朝倉家は、宗滴の死と入れ替わるように勢力を拡大していった織田信長と敵対し、滅亡への道を辿っていく。

1570年4月、織田信長は、上洛要求を拒んだ朝倉義景に対し、織田軍団の他に三河国の徳川家康などの軍勢を京に参集させ、敦賀(福井県敦賀市)へ侵入。金ケ崎城を一日で陥落させた。

ここで窮地に立った朝倉家を助ける形で、浅井長政が織田・徳川連合軍の退路を断って朝倉義景に協力し、形成は逆転。しかし信長軍の逃げ足は速く、朝倉義景の追い込みは鈍かった。結局、信長軍を挟み撃ちにできずに逃がしてしまったこのことは「金ヶ崎の退き口」として有名だ。

その後6月28日、軍を立て直した織田・徳川連合軍と浅井・朝倉軍は姉川をはさんで激突。この姉川の戦いで織田・徳川連合軍は勝利した。

信長を取り逃し命を縮めた朝倉義景

しかし信長を取り巻く状況も厳しかった。1572年11月には畿内で朝倉・浅井連合軍に加え、本願寺顕如率いる門徒・一向宗徒、延暦寺の僧兵などが織田信長を取り囲み、将軍足利義昭による信長包囲網が形成されていた。その上、甲斐国(山梨県)の武田信玄も上洛を目指して迫ってきていた。

信長は絶体絶命の中、越後国(新潟県)の上杉謙信に働きかけ、朝倉義景にいったん兵を引くよう仕向けると、義景はなんとこれに応じてしまう。1度目は「金ヶ崎の退き口」で信長を逃してしまい、2度目は信長包囲網の一角を崩してしまった、義景のこの判断はまさに「致命的」だった。
歴史にタラレバはないが、もしこの時まで百戦錬磨の朝倉宗滴が生きていたら、信長は逃げきれずにやられてしまっていた可能性は高いと思われる。

ボクシングでも野球でも、なんでもそうだが、大チャンスを逃すと往々にして流れはガラリと変わってしまう。

天はまさに九死に一生を得た信長の味方へと変わってしまう。

1573年4月、武田信玄が病没。信長は7月には将軍義昭を追放し、四面楚歌から完全に脱出。

そして8月、岐阜城を出発した信長は、浅井氏を攻め、救援にかけつけた朝倉勢を撃破。朝倉軍は敗走したが、刀根坂(敦賀市)でも大敗した(刀根坂の戦い)。

織田軍は、18日に府中(越前市)へ到着。柴田勝家に命じて一乗谷に火を放つと、炎は三日三晩燃え続けたという。

織田信長との戦いに敗れた5代朝倉義景は、大野に逃れた後、支族の朝倉景鏡の反逆にあって六坊賢松寺で自害した。愛した町はまだ燃え続けていたであろう1573年8月20日、享年41歳。

福井県大野市の義景公園で朝倉義景は眠っている。

朝倉義景墓所

朝倉氏の滅亡後、越前八郡を与えられた柴田勝家は、越前一向一揆によって荒廃した一乗谷から本拠を水運・陸運に便利な北庄(きたのしょう)に移した。

そしてこれ以後、燃え尽きて辺境となった一乗谷は田畑の下に埋もれたまま約400年もの眠りにつくことになったのである。

道の駅「一乗谷あさくら水の駅」

道の駅「一乗谷あさくら水の駅」は、北陸自動車道の福井ICから国道156号線→県道31号線を通って南東に4km、 福井県北部の県庁所在地・福井市にある。

「特別史跡」「特別名勝」「重要文化財」という国の三重指定を受けている戦国武将朝倉家の城下町であった一乗谷朝倉氏遺跡の玄関口に位置し、直径4mを超える三連水車と粉挽き水車小屋が目印だ。

2022年10月には、福井県立朝倉氏遺跡博物館がすぐ近くにオープン。

6月にはホタルが飛び交うビオトープエリア、芝生広場エリア、水田・さつま芋掘り体験が出来る農業体験エリア等の楽しみも大きく広がった。

道の駅としては小規模なのだが、一乗谷朝倉遺跡の入り口にあって、この朝倉遺跡博物館や一乗谷レストラン(上写真)、さらには復元町並みの中にも食事処や物産館があって、これら全体で一つのテーマパークのようになっている。

実際この博物館設立の効果は絶大で、2023年には道の駅の利用客数が以前の数倍、一気に18万5千人に跳ね上がっている。

道の駅の駐車場は施設に沿って細長く、空いているわけではないが広さに不足は感じない。

屋外のトイレはこぢんまりしたもので、館内のトイレも小規模だ。女性は困るかも知れない。

休憩環境としては申し分ない。とても落ち着ける環境だ。

特産物販売所

駅施設は比較的小規模で、物産館とレストランがある。 地元特産品を集めた物産コーナーの規模は、私的にはちょうど良い。大きすぎても見て回るのに疲れるだけだから(笑)

物産館で目に付いたのは「黒にんにく」と「朝倉山椒」。
朝倉胡椒を使った「朝倉山椒オイル」「朝倉山椒ポン酢ドレッシング」「朝倉山椒しょう油」も目立っていた。

一乗谷観光記念として人気になっているのは「一乗谷城ハンドタオル」と「一乗谷Tシャツ」。

もちろん、福井銘菓の「羽二重餅」、永平寺名物の「團助ごま豆腐」は定番だ。

レストラン

レストランのダントツ人気ナンバーワンは「越前おろしそばとソースカツ丼のセット」。

2位の「越前おろしそば」、3位の「ソースカツ丼」のどちらにしようか迷わずにその両方をいただけるので、そりゃそうだろうと思う。
他には福井県伝統料理としては「揚げご飯」、永平寺精進料理の「厚揚げ焼き」。
地域性にこだわらないメニューとしては「醤油猪かつ丼」「特製うな重」「みぞれ蕎麦」などもある。