
第18話で、やり逃げ、無責任のDNAがリクルートには脈々と流れていることを指摘した。社内では人事異動で「無かったことに」できても、会社を飛び出して起業した者には人事異動という伝家の宝刀は及ばない。
リクルート出身者は起業上手、と言われているようだが、成功している人の何倍もの人間が、会社を潰していることにちゃんと目を向けないからそんなことが言えるわけで、成功者よりはるかに多い失敗者がいるという事実は、もはや隠しようのない社会迷惑にもなっている。
事業は、起こすよりも維持し、発展させることのほうがはるかに難しい。しかし、江副浩正という天才起業家を間近で見た連中は、自分も彼のようにできるという錯覚に陥るようだ。で、その結果、会社を潰す。最悪なのは、この局面でリクルートの悪しきDNA「やり逃げ、無責任」がやはり出てしまうことである。
会社が潰れるのは、債務を履行できなくなるわけだが、その債務が大きく膨らむということは、倒産後に多くの債権者に多大な迷惑をかけるということへの感度が、リクルート出身の経営者は鈍いと感じてきた。
一つは、自分への過信。成功するはずだという思い込みが強いあまり、どこまでも粘ってしまう傾向が強い。もう一つは、バンザイ(自己破産)すれば、また次のチャンスが狙える、という発想が定着してしまっていることだ。
これは、とんでもない。許しがたい無責任である。自分可愛さ、自分のことばかり考え、入金されるはずのものがなくなって経営が立ち行かなくなる協力企業や従業員たちへの配慮がない。こういう傾向を、元リクルート起業家の失敗組には強く感じてきた。
しかし。債務を完全に履行する。そして、それから、自分の人生を立て直す。そんな真っ当な経営者が、私の交際範囲でただ一人存在する。藤井堂成である。
東京藝術大学を目指して
藤井堂成は、才能豊かな人間だ。神戸で生まれ育った彼は、早くに父を亡くしたため、高校時代にはアルバイトで100万円以上の貯金を作り、一流アーティストになるために東京芸術大学を目指した。5浪6浪当たり前、10年以上浪人を重ねて合格を目指す猛者もいる東京芸大の実技試験の突破は日本一難しい。
彼は、神戸にある小さな美術研究所「アテネコーベ」に通い、日々デッサンに励んだ。私との奇縁は、そこから始まる。この「アテネコーベ」という生徒数10人ちょっとの小さな美術研究所は、私が京都芸大受験のために通った研究所であり、また、合格後はこの研究所で後輩たちの指導にあたっていた、その研究所だったのだ。
藤井堂成は私より4つ年下、だから私が指導した生徒の中に彼はいなかったが、二人のアーチストがあろうことかその対極のような営業会社で人生のあゆみを共にするとは、これを奇遇と呼ばずしてなんと言うのだろうか。
結果、藤井は東京芸大への現役合格はならなかった。しかし、滑り止め?に受けた慶應義塾大学法学部には合格。東京での学生生活が始まったのだが…。
浪人を重ねるほど恵まれた環境にない彼は、潔く東京藝大を諦めたが、「あのとき、諦めずにアーティストとしてまっしぐらに人生をやってみたかった、この人生での後悔があるとすれば、あの時アーティストを諦めたことですね」と、「あのとき」から45年経って、藤井は私に本音を話してくれた。
田中勝に憧れて
父を早くに亡くしている藤井は、慶應の高い授業料も東京での生活費も、自分で稼ぐ必要があった。そんなとき、彼は一冊の本を手にする。「リクルートの脅威」。リクルート本の、元祖的な存在だ。そこに登場する人物の中で、藤井は田中勝という初代伝説の営業マンに興味を抱く。そして、リクルートで働いてみたいという気持ちが大きくなっていった。
藤井には神戸に母がいて、母を助けるため神戸にはしょっちゅう帰ってきていた。慶應大学卒業後、新卒で入社することももちろん考えたという。しかし、東京での学生生活にあまり馴染めなくなった彼は、卒業を待つことなく、神戸でアルバイターとして働くことにした。当時のリクルート神戸市社長は田中勝。田中は、新卒、転職、住宅などの兵庫県の市場を急拡大していた。藤井は神戸支社のアルバイター募集に応募し、「リクルートの脅威」で憧れた初代伝説の営業マン田中勝の面接を受けたのだった。
「制作志望ということだけど、君は、営業のほうが向いているんじゃない?」
憧れの田中勝にそう言われた1984年。藤井堂成は私が働いていた神戸支社広告事業課(現HR)で、営業としてのキャリアをスタートさせたのだった。
当時、広告事業の営業アルバイターの仕事は、一日中新規顧客獲得のためのアポとり(社長への営業機会をつくるための電話かけ)であった。そして、奇跡的にアポイントがとれると、先輩営業の同行のもとで顧客を訪問した。
制作の立場からそうした多くの営業アルバイターたちの頑張りを見ていて、中に2人、光るものを感じた人間がいた。
一人は、丸山典久、もう一人が藤井であった。タイプは全く違うが、この二人は、群から抜けて大物になる、そんな予感を私は感じていた。
神戸支社を急拡大した田中勝が、東京に引っ張られた。
そして、リクルートフロムエーに移った1986年。東京に戻った藤井堂成が田中を訪ねると、田中は言った。
「一緒に、フロムエー、やる?」
以降、9年近くにわたって、藤井は田中の元で活躍。リクルートフロムエーの急成長を支えたのだった。
アーティストへの再挑戦
藤井堂成が東京に戻って依頼、私とは疎遠になっていたが、私が独立起業したころ、30歳になるのを前に、私の会社を訪ねてきてくれた。
「相談したいことがある」
ということだった。
私は、仕事を終えていつもの居酒屋「江里花」で彼と親しくしていた仲間も交えて話を聞いた。
「僕、やっぱりアーティストになろうと思うんです。それで、ニューヨークに行こうと。」
彼がどんな絵を描くのか、何も見ずしていい加減なことは言えないのだが、同じ夢をかつて諦めていた私には羨ましくもあり、また、荒唐無稽にも思えたのだろう、相当厳しいことを言ったそうだ。
しかし、反骨精神旺盛な彼は、こう言った。
「越生さんにボロクソ言われて、僕のハートに火がつきました。」と。
アーティストになるためにニューヨークに行く、その決断をして彼がフロムエーを辞めたのは1994年12月末。そして、17日後に、あの阪神淡路大震災が起こる。
彼は、本当に、ニューヨークに行った。ありったけの絵画作品を持って。
現代美術の本場中の本場、ニューヨークで、彼はリクルートで身につけたドブ板飛び込み営業を展開。結果、3人の画商が彼の絵を評価してくれたそうだ。
しかし、その評価は、彼が期待したレベルではなかった。
藤井は、イーストリバーに、すべての作品を流し、再びアーティストの道を諦めて、帰国した。
経営の一翼を担った会社が倒産
帰国した藤井は、システム開発の仕事に注目。独学でプログラムを習得し、さまざまなシステムを考案して開発し始める。彼のそんな才能に目をつけたのは、ダイレクトマーケティング研究所(DMI)だった。
藤井が開発するシステムは、大手企業各社の目にとまり、次々に、システム開発の依頼が舞い込むようになる。ダイレクトマーケティング研究所(DMI)の他の商品とは一桁も2桁も違う、億単位の商談で、藤井は忙殺された。
ダイレクトマーケティング研究所(DMI)の社長は、私が何から何までを知り合う、つまり人間性を完全に見抜いていた人物だった。
私は、藤井にアドバイスした。
「彼には、金のやりくりを任せないほうがいい。必ず、必ず、会社を潰すよ」と。
私の、渾身のアドバイスは、悲しくも、現実となった。藤井の大車輪の活躍で、会社は急成長。しかし、人員を無駄に急拡大し、藤井の稼ぎは全く売れない営業スタッフたちの食い扶持として、また派手な経費使いで消えていく。結果、ダイレクトマーケティング研究所(DMI)は11年間の急拡大中に突如、派手に倒産する。
社長は、バンザイ(自己破産)して債務から逃げる道を選択。多くの債権者にババをかけ(踏み倒して)社会の表舞台から姿を消した。
すると、借入などの書類にろくに目を通さずハンコを押していた藤井の元に、億を遥かに超える債務履行の督促が来た。
この社長と、藤井堂成との、人間としての格段の違いは、この局面で顕になる。
藤井はまず離婚を決意。生まれたばかりの娘の養育費を毎月送りながら、債務完済の道を選択した。
そして、見事に、完済。経営者である前に、人として、やり逃げをすることなく責任を果たしたのだった。
藤井堂成の人生、生き方に拍手!
億を超える借金を返し切るって。
さぞや長く苦しい道のりだったろう。
彼はその後、2019年に、自分の会社System Marketing Institute Co.,Ltdを立ち上げ、その豊かな才能を、AIを駆使したアニメ制作技術の開発などに発揮している。
決してやり逃げはしない、人としての責任を果たす。
そんな男が、一人でもリクルートにいて、友として付き合えていることを、私は誇りに思うと同時に、幸せに思う。

2026年10月2日金曜日。
神戸が誇る中華の名店「順徳」で再会。
話は尽きず大好きなバー「DYLAN」に場所を移して、私は珍しく酔い潰れる寸前まで、飲んだ。
最高に美味い酒だった。
二人の再会を段取ってくれたのは、二人の共通の友人、山口直容。
感謝!
