
高野が知る由もなかった京大闘争の変質
高野悦子の立命館大学で全共闘の活動が頂点に達したことを第六話に書いたが、その頃、京大でも教養部を皮切りに、文学部、 医学部、 工学部、 農学部、理学部が相次いでストライキに突入し、紛争が一気に全学へと拡大していた。
京大での闘争は、全学的な広がりを見せていた。3月には入試中止による「学園民主化」を訴える動きが起き、第五話の最後に書いたように、当局が試験会場を学外に移すと言う、前代未聞の事態となっていた。
この頃には京大闘争勃発時の争点だった寮の課題などは、そんなものはなかったがごとく小さく扱われるようになっていて、代わって研究体制や創造的な知的活動のあり方が議論の俎上、その中心に、堂々とのせられるようになっていた。
寮問題から、知的活動のあり方問題へ。
たとえ本質的であろうと、これほど漠然としたテーマになると、当然のように闘争に関わる学生の意識も多様になっていくだろうことは、犬の俺にも想像がつくというものだ。
大雑把に当時の議論の傾向をこう言う向きがあった。
党派に属する学生は、固有の革命理論に基づく政治運動の拠点作りをめざしていたが、大多数の学生は、管理社会に堕した日常性を打破し新しい活力を求めようとする傾向が強かったと。
いや、これは大雑把にすぎるだろう。
京大闘争の新局面に関わった学生の問題意識は実に様々で、党派の理論にもとづき政治拠点づくりを図る者、文部省による管理強化を批判する者、自治を掲げながら政府や産業社会の意向に従っているとして大学当局を追及する者、教授中心の旧来の学部運営を疑問視する者などが、もう闇鍋のように見境なくどんどん闘争の渦に放り込まれていく様相を呈していた。
さらには、国内外の政治問題とも結びついた。
その結果、「学園闘争から70年安保闘争へ」というスローガンが叫ばれたのであるが、京大闘争は、決して大袈裟ではなく、日々、目まぐるしく変質を遂げていた。
闘争は実に多様であったが、その一端は、たとえば犬の俺が、楽しみにしていたことすらにも、影響を及ぼした。
京大では年に一回、銀杏並木が色づく秋に、舎友会総会が開催され、そこでは舎友(卒寮したOB)と在寮生が交流する機会が持たれていた。
ところが1969年の総会では、OBが「古き良き時代の思い出話」を始めると、ヘルメットを被った現役の寮生が口々に当時の学生の流行語大賞「ナンセーンス」とヤジを飛ばし「舎友会粉砕」をアピールしたため、舎友会総会の行事はこの事件で途絶えてしまった。
この行事の後、犬の俺はその「食べ残し」にありつけていたのだが、このささやかな楽しみが無くなってしまったのである。
犬の俺に言わせれば、これこそが、「ナンセーンス!」に他ならない。
立命館全共闘崩壊前の5月15日、高野は京大に現れた
京都大学教養部は、京都市左京区吉田二本松町の京都大学総合人間学部の前身である。
京都大学において主に1~2年生を対象に一般教育科目の教育を行う教養課程を行っていた。京大全共闘は各学部ごとに略称を付けており、教養部闘争委員会の略称は“C闘委”だった。
この教養部闘争委員会=“C闘委”学生による反戦連合運動は、かねてより東大全共闘や日大全共闘と接点を持つなどしており、京大の学内で紛争が起こるきざしが危惧されていたが、その通り、京大教養部闘争委員会は実力解除に対する抗議と奥田総長に自己批判を要求して、1月31日から無期限バリケード・ストに入った。
紛争がはじまると、教養部は運動の中核拠点の一つとなり、その後8か月余りの間、表門をはじめとする各門、構内に各所に机や椅子でバリケードが築かれた。ちなみに、当時の様子を伝える貴重のカラー写真の一枚には、教養部の構内側から見た『教養部表門バリケード』の様子が写っている。
この8ヶ月余りのその途中、もちろん京大でも4月には新入生を迎え入れた。C闘委は新入生たちに対し、『自主講座と反大学』の動きに触れ、新入生をはじめとする学生を、「非日常の日常」である闘争へ招き入れるためのイベントとしてバリケード祭(「バリサイ」)を企画した。
教養部構内は、C闘委による無期限バリケード・ストが維持されている中、バリケード内での「祭」となった。入学式は1969年4月11日(金)。その日から1週間以上にわたって「バリサイ」は行われた。イベントとして作家・小田実、劇作家・寺山修司の講演、作家・高橋和巳などの討論会が組まれ、シンガーソングライターの高石友也や加藤登紀子の公演も行われた。
そして5月。
2月、5月の大事件以来学内での活動を封じられた立命館大学全共闘は、1969年5月20日(火)にこの京都大学教養部(京大Cバリ)に間借りする形となり、母校立命館大学で活動の場を失った高野悦子も毎日のように京大に来るようになった。
俺が最初に彼女高野悦子を見たのはこの5日前、つまり彼女らが京大教養部(京大Cバリ)に間借りする5日前のことだった。
5月15日に開催された京大『時計台前の学生集会』に、彼女は現れた。前話にも書いたが、皮肉なことにこの2日前、彼女に「立命館大学の学生であるという学生証が発行されており、京大の集会にやってきた彼女のカバンの中には、その真新しい学生証があったはずだ。「二十歳の原点」にはこうあった。「学生証という薄っぺらな紙きれに己れの存在を託すほど薄っぺらな存在ではないのだ、私は。」
☞二十歳の原点1969年5月17日「十五日 三共闘集会。広小路で集会デモのあと京大へ」
1969年5月15日、赤いヘルメットをかぶった学生集団、全共闘系の学生約300名が時計台前広場で京大総決起集会を開催した。新聞報道や当時配布されたビラなどから、中央教育審議会答申(大学治安立法)反対、破防法粉砕、愛知外相訪米およびアスパック(アジア南太平洋地域閣僚会議)粉砕、沖縄闘争勝利を掲げた学生諸団体が集結したと見られたが、この全共闘総決起集会に、高野悦子を含む立命全共闘のメンバーも参加したのである。
時計台には、「沖縄全面返還を勝ち取ろう!」「大学弾圧立法」と書かれた文字が踊っていた。
そして同日、学生たちは学生部建物を封鎖した。
こうして1969年5月20日(火)、高野悦子ら立命館大学全共闘は、京大Cバリに間借りを始めたが、その場所はこのバリケード内の京都大学教養部A号館だった。
京大全共闘の大学本部構内封鎖
この日から、全共闘による京大学内での武装行動が一気に加速する。
まず5月21日(水)に配布された京大全共闘機関紙には、以下の宣言があった。
「学生部封鎖→全学バリケード封鎖は中教審答申、大学治安立法粉砕を闘う中で政府ブルジョアジーの我々闘う学生への恐怖と憎悪をさらに暴露して行くであろう。そしてこのような立法化策動が、日本帝国主義が要請するところの70年代へ向けての教育の帝国主義的再編をおし進める具体的綱領であることを暴露し、さらに大学自治、学問の自由などの幻想を打破して日帝の砦としての大学を解体し封鎖して行かねばならない。」
この宣言通り、同日(21日)、「午後から深夜にかけて本部構内の農学部新館、工学部建築学系新館などが全共闘学生らによって封鎖され、「全学バリケード」へと動き始めた。
翌22日朝からは、教養部構内で鉄パイプ、角材などの建築資材や投石用のコンクリートブロックなどが着々と準備されていく。こうした動きについて、京都新聞は夕刊で以下のように報じていた。
「先に恒心館を追われた立命館大全共闘の学生たちが京大全共闘と合流しているものと見られている」(「大学立法粉砕へ決起集会─全共闘派学生〝不穏な動き〟」『夕刊京都昭和44年5月22日』
こうした動きについては、すでに合流していた立命館大全共闘が関係しているのは間違いないが、高野悦子が最前線で「武装準備」に参加したかどうかは確認できていない。「行動」と言っても、役割分担で女子学生は食事準備など“後方支援”に回るケースも多かったからである。☞二十歳の原点1969年5月24日「五・二二 京大泊りこみ 京大全バリに向けて行動。」
京都新聞の夕刊が配達され始めた22日午後3時20分ごろ、京大全共闘約400人、立命大全共闘100人、関西学院大全共闘40人など、ヘルメット・角材・鉄パイプで武装した550人が教養部を出て京都大学本部構内に入り、封鎖中の学生部前で総決起集会を開いた。
この中で、各大学代表から、大学治安立法粉砕、70年安保粉砕の決意表明があり、その後、直ちに行動提起がなされ学内デモに移ったが、一方、午後3時半ごろから学生部北側の教育学部前には、民青系(日共系)学生、一般学生ら約500人が白ハチマキ姿にプラカードなどを持って座り込んだ。
午後4時ごろ、学生部前の集会を終えた全共闘学生は午後4時15分ごろ、教育学部の封鎖行動に入り、投石のあと鉄パイプ、角材をふるって、教育学部前にいた民青系(日共系)学生、一般学生らを攻撃した。
民青系学生らも投石などで対抗したが、約10分で西門から排除されてしまい、その後は東大路から全共闘に対して投石を続けた。
全共闘学生は続いて、民青系学生が教養部自治会をおきバリケードを築いていた図書館別館(東南アジア研究センター)を攻撃した。同館にこもる民青系学生20人は投石、放水などで抵抗したが、約1時間でバリケードを破られ、午後5時すぎ、全共闘側が占拠するに至った。
同館から運び出されたロッカーなどで、西門には高さ約4メートルのバリケードが築かれた。
同じころ北門付近でも全共闘の学生は民青系学生と衝突。約30分にわたる激しい投石合戦ののち、民青系学生は北部キャンパスへと撤退を余儀なくされ、このあと今出川通に面した2つの門にも全共闘のバリケードが築かれた。
時計台前の正門では、夕刻まで全共闘学生が人の出入りをチェック、守りを固めていたが、午後7時すぎには、立て看板や机などでバリケード閉鎖を完了した。こうして午後7時30分、構内への通路は、正門脇の通用門を残して、全共闘派の〝占拠〟状態になり、本部構内は封鎖されたのだった。
本部構内を封鎖した全共闘派の学生のうち約100人は大学北部へと移動し、攻撃したが、武装した民青系学生によって撃退され、本部に退いた。この間、封鎖中の農学部新館、理学部事務室は民青系学生により封鎖解除され、逆に北部は全面的に民青系学生の制圧する状態となった。理学部正門にもバリケードが築かれて、以降一晩中本部と北部が対立する形となった。
この間、機動隊約700人が北白川付近に待機していたが、22日の段階では大学の意向に沿って、実力行使を踏みとどまった。京都大学当局は午後10時ごろから部局長会議を開いて、対策の検討を始めた。
高野悦子は、立命館大学全共闘が間借りしている京大Cバリに泊った。電気は切られてはいなかったが、照明は落とされた暗い中での仮眠だった。
京大に、ついに機動隊が
5月23日、ついに京大に機動隊が入る事態となる。
この日、京都市内は晴れ。
最低15.4℃だったが朝からほぼ快晴で、気温は午前中にぐんぐん上がり、午後には最高28.7℃にまで達した。
まさに、暑くて、熱い日となった。
06:00 京都大学当局は、ジープで東大路通と今出川通を巡回。総長自らが乗るとあまりに危険なため、奥田東総長の録音テープを用意。「私は京都大学総長です。本学を封鎖・占拠している諸君、すみやかに学外に退去しなさい」との放送を、本部および教養部構内の学生に対して約30分間行う。
06:35 百万遍付近に、「5・23警備本部」機動隊約500人が集結する。京都府警川端警察署長名で学生側に退去を命じ、警告したが、学生は応じなかった。
06:52 京都府警の機動隊が学内への突入を開始。不退去罪の疑いで、まず今出川通に面した北門バリケードを排除し、大型電算機センター付近のサクを乗り越えて構内に入った。学生らはクモの子をちらすように離散し、機動隊は無抵抗のうちに文学部前のバリケードなどを撤去した。
06:57 学生らが京大時計台前に集まり、投石で抵抗したが、機動隊は構内を制圧。学生はさらに正門のバリケードを火炎ビンで放火しながら本部構内から逃走した。火はすぐに消え大事に至らなかった。
07:12 機動隊はガス弾数十発を発射して応戦、6分後に正門バリケードを解除した。このあと約50人の機動隊員が構内西側の学生部(15日から封鎖中)に向かい、2階から子供の頭ほどもある石やコンクリート片を落として激しく抵抗する学生にガス弾20数発を発射。ハシゴをかけて踏み込む。約40分後、立てこもっていた8人全員を逮捕した。しかし本部を出た全共闘約500人は、吉田参道(東一条通)で本部の機動隊に投石を行い、また東山東一条交差点にいた機動隊50人を西に200メートルほど後退させ、簡単な路上バリケードを築いて抵抗した。
07:30 装備に勝る機動隊はジリジリと前進し、全共闘を教養部構内に押しこめ、東一条通は機動隊が制圧。このころ近衛通停留場付近で全共闘約50人が東大路通に路上バリケードを構築し始め、道路をマヒさせていた。
08:45 正門前で東一条通をはさんで石とガス弾の応戦が続く中、機動隊員約100人が吉田グラウンド北西スミの垣根を破って教養部に突入。抵抗をくり返してい学生たちはヘルメットを脱いで、垣根の破れ目などから脱出したが、逃げ遅れた数人が逮捕された。逃げて教養部を南下した全共闘は、近衛通停留場付近の学生たちと合流し、東大路通の南北及び東の近衛通の三方に路上バリケードを築いて抵抗。これに対し、機動隊の一隊は教養部の東、近衛通を通って近衛通停留場付近に集まり、装甲車とともに東大路通を南下してきた。ここに至り、学生と機動隊の間に激しい市街戦が展開される。機動隊は多量のガス弾を撃ち込むも、それに応戦する学生たちは激しい投石を続けた。
09:00 学生たちは、京大病院構内に逃げ込む。機動隊は東大路通のバリケードを歩道にどけて、一時的に全ての機動隊が東大路通を北上。これに対し、学生たち約500人は、近衛通停留場付近で激しいジグザグデモで対抗。やがて教養部に入っていた機動隊約100人が校内を南下し突然吉田寮から東大路通に飛び出してきて、このジグザグデモの中央部に突入。デモ隊を真二つに分断した。
9時45分 デモ隊の一方はかろうじて医学部構内に入ることができたが、他方は東大路通において機動隊にはさみ打ちにされ、には20数名の学生が逮捕された。
10:00 教養部構内も全共闘学生が排除され、混乱はいったん収まる。この段階で全共闘は医学部構内に、機動隊は東一条交差点付近にまとまった。
11:00 機動隊全員が、構内から退去。
12:00 教養部に入っていた機動隊は、全共闘を追って西門の東大路通へ向った。その後、民青系の学生多数が、全共闘が去った教養部に入り、高野悦子らが泊まっていた教養部A号館の封鎖解除などを行った。
12:30 全共闘の学生が本部構内に戻ってきた。約200人が本部時計台前で集会を開始。
13:00 京大五者連絡会議は教育学部と図書館の間の広場で“京大一万人集会”と銘打った集会を開き、京大職員組合や同学会(民青系)各自治会の代表が、全共闘糾弾、「大学立法の強行をたくらむ政府・自民党の策動抗議の行動を展開しよう」と呼びかけた。
13:30 全共闘は京大医学部付属病院で隊列を組み直し、再び教養部のバリケード封鎖を決め、約1時間ほどで正門のバリケードを築いて再封鎖。本部構内の文学部本館・東館、工学部電気総合館なども再封鎖した。
こうして機動隊が引き揚げた午後、全共闘派の学生たちは再び教養部キャンパスを占拠、正門にバリケードを築き直し、文学部の建て物など再封鎖した。「機動隊との衝突で荒れはてた本部構内では日共、反日共系両派の集会が開かれ小ぜりあいなど緊張が夜おそくまで続いた」と、翌日の京都新聞朝刊は大きく報じた。
投石の現場で、石をつくり続けた立命館大生
高野悦子は、東大路通を百万遍から下ってきた来た機動隊とにらみ合う距離で、機動隊に向って投石をした学生たちの中にいた。
白いヘルメットをかぶってはいたが、タオルは口元まではしていなかったという証言がある。投げる距離は男子学生には叶わないので、彼女は投石用の石をつくって、男子学生に渡し続けていた。歩道の敷石を剥いだものだっただろう、大きな石を道路にぶつけて割ったりして、一心不乱に投石の石を作っていた。
しかし機動隊に追われて、東大路通を東山東一条を越えてジリジリと南に下がり、学生たちは通りの西側の塀を乗り越えて京大病院に逃げ込んでいく。高野悦子も東大路通を南に逃げたが、遅れて警察に捕まった。高野悦子が身柄確保された場所は、状況からみて、京都市左京区東大路通近衛上ルの京都市電・近衛通停留場付近であったと思われる。
高野悦子が連行されたのは、京都市左京区東大路通冷泉下ル岡崎徳成町の京都府川端警察署だった。
任意の事情聴取を受けただけで終わり、逮捕されることはなかった。聴取が終わると、高野悦子は川端警察署を後にして、全共闘が再封鎖した京大教養部に戻っていった。
この1ヶ月後。
1969年6月24日未明、立命館大学三回生の女子学生が貨物列車に飛び込み、自死した。
高野悦子だった。
京大全共闘活動との接点と自死との因果関係が少しでもあったのかどうかなど、わかりはしない。本人のみぞ知ることだ。ただ、興味が湧けば、1971年に発刊された『ニ十歳の原点』は鉄道自殺で亡くなった高野悦子が死の直前まで書き留めたノートの内容で、ぜひ、それをお読みいただき、彼女のありし日を偲んであげてほしい。
希望を抱いて入学した立命館大学、そして仕方なく?拠点とした京大でも機動隊に制圧され、楽しい学びの場であるはずだった大学のキャンパス内が荒れ果てていく中、彼女は、身の周りに起こる出来事を懸命に考え続けた。大学生にありがちな「自己を肥大化しすぎる」こともなく、ただただマジメに、自分なりに考え抜こうとするひたむきな一人の若者の姿がそこにはある。自分の思想的な立ち位置について、生き様について、さんざん悩み、もがく彼女。そして、最終的に全共闘の「闘い」に身を投じていく、その過程は見てとれるだろう。
ジャズ喫茶「しぁんくれーる」に通い、「ろくよー(現在の六曜社珈琲店の地下の店舗)」で酒を飲む。酒を飲むときは「ろくよー」へ行くか、部屋でウイスキーをあおるか。酒を飲み、煙草も喫み、詩を読み、書き、自慰にもふけり、太宰を読み、歴史や”闘争”に関する本を読む。俺の主人、奥平剛士は早くから世界に目を向けていたから重信房子と近しく、高野悦子との接点はなかったようだが、俺がもし人間だったら、高野悦子とはきっと気が合って、いつも行動を共にしていただろうな、なんてね。
(第八話「重信房子と奥平剛士を結んだ赤い糸」につづく)