
2026年4月8日、18時25分。
平尾勇司、永眠。
彼は自ら決めた通り、10年間戦い続けた腎臓の病と決着をつけるべく、4月6日に最後の人工透析を行って、そのまま入院。週に3回、1回4時間という過酷極まる人工透析と決別し、つまりは神に命を預け、なんと2日後に旅立った。
私は何もする気が起こらない。
いま東京にいて、11日の通夜には広島には辿り着かねばならないが、車のハンドルさえ握れない。
まる1日、車を停めた高井戸の駐車場でずっと泣いていたが、彼との大切な約束があるので、ようやく気力を振り絞って、いまパソコンを開いたところだ。
彼と交わした最後の約束とは、「平尾勇司の死に様を伝えてくれ」というものだった。
「俺は自らの意思で4月6日で透析を止め、神に命を委ねる。
このことについて、平尾は自ら死を望んだ、つまり自死を選んだのだという誤解は誰にも決してしてもらいたくないんだ。
俺は、やるべきことをやり切った。
いい人生だったよ。
仕事もそうだが、闘病もしっかりやったしね。
1回4時間の透析を、週3回、それを10年間も、だ。
そして、透析のために生きているような日々とは、訣別することにしただけなんだ。
人の生死は、神が決めること。俺が生きるとか死ぬとかを神に預けただけに過ぎない。
だから越生、くれぐれも、俺の死生観、生き様を、正しく伝えてほしい」
その約束を、今、なんとか果たさねばならない。
最後の2ヶ月、戦友だった時代に帰って…
彼とこの約束をしたのは、1月28日のことだった。
昨年夏に「画家として人生を生き直します」とご報告に行った際、「じゃあ俺の顔を最初に描いてくれ」と依頼された絵を2枚、ご自宅にお届けに上がってすっかりご馳走になっていた夜10時すぎ、彼のご自宅で奥様が席を外されて二人きりになった時だった。
「つまり、4月には旅立たれると?(4月に今生の別れが来ることなど)到底、受け容れられません」
私は、そんなこと受け容れられないの一点ばりで、最後は「しつこい!」「もう決めたことなんや!」と怒鳴られたが。
その日からこのことを誰にも言えずに、悶々と1か月を過ごしたがついに耐えきれなくなって、彼の一番弟子である小岸弘和を訪ね、打ち明けた。
小岸に打ち明けて、本当によかった。
彼はその場から平尾に電話をし、彼自身、平尾の最後のその日まで最善を尽くしてくれたし、大切な仲間たちとのかけがえのない時間をつくってくれもした。
奥様、愛息はじめご家族でさえ受け容れた彼の決断は、結局は誰も覆すことはできなかったが、彼と一緒にあまりにも激しく働いた、戦友だったあの時代に戻ったかのような、あまりに濃密で幸せな最後の1ヶ月を、私は小岸弘和からもらうことができたのである。
それでも。
この世でもっとも諦めが悪いと自負する私は、最後まで、粘りに粘った。
最後の人工透析の日に間に合うよう、激励絵を描いた。

最初で最後のラブレター
そして、わが生涯を通じて誰にも一通も書いたことのないラブレターというものを、8枚も書いた。
恥ずかしいが、2つのことを伝えるために、一生懸命書いた。
「諸々前略にて失礼します。
冒頭に結論を。
私は、諦めておりません。
『しつこい!』『お前には死生観がない』
それは、仰せの通りです。
それでも諦めないのには一つだけ理由があります。
この世には、『起きるからこそ』そう呼ばれる『奇跡』というものがあって、それは時に身近にも起こるということを私は身をもって知っているからです。
私の姓は『越生』です。『越えて、生きる』と書きます。
戦災孤児の母と、同じく戦争で四人の兄全員を失った父を子のなかった『越生政勝』という私の生涯で最も尊敬する人物(私と血の繋がりがない祖父)が、養子として二人を引き取ったことから、私の『生』は始まりました。祖父が父と母を結び、戦争を越えて必死に生きる二人へのご褒美としてでしょうか、私と妹が生まれてきたのです。
だから、死生観はできていない男なのかもしれませんが、物心ついてから『越えて生きる』ことへの理解とその実践は誰にも負けない自負を持って生きてきた男ではあります。
自負の根拠を少しだけ聞いてください。
私の父は、三月十三日で九六歳になりました。
父が癌になったのは六十九歳の時でした。血液ガンなので全身への転移は避けられず、とりあえず肝臓と脾臓は摘出しましたが、すでに前立腺等に転移しておりました。
二年後二度目の手術を執刀してくださった医師からソフトボール大のがん細胞を見せられ「長くて余命半年と思ってください」と言われたあの日から四半世紀が経ちました。
が、彼は今、私のアトリエの隣の部屋で静かに寝ています。
ちなみに母は九十一歳、認知症ですがその隣の部屋で、これまた赤子のような顔ですやすやと眠っております。
これは事実ですし、現実です。
三月一六日。小岸くんの計らいでお会いできた時に、私は言いましたよね。
『もし奇跡が起こらなければ、私はこれまでに三度死んでいる』と。
奥様も宏司さんも、聞いておられたと思います。あの時は具体的にどういう臨死体験だったかなど申し上げる意味もなかったですが、ここでお話します。
一度目は二十五歳の時の交通事故。二度目は四十歳の時の胃腸からの大下血。三度目は六十歳の時の心筋梗塞です。
一度目は現場検証の警察から「君は、スタントマンに転職した方がいい」と。二度目と三度目は医師から『たまたまじゃないよ、奇跡が重なったからあなたは助かったんだ』と言われました。
強運自慢などと野暮なことをするつもりはありません。
これらも全て事実であり現実だと、言いたいだけです。
三月一六日、不覚にも人並み以上に涙してしまいましたが私は平尾さんにハグを求めませんでしたよね。ご家族や集まった仲間たちの想いに涙腺は決壊しましたが私はお別れするつもりなど毛頭なかったからです。
もしその後平尾さんの『決めたこと』に変わりがなければ、あるいはご家族や医師とのお話し合いがあって予定を変更されてなければ、今日が最後の人工透析だと思います。
もちろん平尾さんご本人、ご家族、そしてプロである医師に、今更私などが口を挟むことはできないのでしょう。
と言いながら、ちょっとだけ口を挟みます。
『過ちたるを改むるに憚ること勿れ』
原発推進の立場にあった小泉純一郎元総理が、手のひらを返したように今は反原発の急先鋒であることをご存知かと思いますが、これは今や彼の『口癖』となった言葉です。
仮にも一国の総理が在任中は原発推進すべしで政治を担い辞めてから東日本大震災の体験を経た直後に、彼は見事に豹変したのでした。
その主義主張の大転換について『おかしいのではないか』と指摘されたり『無責任だ』と批判されたり揶揄されたりするたびに、彼は決まって、まさに開き直ったかのように、そして実に堂々と、時にはちょっぴり可愛い微笑みを浮かべながら、この言葉を言い放つのです。彼の態度とこの言葉がストンと腑に落ちて以来『過ちたるを改むるに憚ること勿れ』は自らの朝令暮改をも正当化できる上位概念となりました。
何が言いたいか。
『あの時の、あの考え方は違っていたかな』と思ったら、あるいは気が変わったら、『ごめん』と言って、躊躇せず手のひらを返せば良いのです。
格好悪い? とんでもありません。
潔い『過ちたるを改むるに憚ること勿れ』こそは、本当の過ちを犯さない極意なのですから。
それでも平尾さんが考えを変えないなら。
「透析を続けてみよう」と思われない場合には。
その場合は、私はもはや、信じるしかありません。
何を信じるか?
もし、今日が本当に最後の人工透析となったとして。
「人工透析終了を、越えて、生きる」
という西洋医学の常識、エビデンスとやらの「超越」を、平尾さんがやってのけることを、です。
私はど真剣に信じます。
信じるゆえ、毎日毎日、平尾さんのマンションのお部屋に向かって本気で祈り、必死で念を送り続けます。ご家族はもちろん、仲間たちもきっと同じでしょう。
今日のところは、このぐらいにします。
生まれてこのかた「ラブレター」というものを書いたこともなければ「ピンポンダッシュ」もしたことがない私が、人生初のラブレターを郵便受けに置いてピンポンダッシュする、思春期少年並みの純情をお察しいただければ!
神は未だ、
貴兄を休せず。
生きて、生きて、
生き抜いて。
また会いにきます
貴兄を上司として、兄貴としても慕う、ストーカー男より」
この手紙を4月6日、そう、平尾が最後の透析に病院に向かうその前に、なんとかそのラブレターと3枚目の激励絵を手渡そうと広島のご自宅に車を飛ばしたが、入院時間を確かめていなかったために、息子の宏司さんに1日遅れで託すことになった。
早速、宏司さんが連絡をくれた。
「今朝は、マンションのポストに、魂の籠もった絵とお手紙、ありがとうございました。 早速本日お昼に父のところに持って行きました。父は、少しお薬で意識が朦朧としておりましたが、必死に越生さんの手紙を手に取って読んでいました。 一日でも長く生きられるよう、越生さんの絵を枕元に置いて過ごしています。 今晩は私一人で病院に泊まり込みます。」
「越生さんのお気持ち、理解しております。越生さんが真剣に向き合ってくださって頂いているからこそ出てくるお言葉であり、だからこそ読んでいる私も涙が出てきます。私の中にいるもう一つの気持ちを越生さんが代弁してくださっており、感謝しています。ありがとうございます。」
そうだよ!
私の気持ちは、宏司さんの中にいるもう一つの気持ちでもあるんだ!
誰が最愛の父の死を受け容れることなどできようか!
どれほどの葛藤があるだろうか!
平尾勇司のダイイングメッセージ
そして。
私のラブレターを読んでくれた平尾自身から、死の前日4月7日13時11分にメッセージが届いた。
「隣の部屋へ行くごと 静かに死すべし。
俺は今頑張ってるんだ!
わからんやつやなぁ〜 でもお前の愛に感謝する。」
その1日後、つまり死の当日の、9時29分にもメッセージが届いた。
これが、最後のメッセージだった。
「薬が効いてカラダはチカラが入りません
ろれつも回りません
ここまでは計画通りなのですが、
カリウム過剰による心肺停止が起こらず 目標未達」
このあと容体が急変し、18時25分、平尾勇司は帰らぬ人となった。
なんというすごい人だろうか。
最後の最後まで、凄すぎはしないか。
何が凄いかって、彼は、人工透析に『生かされてきた』のではなかったのだ。
透析をやめて、たった2日で、彼は逝った。
彼は自らの意思で、10年間の長きにわたって続うけてきた過酷な人工透析を止める決断をした。
止めなければもう少し生きるはずだった。
というか、少なくとも医学的にはそのはずだった。
しかし、最後の透析からたった2日後に彼は逝った。
この事実は、彼がどれだけ気力を振り絞って闘病を続け、生きようとしていたかの証に他ならない。
自ら最後まで生きようと気力を振り絞って戦ってきたのだ。
そして、神に全てを預けるや否や、神は彼を直ちに休ませた、それって、凄過ぎはしないか。
本当に最後の最後まで、平尾勇司は、実に彼らしく、そして見事に、家族のために、気力を振り絞って戦っていたのだ。
そんな彼に、神は仰せになったのである。
「もういいよ、よくやったね。このあたりで休みなさい」と。
決めたことは絶対にやり抜く。
彼を知る人ならご存知のはず。
それは、まさに平尾勇司の生き様であった。
そして、あまりにも見事な死に様であった。
彼の魂は、どこに?
彼が旅立った4月8日18時25分。
私は、平尾を訪ねた広島から車をぶっ飛ばして、東京は高井戸のスナック「すずめ」にいた。
奇しくも、これまた大切な友人である黒田真行の「癌を追い出す会」の開会と同じ時間であった。
4月8日18時25分。
癌と戦い続けて10年、黒田の体に悪さをする憎き癌細胞を「念」の力で消滅させるために、有志を集め、その開会を宣言したまさにその時間であった。
これは偶然なんかではない。
リクルートの財産である平尾勇司の魂は、4月8日18時25分、時空を超えて同じくリクルートの財産である黒田真行の体内に、まさに注入された、その瞬間であったのだ。
平尾さん。
あなたの魂は、私や小岸やあなたを愛するすべての弟子たちの心の中で生き続けるけれども、まさに黒田黒田真行という、あなたに勝るとも劣らない偉業を成した人物の中にも宿りましたよ。


黒田くん。
だから、あんたの魂は、さらに強くなった。
もはや最強だ。
そのこと、11日の通夜で、平尾さんに報告してくるよ。
癌細胞など、8日に集まったみんなの「念」で、どこかに吹っ飛んだはず。
あとは、リクルートの魂とも言える平尾さんが飛んできてあなたの身体に入った魂の力で、生きるのみである。
生きて、生きて、生きて、生きて、生きて、生きる。
平尾さんも、俺も、あなたも、一緒に生きていくぞ!