ノンフィクション「かもめのDNA」第11話 「平尾勇司の、あまりにも平尾勇司らしすぎる生き様と死に様」

2026年4月8日、18時25分。

平尾勇司、永眠。

彼は自ら決めた通り、10年間戦い続けた腎臓の病との決着をつけるべく、あるいはもうこれ以上透析に支配されることを許さず、4月3日に最後の人工透析を行った。

10年間も続けた週に3回、1回4時間という過酷極まる「人工透析生活」と、ついに決別したのだ。
それは、つまりは「現代医療を手放し」「神に命を預ける」という大きな転機であった。
そして、彼はその方針転換の5日後に、旅立った。

私は何もする気が起こらない。

いま東京にいて、11日の通夜には広島には辿り着かねばならないが、車のハンドルさえ握れない。

まる1日、車を停めた高井戸の駐車場でずっと泣いていたが、彼との大切な約束がある。
その約束を果たすために、ようやく気力を振り絞って、いまパソコンを開いたところだ。

彼と交わした最後の約束とは、

「平尾勇司の死に様を伝えてくれ」という

彼の依頼に応えることである。

その約束を、私は今、なんとか果たさねばならない。

最後の2ヶ月、戦友だった時代に帰って…

彼とこの約束をしたのは、1月28日のことだった。
昨年夏に「画家として人生を生き直します」とご報告に行った際、「じゃあ俺の顔を最初に描いてくれ」と依頼された絵を2枚、ご自宅にお届けに上がってすっかりご馳走になっていた夜10時すぎ、奥様がそっと席を外された。
二人きりになった。

平尾は私の目をじっと見つめ、こう言った。

「俺は自らの意思で4月3日で透析を止め、神に命を委ねることにした。

透析をやめると、10日かそこらで死ぬらしい。

だから4月中旬には、俺はこの世にいないはずだ。

それがわかっているのに、言っておかないと、お前のことだから怒るだろう?
だから、今、伝えておく。

このことについて、中には『平尾は自ら死を望んだ、つまり自死を選んだのだ』と言う人もいるだろう。また、『病気に負けて逃げ出したのだろう』と言う人がいるかもしれない。
そんな誤解を、俺はね、誰にも、決してしてもらいたくないんだ。

俺は、やるべきことをやり切った。

いい人生だったよ。

後悔は何もない。

仕事もそうだが、闘病もしっかりやったしね。
1回4時間の透析を、週3回、それを10年間も、だ。

そんな生活を10年も続けていると、次第に、『透析をするために生きている』ような気がしてきた。

そうではなく、生きるために透析を続けていると言うことが頭ではわかっていても、そんな気がしてきたんだ。

だから、医者も、家族も、時間をかけて説得してきた。
4月3日で、透析を止める、とね。

繰り返すが、死を選ぶんじゃない。
透析のために生きているような日々と、訣別することにしただけなんだ。

現代医療に預けていた命を、今度は神に預ける、そう言うことだ。
人の生死は、神が決めることだからね。

だから、俺が生きるとか死ぬとかを、神に預けただけに過ぎない。

だから越生、俺が死んだ時、くれぐれも、俺の死生観、生き様を、正しく伝えてほしいんや」

「つまり、4月には旅立たれると?

私は(4月に今生の別れが来ることなど)到底、受け容れられません」

しばらくして奥様が部屋に戻ってこられ、一緒に泣いた。

その後も私は、日付が変わってしまう、そんな時間まで、「そんなこと受け容れられない」の一点ばりで、最後は「しつこい!」「もう決めたことなんや!」と怒鳴られたが。

その日から、このことを誰にも言えずに、悶々と1か月近くを過ごした。

しかしついに耐えきれなくなって、彼の一番弟子である小岸弘和を京都に訪ね、打ち明けた。
小岸に打ち明けて、本当によかった。
彼はその場から平尾に電話をし、彼自身、平尾の最後のその日まで最善を尽くしてくれたし、大切な仲間たちとのかけがえのない時間をつくってくれもした。
奥様、愛息はじめご家族でさえ受け容れた彼の決断は、結局は誰も覆すことはできなかったが、彼と一緒に激しく働いた、まるで戦友だったかのようなあの時代に二人ともが戻って、あまりに濃密で幸せな最後の1ヶ月を、私は小岸弘和から授かることができたのである。

それでも。

この世でもっとも諦めが悪いと自負する私は、最後まで、粘りに粘った。
最後の人工透析の日に間に合うよう、激励絵を描いた。

最初で最後のラブレター

そして、わが生涯を通じて誰にも一通も書いたことのないラブレターというものを、書いた。

恥ずかしいが、愛息の宏司さんが「自分が胸にしまっている思いを代弁してくれている」とおっしゃってくれたので、お伝えする意味があるだろう。
手紙で伝えたいことは、2つあった。
「透析を続けてください」、というお願いと、
続けないなら、「奇跡を起こそう」という檄だ。
想いを込めて、一生懸命書いた。

「諸々前略にて失礼します。

冒頭に結論を。

私は、諦めておりません。

『しつこい!』『お前には死生観がない』

それは、仰せの通りです。
それでも諦めないのには一つだけ理由があります。

この世には、『起きるからこそ』そう呼ばれる『奇跡』というものがあって、それは時に身近にも起こるということを私は身をもって知っているからです。

私の姓は『越生』です。『越えて、生きる』と書きます。
戦災孤児の母と、同じく戦争で四人の兄全員を失った父を子のなかった『越生政勝』という私の生涯で最も尊敬する人物(私と血の繋がりがない祖父)が、養子として二人を引き取ったことから、私の『生』は始まりました。祖父が父と母を結び、戦争を越えて必死に生きる二人へのご褒美としてでしょうか、私と妹が生まれてきたのです。

だから、死生観はできていない男なのかもしれませんが、物心ついてから『越えて生きる』ことへの理解とその実践は誰にも負けない自負を持って生きてきた男ではあります。

自負の根拠を少しだけ聞いてください。

私の父は、三月十三日で九六歳になりました。

父が癌になったのは六十九歳の時でした。血液ガンなので全身への転移は避けられず、とりあえず肝臓と脾臓は摘出しましたが、すでに前立腺等に転移しておりました。

二年後二度目の手術を執刀してくださった医師からソフトボール大のがん細胞を見せられ「長くて余命半年と思ってください」と言われたあの日から四半世紀が経ちました。

が、彼は今、私のアトリエの隣の部屋で静かに寝ています。

ちなみに母は九十一歳、認知症ですがその隣の部屋で、これまた赤子のような顔ですやすやと眠っております。

これは事実ですし、現実です。

三月一六日。小岸くんの計らいでお会いできた時に、私は言いましたよね。

『もし奇跡が起こらなければ、私はこれまでに三度死んでいる』と。

奥様も宏司さんも、聞いておられたと思います。あの時は具体的にどういう臨死体験だったかなど申し上げる意味もなかったですが、ここでお話します。

一度目は二十五歳の時の交通事故。二度目は四十歳の時の胃腸からの大下血。三度目は六十歳の時の心筋梗塞です。

一度目は現場検証の警察から「君は、スタントマンに転職した方がいい」と。二度目と三度目は医師から『たまたまじゃないよ、奇跡が重なったからあなたは助かったんだ』と言われました。

強運自慢などと野暮なことをするつもりはありません。

これらも全て事実であり現実だと、言いたいだけです。

三月一六日、不覚にも人並み以上に涙してしまいましたが私は平尾さんにハグを求めませんでしたよね。ご家族や集まった仲間たちの想いに涙腺は決壊しましたが私はお別れするつもりなど毛頭なかったからです。

もしその後平尾さんの『決めたこと』に変わりがなければ、あるいはご家族や医師とのお話し合いがあって予定を変更されてなければ、今日が最後の人工透析だと思います。

もちろん平尾さんご本人、ご家族、そしてプロである医師に、今更私などが口を挟むことはできないのでしょう。

と言いながら、ちょっとだけ口を挟みます。

『過ちたるを改むるに憚ること勿れ』

原発推進の立場にあった小泉純一郎元総理が、手のひらを返したように今は反原発の急先鋒であることをご存知かと思いますが、これは今や彼の『口癖』となった言葉です。

仮にも一国の総理が在任中は原発推進すべしで政治を担い辞めてから東日本大震災の体験を経た直後に、彼は見事に豹変したのでした。

その主義主張の大転換について『おかしいのではないか』と指摘されたり『無責任だ』と批判されたり揶揄されたりするたびに、彼は決まって、まさに開き直ったかのように、そして実に堂々と、時にはちょっぴり可愛い微笑みを浮かべながら、この言葉を言い放つのです。彼の態度とこの言葉がストンと腑に落ちて以来『過ちたるを改むるに憚ること勿れ』は自らの朝令暮改をも正当化できる上位概念となりました。

何が言いたいか。
『あの時の、あの考え方は違っていたかな』と思ったら、あるいは気が変わったら、『ごめん』と言って、躊躇せず手のひらを返せば良いのです。

格好悪い? とんでもありません。

潔い『過ちたるを改むるに憚ること勿れ』こそは、本当の過ちを犯さない極意なのですから。

それでも平尾さんが考えを変えないなら。

『透析を続けてみよう』と思われない場合には。

その場合は、私はもはや、信じるしかありません。

何を信じるか?

もし、今日が本当に最後の人工透析となったとして。

「人工透析終了を、越えて、生きる」

という西洋医学の常識、エビデンスとやらの「超越」を、平尾さんがやってのけることを、です。

私はど真剣に信じます。

信じるゆえ、毎日毎日、平尾さんのマンションのお部屋に向かって本気で祈り、必死で念を送り続けます。ご家族はもちろん、仲間たちもきっと同じでしょう。

今日のところは、このぐらいにします。

生まれてこのかた『ラブレター』というものを書いたこともなければ『ピンポンダッシュ』もしたことがない私が、人生初のラブレターを郵便受けに置いてピンポンダッシュする、思春期少年並みの純情をお察しいただければ!

神は未だ、

貴兄を休せず。

生きて、生きて、

生き抜いて。

また会いにきます

貴兄を上司として、兄貴としても慕う、ストーカー男より」

この手紙を4月6日、彼が入院のため病院に向かうその前に、なんとかそのラブレターと3枚目の激励絵を手渡そうと広島のご自宅に車を飛ばした。

彼が1月28日に伝えてくれた最後の透析日4月3日(みっか)を、私は4月6日(むいか)と聞き間違えていたため、間違えて3日ではなく6日に訪ねてしまい、それでタッチの差で病院に向かった彼とお会いすることはできなかったのだが、こう見えて気の小さい私は、彼に会う勇気もなく、郵便受けに手紙と絵を入れて、ピンポンダッシュで会わずに立ち去ろうとさえ思っていたので、それはそれでよかった。

かくして、3日と6日の聞き間違いで、息子の宏司さんに手紙と激励絵を託すことになったが、早速、宏司さんが連絡をくれた。

「今朝は、マンションのポストに、魂の籠もった絵とお手紙、ありがとうございました。 早速本日お昼に父のところに持って行きました。父は、少しお薬で意識が朦朧としておりましたが、必死に越生さんの手紙を手に取って読んでいました。 一日でも長く生きられるよう、越生さんの絵を枕元に置いて過ごしています。 今晩は私一人で病院に泊まり込みます。」

「越生さんのお気持ち、理解しております。越生さんが真剣に向き合ってくださって頂いているからこそ出てくるお言葉であり、だからこそ読んでいる私も涙が出てきます。私の中にいるもう一つの気持ちを越生さんが代弁してくださっており、感謝しています。ありがとうございます。」

そうだよ!

私のこの気持ちは、誰より宏司さんの中にいるもう一つの『本当の』気持ちでもあるんだ!
誰が最愛の父の死を受け容れることなどできようか!

ご家族に、どれほどの葛藤があるだろう!

本人、そしてご家族が、一番つらいのだ!

平尾勇司のダイイングメッセージ

そして。

私のラブレターを読んでくれた平尾自身から、死の前日4月7日13時11分にメッセージが届いた。


「隣の部屋へ行くごと 静かに死すべし。

俺は今頑張ってるんだ!

わからんやつやなぁ〜 でもお前の愛に感謝する。」

その1日後、つまり死の当日の、9時29分にもメッセージが届いた。

これが、最後のメッセージとなった。

「薬が効いてカラダはチカラが入りません

ろれつも回りません

ここまでは計画通りなのですが、

カリウム過剰による心肺停止が起こらず 目標未達」

このあと容体が急変し、18時25分、平尾勇司は帰らぬ人となった。

目標達成?
最後まで、自分を律しようとした?

なんというすごい人だろうか。
本当に最後の最後まで、凄すぎはしないか。

何が凄いかって、彼は、人工透析に『生かされてきた』のではなかった。

透析をやめて、たった5日で、彼は逝った。

やはり限界まで頑張っていたのだ。

繰り返す。
彼は自らの意思で、10年間の長きにわたって続けてきた過酷な人工透析を止める決断をした。
最後の透析の日を、医師やご家族を説得した上で4月3日に決めたのは、3ヶ月も前のことだった。
止めなければ、もう少し生きるはずだった。

というか、少なくとも医学的にはそのはずだった。
しかし、最後の透析からたった5日後に、彼は逝った。

たった、と言う言い方は、本人、ご家族に失礼だろう、撤回しよう。
3ヶ月前に、すでに、自分の身体の限界を悟っていつつ、彼は5日間も、家族のために、病院のベッドの上で頑張り続けた。

この事実は、彼がどれだけ気力を振り絞って最後の最後まで闘病を続け、生きようとしていたかの証に他ならない。

3ヶ月前に、自分の限界を正確に見定めて、それでもその日までは家族のためにしっかり生きようと、気力を振り絞って戦ってきたのだ。
3月16日、死の3週間前に仲間たちと過ごしたとき、体調は最悪だったはずだが、集まったみんなとの会話を楽しみ、私のリクエストにこたえて、彼の愛唱歌「嘲笑」を歌ってもくれた。

死の当日朝にも、病床から私に最後のメッセージを送ってくれた。

最後の最後まで、彼の不屈の魂は、彼の命を力強く支え続けていたのである。


そして、神に全てを預けるや否や、神は正しい判断をなさった。

彼を直ちに休ませたのである。

何度だって言う。

凄過ぎはしないか。
本当に最後の最後まで、平尾勇司は、実に彼らしく、そして見事に、家族のために、気力を振り絞って戦っていたのだ。

そんな彼に、神は、やさしく仰せになったのである。

「もういいよ、よくやったね。このあたりで休みなさい」と。

決めたことは絶対にやり抜く。
彼を知る人ならご存知のはず。
それは、まさに平尾勇司の生き様であった。
そして、あまりにも見事な死に様であった。

彼の魂は、どこに?

彼が旅立った4月8日18時25分。
私は、平尾を訪ねた広島から車をぶっ飛ばして、東京は高井戸のスナック「すずめ」にいた。
奇しくも、これまた大切な友人である黒田真行の「癌を追い出す会」の開会と同じ時間であった。
4月8日18時25分。

癌と戦い続けて10年、黒田の体に悪さをする憎き癌細胞を「念」の力で消滅させるために、有志を集め、その開会を宣言した、まさにその時間が4月8日18時25分。

平尾勇司の魂は、腎臓疾患との長年にわたる戦闘で傷ついた彼の身体を離れ、その瞬間、敢然と癌に立ち向かい続けている黒田真行の中に入ったのだ。

ともに、リクルートを代表する「英雄」である。

偶然でも奇跡でもない。私に言わせれば、これは必然だ。

平尾勇司の魂は、「黒田の体から癌を叩き出す会」が開会したその時間、4月8日18時25分に、そこに集まった我々の「念」とともに、黒田の中に入った。

そして、悪さをする癌細胞たちに平尾の魂は炸裂したのだ。
「お前ら、なんでそういうことをするんや?」

黒田の体内のがん細胞を詰めまくり、必殺のリーガルキックをかましまくっただろう。

訃報は、この会が終わり、朝まで飲んでから寝るために戻った車の中で知った。

それから、高井戸の駐車場でまる一日、私は泣き続けた。

しかし、彼と交わした最後の約束を破るわけにはいかない。

なので、車の中で、気力を振り絞って、書いた。

これは、彼の、生き様と死に様の、真実である。

降り頻る涙雨で、広島の桜もすっかり散ったことだろう。
平尾勇司こそは、世界一美しく69回咲き、誇らしく、堂々と、見事に散った、偉大な桜だった。

平尾さん。

あなたの魂は、私や小岸やあなたを愛するすべての弟子たちの心の中で生き続けるけれども、まさに黒田黒田真行という、あなたに勝るとも劣らない偉業を成した人物の中にも宿りましたよ。

黒田くん。
だから、あんたの魂は、さらに強くなった。
もはや最強だ。

そのこと、11日の通夜で、平尾さんに報告してくるよ。
癌細胞など、8日に集まったみんなの「念」で、どこかに吹っ飛んだはず。
あとは、リクルートの魂とも言える平尾さんが飛んできてあなたの身体に入った魂の力で、生きるのみである。

生きて、生きて、生きて、生きて、生きて、生きる。

平尾さんも、俺も、あなたも、一緒に生きていくぞ!

同期からのメッセージ

平尾勇司と同期R80の東谷典尚が下さったメッセージが私の心を打ったので、最後にそのまま紹介させていただく。

「彼はとてもシャイな人でした。

同期会では常に静かで人の話を聞いている。

いじられても笑っている印象が強いです。

東京に戻り、G8の狭い場所で二人で360制作の段取りをしおえた後に、広島支社長で終わるつもりだったと本人からは聞きました。

失う物は無いような話も聞いたように思います。

私が制作ハード系で当時は「鬼」と呼ばれていましたが、仕事では優しく、少し距離もあり気楽に話せたのかもしれません。

同期を部下にした時も、かれなりに紳士的に接していたようです。

武田均に引導を渡す役目を彼は立派にというか、淡々とこなしました。

アル中から抜け出すチャンスを再度彼に与えたわけです。

同期はそういう平尾に感謝しました。

経営の受けが良いR81に比べて採用失敗と言われたR80です。

制作系では中澤・中村泰・千葉望・武田均・五十嵐(山崎)千春、平原、芳原、営業では松井(ガテン)、新潟、秋末、廣田、武井、橋本など、たしかにいい加減な連中ですが、今でも毎年同期会があり仲はよかったです。

同期で逝ったのは知る限り5人目、早過ぎます」

このノンフィクションは、実は、平尾勇司から1月28日に「4月3日を最後の透析日とする」と聞いた翌日の帰りの車の中で、「彼のことを書かねば」という使命感で始めたものである。
かもめのDNAというタイトルをつけて趣旨をぼやかしつつ始め、いよいよ8話から11話まで、彼のことを書き続けてきた。
もう、目的は達したので、このままこれを最終話としてやめてしまおうかとも思ってもしまう。
平尾のDNA継承の話はまだまだあるのだが。

とにかく、もう、今は何もする気がしない。

幸い、絵は描ける。
音楽も、気が紛れる。


絵を描くこと、歌うことは、「祈り」であるからだ。

しばらくは絵と音楽に専念し、間を置いて、せっかくの「平尾のDNA」が、どういう人にどのように受け継がれていったのか、そのことだけはまた書く日が来るかと思う。