
今日行われた第76回全国高校駅伝競走大会。
その男子のレースに、私は例年にもまして注目していた。
私の地元・兵庫代表の西脇工業はもちろん、三連覇に挑む佐久長聖高校と名門中の名門・世良高校には今年、強さがずっと継承される秘密を「素人なりに知ろうと」学校を直接訪ねていたし。
まあ、要するに、つまりは私、かなりの高校駅伝ファンなのである(笑)。
そんな中で最も注目していたのはズバリ、前回大会2位の大牟田(福岡)から移った赤池健監督を追って、18人が今春集団転校し、一気に優勝候補の一角となった鳥取城北。全国制覇5回、昨年も準優勝した高校駅伝の名門・大牟田高校から部員19人中18人もの選手が集団転校してチームに加わった鳥取城北は、鳥取県予選を圧倒的な強さで制し、2年ぶり9回目出場を果たしていた。
鳥取城北への転校を決断した選手たちが大人の事情にどれほど翻弄されたのかはわからない。しかし、元々いた選手がどれだけ戸惑ったろうということは、容易に想像できる。
そのうちの一人は、晴れの舞台を走る7人の一角に食い込んだ。
一つのチームになって、鳥取城北高校は今日、見事、鳥取勢過去最高の4位に入った。
いよいよレース開始。
全七区間42.195キロの一区、最長の10キロは、各校が力のある選手をエントリー。この区間は、世代ナンバーワンランナーを決める区間と言っても差し支えない。
鳥取城北のエース格、U20日本選手権で3000mと5000mの2冠を飾った本田桜二郎くんも、さすがに緊張は隠せない。

号砲が鳴った。

あいにくの悪天候、雨が降り頻る中でスタート直後一人が転倒したが、驚異的なペースでレースは進んだ。

そして、福島県代表・学法石川の益子選手が歴代日本人最高記録での快走。西脇工業が続き、そして鳥取城北は本田桜二郎くんが3位と粘って、先頭と32秒差で二区にタスキを渡した。

本田くんは鳥取城北への転校を決断したことについて、こう振り返っていた。
「中学時代にバスケットボール部で陸上大会に借り出された僕を見いだし、大牟田に誘ってくれたのが赤池先生。大牟田に住む親は鳥取への転校に反対しましたが、説得しました」
全国高校体育連盟の規定では、転校後、6カ月は同連盟の主催大会に出場できない。駅伝シーズンには間に合うが、陸上競技のメイン大会となるインターハイ路線には参戦できないことになる。本田くんのように全国優勝を狙える選手にとっては厳しい決断だっただろう。
「最終目標は都大路なので」
彼の転校の決断に迷いはなかった。
在校生部員の成長に感動!
そして二区。
鳥取県予選で鳥取城北は、7区間全てで大牟田から転入してきた部員が出場して圧倒的強さで全国大会出場を決めた。
しかし、この全国大会本番、赤池監督が選んだエントリー選手10人の中には、従来組つまりもともと鳥取城北に在籍していた山根爽楽くんと、前々回6区で35位タイの実績を残していた中原優月くんの2人が入っていた。
そして、監督は、留学生も走るこの二区に山根爽楽くんを起用したのだった。

私のテンションは俄然上がった。
従来の在校生グループの中で、グングン実力を伸ばし、見事二区の走者に選ばれた山根くんは、任された二区で順位を2つ落としはしたが、見事3区にタスキを渡した。


特筆すべきは、先頭との差は、ほとんど広がっていなかったことだ。
彼の見事な走りを見ながら、私は、在校生だけの時代にチームを率いていた主将・早田慶哉くんのことを思った。もし、大牟田からの集団転校がなければ、従来組の主将の早田慶哉くんも都大路の大舞台で走れていたかもしれないな、と。
彼はこう言っていた。
「昨年まで月間走行距離は450~500キロだったが、今年の夏場は700~740キロ。練習の質も量も上がり、意識も変わった。転校生たちの存在は自分のプラスになった」
「大牟田高校から来た生徒とのつながりっていうものを、橋渡しという言い方で自分はコミュニケーションを取れるように」
「今年が新生城北高校のスタートであるので、その節目となる大会で走る7人だけでなくチーム全体で戦っていけるような駅伝にしたい」
早田くん、あんたはすごい!きっと社会で大した男になるだろう!間違いないよ!
転入組と在校生組がワンチームになるまで
転校生や新入生を含めて部員56人、女子マネジャー5人となった鳥取城北駅伝部には選手寮が新たに用意され、寮生は37人となった。
しかし全国高校駅伝5回優勝で前回2位の強豪中の強豪校、大牟田にいた選手たちと、近年は全国大会常連校になりつつも最高成績30位(23年)の鳥取城北の選手たちとの間には、競技力や意識に明らかに差があった。
赤池監督の最初の決断は、従来の在校生グループと転校生グループにそれぞれ主将を置くダブル主将制を敷いたことにあった。
赤池監督は、城北にもともと在籍していた早田選手と大牟田から転入してきた宗像選手をそれぞれキャプテンに指名。もともとの在校生を早田選手が、転入生を宗像選手がサポートする体制をとったのだ。
「夏合宿では鳥取城北に元々いた3年生が一番頑張っていた。私も当初は元々いた部員たちに遠慮があり、強くものを言えなかった。だが、夏以降、両者を分け隔てる意識は全くなくなった」
「やっぱり鳥取にもともといた2年生、3年生が一番頑張ったんじゃないかと思います。やっぱり(転入生が入って)良い思いでスタートしたわけじゃないと思うので、やっぱりこの子たちが受け入れてくれなかったら今の城北は無いと思っているので」
赤池監督、体罰はあかんけど、やっぱり生徒がついてくるだけのことはありますね。
ワンチームで勝ち取った全国4位!
さて、レースに戻ろう。
三区以降は、転校生組がタスキを繋いで頑張った。
在校生の山根爽楽くんのタスキを受け取ったのは村上遵世くん。
大牟田高に入学し1年生のとき前々回の都大路は最終7区を走って11位、前回も7区を走った村上遵世くんにとってはリベンジの舞台である。

「昨年は自分が抜かれてて2位に。その悔しさで1年間やってきた。都大路の借りは都大路で返したい」
そして、その気持ちが苦しい局面で自分自身の背中を押したのだろう、歯を食いしばってラストスパート。5位から見事3位へと順位を上げた。

実に見事な力走だった。
四区は転校組の主将を務めてきた、宗像琢馬くんだ。

宗像琢馬選手(同)は大牟田高校駅伝部から転校 宗像琢馬くん 「インターハイが出れないというのは分かっていつつも、駅伝にかけたいという思いがあって、(当時の大牟田の)生徒で話し合いをしたりしてやっぱり(鳥取城北に)行って 、赤池先生のもとで駅伝をして最終的に恩返しできたらなという思いをもって決断しました」
「新しい練習環境、元々いた選手たちとの関係、新しい学校生活と三つの不安があった」と明かす。
五区は2年生の野嵜劉心くんだ。

宗像くんは転校組主将の重責を見事果たした。

主将からタスキを受けた野嵜くんは、最後まで3位を保って、先頭との差1分25秒で六区に繋ぐ。

六区は末永琉海くんだ。
一つ順位を落としたが、彼もまた素晴らしい力走。
トップとの差は開いていない。

そして最終七区を任されたのは1年生ランナー長煌介くんだ。

福岡市立友泉中学出身なので、彼もまた追いかけて鳥取城北に入学した選手だろう。中学時代から注目されていた選手だけあって、1年生にして各大会で見事な成績をおさめているその実力を十二分に発揮して、見事に4位でゴールに駆け込んだ。

体罰を反省し出直した赤池氏だったが
ことの発端は赤池氏の体罰問題だった。
赤池氏が大牟田高の監督時代、部員に対して平手打ちなどの体罰を行っていたことが発覚したのだ。退職願を提出したのは、2023年4月のこと。
当時の部員や保護者は指導継続を望み、その声を受け、赤池氏は研修を経て部活動指導員として1カ月後の4月、学校は部活のみを指導する「部活動指導員」として赤池氏を復帰させた。その後はヘッドコーチという肩書ながら、実質、駅伝部の指揮を執っていた。
その2023年の大牟田高校の成績は全国6位。
そして、2024年はなんと準優勝。これは赤池氏が監督に就任した2006年以降の最高成績であった。
実に皮肉なことだが、結果的に、体罰問題から右肩上がりで結果を残すことになったのである。
ちなみに赤池氏の教え子には今年の箱根駅伝でも活躍した太田蒼生(青学大)、馬場賢人(立教大)らがおり、赤池氏の選手育成力は多くの関係者が認めるところである。
もし体罰問題がなければ、大牟田高での指導が続き、今回のような騒動は起きていなかっただろう。
しかし。
学校側はなんと全国大会の1ヶ月前の11月、25年度から新監督を迎える方針を関係者に伝達していた。
大牟田高校に大きな実績を残した赤池氏に対して、学校は教諭(&駅伝部監督)から駅伝部ヘッドコーチに“降格”すると。学校法人も、採算を求められる経営組織である。降格に伴って、収入面にももちろん影響があったと思われる。
赤池健監督への露骨な嫌がらせ人事?
同校の赤池氏を排除するような動きは、実に露骨だった。
私がサラリーマン生活を送ったリクルートにも、辞めさせることを目的としたかのような「嫌がらせ人事」は存在したが、その一つが、後輩を上司に据えるというものだ。
事実上降格されることに、赤池監督は「私を辞めさせたいという学校側の意向を以前から感じていた」と不信感を募らせたが、赤池氏が耐えられなかったのは待遇面だけではなかったろう。
後任の人選こそは彼の実績をも否定するものであり、彼のプライドをズタズタにしたに違いなかった。
赤松氏と、公認監督に人選された磯松氏は、ともに大牟田高OBだ。
赤池氏が1学年上になるが、二人の選手としてのキャリアにはかなりの差がある。
赤池氏は2、3年時は補欠だったし、全国高校駅伝の出場はない。進学した日本体育大でも箱根駅伝を走ることはできなかった。母校に教師として戻り、指導者として実績を積み上げてきた、それが赤松氏のキャリアだ。
一方の磯松氏は、全国高校駅伝に3年連続で出場し、3年時は優勝している。法政大時代は箱根駅伝に4年連続で出場し、いずれの年もエースとして活躍した。大学卒業後はコニカミノルタの中心選手としてニューイヤー駅伝で6度の日本一を経験。その後はコニカミノルタの監督も務め、同じく強豪のトヨタ自動車九州のコーチを歴任。これ以上輝かしいキャリアって他にあるのかというものである。
学校側は、そんな磯松氏が、大牟田高校のさらなるイメージアップになるとでも考えたのだろう、赤池氏を磯松氏のサポート役にまわす方針を決めた。選手と保護者は反対し、撤回を求めた。
しかしその要望はかなうことなく、赤池氏は1月に退職願を提出、今年3月に退職する。
そして、勧誘を受けた鳥取城北に4月から保健体育科教員として勤務することになったのだった。
ネットには容赦のない誹謗中傷が
赤池氏の鳥取城北高監督就任はいわば“転職”であるため、外野がとやかく言う問題ではない。
しかし、教え子たちの“集団転校”が起こると、ネット上にはさまざまな誹謗中傷が溢れ、赤池氏だけならいいが、転校する生徒たちをこれでもかと大いに傷つけた。
まず、集団転校することで、名門・大牟田高の戦力は大幅にダウンすることになった。それどころか、新入生も大半の選手が鳥取城北高へ進路変更したため、大牟田高はただ一人の3年生と、新入生の入部を待つだけの状態になった。駅伝メンバー7人すらギリギリ、実際、福岡県予選で惨敗している。
母校を見捨てた自分勝手なやつら、という心無い声は、転校していった彼らをどれだけ苦しめたことだろう。
大牟田高を来年度から率いることになる磯松大輔氏にとっても、全国大会出場と優勝を狙うどころか、部の「根本からの再建」という異質の仕事、茨の道に変わってしまった。そのことへの同情の声も聞かれた。
地元選手がいないチームはいかがなものか?
同情は、鳥取城北と県代表を争う米子松蔭高にも向けられた。
同校は昨年の全国高校駅伝に3年ぶり8回目の出場を果たしたが50位。出走メンバーは全員が鳥取県内の選手たちだった。
そのメンバーが4人残っているとはいえ、区間上位で活躍した選手はいない。5000mのタイムで言えば、全国トップレベルでは13分台の選手がいる中、14分台すら1、2年生で12人しかいないのだ。
実際、鳥取県高校駅伝では、13分台の実力を持つ大牟田高のトップ選手がごっそり転校してきた鳥取城北高とは勝負にならなかった。
このことへの同情は、さらに地元の選手がいないチームが全国大会で活躍することの是非論へと飛び火する。
2016年に夏の甲子園に出場した秀岳館高はベンチ入りした18人に地元・熊本出身者が一人もいなかった。スタメンメンバーの多くが鍛治舎巧監督が率いていた大阪のオール枚方ボーイズ出身者だったため、「大阪第二代表」と揶揄する人もいた。
とはいえ大阪の選手にとって“野球留学”はよくある話。より良い野球環境や優秀な指導者を求めたり、甲子園に出られる確率が高い地域の強豪校を選んで、越境進学したりすることは珍しいことではない。
高校駅伝では13年前の2012年、仙台育英(宮城)の選手10人(男子7人、女子3人)が豊川(愛知)に集団転校したケースがある。同年の全国高校駅伝で同校は男子で初出場初優勝。
そんなの反則だろうと、大いに論議を呼んだ。
鳥取城北高も部活動が盛んで、特に相撲部は照ノ富士、逸ノ城ら多くの関取を輩出しているが、この両名はモンゴルからの留学生。ネット上の論議は、本質を大きく外れて、留学生問題にまで飛び火したのだった。
誹謗中傷を全て吹っ飛ばした、選手たちの力走
「今回の件で鳥取の方々に心配をかけて申し訳ありません。大牟田から転校する選手だけではなく、現在、鳥取城北に在籍している選手を強くすることが私の使命です。力を合わせて頑張っていきたい。また、鳥取県内の高校と切磋琢磨し、鳥取県のレベルアップに貢献したいと思っております」
赤池氏は、言いたいことは山とあったろうが、その全てを飲み込んでこう言い続けた。
鳥取城北駅伝部の寮の舎監を務める赤池監督の妻、もやいさんも辛い思いをしてきた。
「大人の事情で子供たちに転校という大きな決断をさせてしまった」と。
そして今日。
鳥取城北の選手たちの力走に、純粋な高校生たちを巻き込んだ大人たちの事情も、ドロドロした思惑も、悍ましい嫌がらせ人事も、そこに関わった全ての大人たちは、救われたはずだ。
転校にしても、保護者の同意なくして自分一人では決められない高校生である。
転校を学校経営者や親やOBなど、大人の論理が彼らを振り回し、ましてや心無い誹謗中傷が彼らを傷つけ続けたこの9ヶ月間を意味あるものに変えてくれたのは、その、まだ子どもである高校生であった。
今日までの選手たちの努力、その結果としての今日の力走ぶりは、それまでのドス黒い大人の営みとは対照的な、眩しいばかりの輝きを放っていた。
今日、改めて。
この件に関係した大人たちは、彼らに感謝するべきだ。
特に、学校経営当局は、大いに反省し、生徒不在の学校経営を大いに悔い改めるべきだろう。
道の駅「おおむた」、愛称は「花ぷらす館」
道の駅「おおむた」は、大牟田高校から北東方面、大牟田市郊外にある。

道の駅は大牟田市が推進する工業団地「大牟田テクノパーク」の玄関口に立地。 自然が残る環境でありながら高速インターから近く、かつては年間70万人の来客数を誇る人気の道の駅だった。
しかし大牟田市街地からはかなり離れていることで、じわじわと市民の利用が減少。 近隣に新たに同様の施設や道の駅「みやま」がオープンしたなどをきっかけに、わざわざ高速道路を利用して本駅まで来る客も減少。 累積赤字が膨らんで、2014年に開設当時の運営会社は解散。
道の駅は、再建されて?現在に至っている。
まさか大牟田高校の経営当局も、準優勝に輝いた駅伝チームの19人中18人がごっそり集団転校し、入学予定だった有望な新入生もほとんどが進路変更して入学に至らないとは思わなかっただろう。
部員がほとんどいなくなったところからの大牟田高校の駅伝チームの再建は容易ではないだろうが、所詮は学校当局が、「自分で蒔いたタネ」である。
昨今の道の駅の安易な設置、そして経営難、あげくの果ての廃墟化もまた、多くは自治体当局が「自分で蒔いたタネ」。
「自分で蒔いた種は自分で刈らねばならない」、英語では「You reap what you sow.」ということだが。
この国の大人たちは子どもたちに偉そうに教えてはいるが、自分でやってみせることができる大人って、果たしてどれほどいるのだろうか。
今回の九州の旅で、最後に立ち寄った大牟田の、道の駅「おおむた」で、考え込んでしまった。
あ、道の駅の紹介をすっかり忘れていた。
駐車場は、全く無意味にだだっ広い。

トイレは、とても綺麗に清掃していただいている。本当にありがたいことだ。



休憩するだけなら、十分な環境であり設備だろうと思われる。






いいことが一つ。
かつて日本の発展を支えた明治の産業革命遺産「三池炭鉱」についての勉強は、しっかりできる!
これだけは間違いない。
