たとえば京都発、ベイルート着。〜学生たちそれぞれの片道切符〜 第八話「全共闘V.S.民青V.S.一匹狼・奥平剛士」

全共闘の発生

物語はここまで、私の主人、奥平剛士が京都に来てからの6年間をたどりながら、1969年5月に起こった、立命館大学と京都大学での学生たちと機動隊との衝突あたりまで進んできた。この間、繰り返しそれぞれ組織名として出てきた「全共闘」と「民青」について、それが一体なんだったのか、物語の登場人物とどんな関係があったのか、少しおさえておきたい。

まず「全共闘」とは,学園闘争のなかで見られた “全学共闘会議” という組織名の略称だ。

全員加盟の学生自治会とは別に、全学共闘会議(全共闘)という組織?が新たに生まれたのだが、それは自分たちの要求を実現するために闘う組織という概念でしかなく、出入りは自由、自分で全共闘のメンバーになると決意すれば、だれでも全共闘になれる、そんなものだった。

その発生源は、日大であるとも、あるいはいや東大だとも言われている。

時を経て、いろんな問題で揺れに揺れる日大だが、60年近く前、全共闘の発生源とされる日大全共闘は、大学をめぐって発生した「不正」や「誤り」を正そうと名乗り出た代表者を選出して結成され、自らの要求を自らの手で解決していくための方法として、大衆団交による話し合いを大学当局に要求したというのがその端緒であった。

ただ、この全学共闘会議の一員になるのに特別な契約書が交わされていたわけではなかったし、日大全共闘が会員証を発行していたわけでもなかったし、誰かが全共闘の一員として認めることによって全共闘に加われたわけでもな買った。学生たちは、自分の選択した行動によって日大全共闘の一員になり、そう名乗っていたにすぎなかった。

一方、それとは異なる性格を持ったのが東大全共闘だった。東大全共闘は、それぞれに決意した個人の集まりという建前がありつつ、いくつかの政治党派の活動家と無党派の活動家の複雑な関係から成り立つ集団でもあった。少なくとも東大全共闘は、政治党派に関係がある学生と無党派の学生が共闘関係を結んで形成した集団であり、主体的な個人による不定形で開放的な集合性だけではなく、メンバーシップと意思統一の手段を備えた通常の社会運動組織としての性格を色濃く帯びていた。

この二大学の全共闘モデルが、全国の大学の状況に応じて形を変えて飛び火し、ストやバリケード封鎖などは単純に模倣されて、次々に広がっていった。つまり東大と日大で発生した学園闘争をきっかけに、1968 年から 1969 年にかけて、全共闘という組織をつくって展開される学園闘争というものが一気に拡大していったのだ。

こうして“全共闘” は、あっという間に、1960 年代後半の学生運動を理解するにあたって重要な位置を占めるまでになる。当時、1960 年代後半の学生運動の際立った特色とされるのが全共闘であり、ときに当時の学生運動の総称のように扱われることすらある。

では、それは何故なのか?

おそらくその盛衰が、当時泥沼化していたベトナム戦争や 1970 年にふたたび迫っていた日米安保条約改定をめぐる反対運動などの政治闘争と組織的・人的つながりを持ちつつ、全国の大学キャンパスを舞台に発生していた学園闘争と重なっていったからであろう。

東大全共闘の3層構造

東大全共闘には、各学部、学科、各系大学院、研究所など、各組織の代表からなる代表者会議が組織された。しかし党派色を出さないのが原則だったため、新左翼など特定の党派による運動の支配を防ぎ、党派に属していない学生の参加を可能にしていた。

東大闘争の発生は、医学部だった。東京大学医学部では 1968 年 1 月 29 日に医学部全 4 学年がストライキに突入する事態となったが、このストライキの過程で,退学処分 4 名を含む合計 17 名という,類例のない学生大量処分が医学部教授会によっておこなわれたが、処分された学生のうち 1 名は処分理由となった事件に関わっていなかったことが明らかになったことで、医学部生と医学部当局の対立が決定的になった。

医学部内の闘争が全学に波及したのは 1968 年 6 月だった。登録医制度と学生不当処分の 2 つの問題にかんする訴えを医学部教授会が取り上げる気配がないことから、6 月 15 日、医学部生たちは他大の医学生たちとともに本郷キャンパスにある安田講堂の占拠に踏み切ったのだ。

東大執行部の対応は素早かった。これに対して 6 月 17 日に早くも機動隊を導入したのだ。しかし警察力をキャンパスに入れて学内問題の解決を図ることは、当時の学生たちや教員の感覚からすれば「大学自治」を侵す暴挙でしかなかった。

この機動隊導入は、全学部の学生たちの怒りに火をつけた。機動隊導入から 3 日後の 6 月 20 日には、全 10 学部のうち 9 学部の学生たちが 1 日ストを決行する事態へと発展し、その抗議活動は 1 日ストに終わらず,6 月 26 日に無期限ストライキに入った文学部を皮切りに,6 月から 10 月初旬にかけて,学部ごとに、学生たちは医学部学生の不当処分や機動隊導入に抗議して続々と無期限ストライキに突入していったのである。

この東大闘争参加者は、 3 層の学生たちに大別された。7 月 5 日に結成された東大全共闘のもとに糾合した新左翼系、ノンセクト系、そしてこの二者と対立関係にある民青系である。

全共闘派の学生たちだけではなく、東大闘争の重要なアクターとして見逃せないのは、旧来の左翼学生運動である民青系学生だった。こうして東大闘争は、ノンセクト系と新左翼系、そして民青系の相互作用を通して展開していった。政治的志向性が大きく異なる新左翼系とノンセクト系から成る全共闘の集合性は、民青系との敵対的な関係性によって、その形成と維持が促されていたとも言えよう。

民青系学生運動は、当時東大においても活発であり,東大闘争では全共闘と対立しつつ,不当処分や機動隊導入を批判して独自にストライキを推進していた。結果として、全 10 学部が無期限ストライキに入った際、全共闘派の学生たちがストライキを主導したのは 9 学部、民青系がストライキを主導したのは1学部(教育学部)だった。

東大闘争、そして安田講堂攻防戦

1968 年 10 月から東大の全 10 学部で無期限ストライキがおこなわれている状態となったが、全学無期限ストライキが維持されたのは約 2 ヵ月間だった。1968 年晩秋になると、ストライキ反対派の学生たちが組織化を始め、また 11 月には日本共産党が方針転換し,民青系学生たちがストライキ推進からストライキ終結へと態度を変えた。

民青系学生とストライキ反対派学生が共同で大学執行部と交渉を進めた結果,1969 年 1 月 10 日,7 学部の学生代表団と大学当局とのあいだで,“10項目の確認書” が締結された。これと前後して各学部でストライキが解除されていく。

確認書締結後も全共闘系学生の一部は、安田講堂占拠を続けた。この排除のために導入された機動隊と学生たちとの大規模な衝突は、1 月 18 日・19 日の 2 日間にわたってくりひろげられ、最終的には排除された。学生運動の象徴とさえ言えるこの安田講堂攻防戦は、おそらく世代を超えて知る人の多い出来事である。

ただし、ただちにキャンパスが平常に戻ったわけではなかった。全共闘派の学生たちは確認書による闘争の終結に納得せず,再度の機動隊導入の責任を大学執行部にたいして追及しようと試み,授業再開阻止にも動いた。また,ストライキが最も長く続いた文学部では、ストが解除されたのは 1969 年の暮れ、12 月のことであった。

東大闘争の特徴は3つあった。

一つ目は、東大全共闘のもとに糾合した新左翼系、ノンセクト系、この二者と対立関係にある民青系の3層構造で展開したこと。

2つ目は、全共闘派学生たちのなかから,登録医制度や学生不当処分といった個別の問題を越え,東京大学や研究者のありかた、さらにそこで学ぶ自らのあり方を問う動きが出てきたこと。それは,全共闘派の学生が用いた「大学解体」や「自己否定」といったスローガンに象徴された。

3つ目は、ベトナム戦争や 70 年安保,沖縄返還問題などをめぐって新旧左翼党派が展開する政治闘争と東大闘争が連動したこと。キャンパス外のデモに、学生たちはたびたび出かけていった。

京大全共闘 V.S. 民青

京大全共闘(京都大学全学共闘会議)は、1960年代後半の学生運動の時代に、既存の学生自治会や特定の政治セクトの枠を超えて京大生が結成した反体制・非妥協的な学生連合組織、実力闘争組織である。

これまで書いてきたように、1969年の学生部封鎖や時計台占拠などを通じて大学当局と激しく衝突し、大学のあり方や社会体制に異を唱えた京大闘争だったが、同年9月の機動隊導入により終息した。

京大闘争の特徴としては3つあった。

一つは、既存の権威や大学制度の解体を大きく掲げたこと。

二つ目は、バリケード封鎖や実力闘争を激しく展開したこと。

三つ目は、民生系学生との対立構図がより露骨であったこと。

この3つ目をこと、つまり民生派と半民政派が真っ二つに割れたことについては、京大闘争をを理解するために少し歴史を遡る必要がある。

日本の学生運動は,敗戦直後から 1950 年代半ばまではほぼ独占的に日本共産党とその指導下にある民青によって担われていた。

しかし、1956 年のフルシチョフによるスターリン批判とソ連のハンガリー侵攻や日本共産党の議会主義路線への転換によって,ソ連共産主義とそれに追随する日本共産党への幻滅が広がり,日本共産党から離反する民青系の学生活動家たちや,そもそも民青とは関係のないところで社会主義運動を形成しようとする若者たちが登場した。

こうした元民青系活動家や若者たちは、のちに新左翼と総称される左翼小党派群を形成。これら新左翼党派やその青年組織の同盟員やシンパである学生が「新左翼系」を成していくのである。

そして 60 年安保闘争を契機に、さらなる学生運動の分化が生じる。高度成長に起因する社会主義革命というビジョンが持つ魅力の減退や高等教育の拡大を背景に,社会主義革命運動とも左翼党派とも関わりを持たずに,学生固有の問題に取り組む学生運動が萌芽したのであり、これがノンセクト系の源流といえる。

ただし 1960 年後半には,新たな学生運動の潮流である新左翼系とノンセクト系だけでなく,民青系も学生運動の担い手として強力だった。共産党が異様に強い京都においてはなおさらのことであった。

全共闘の皮を適当に被って公安の目を逸ら続けた一匹狼

俺の主人、奥平剛士にとって見れば、そんな安易なものは取るに足らない、真剣に向き合う価値を感じない、実に退屈なものであった。

犬の俺が言うのもなんだが、全共闘の活動など、奥平剛志にしてみたらどうでも良い存在であった。また、民青にしても何らの力を持たぬ日本共産党にぶら下がった集まりに過ぎず、これまたどうでも良い存在だったのだ。

彼の問題意識は、初めから、彼らが問題にしていることよりもはるかに本質的なところに向けられていた。それは、この世のあまりの理不尽と、それをつくった罪人たちの打倒である。

日本で言えば、部落差別の理不尽。だからこそ彼は、大学入学と同時に、被差別部落地域のど真ん中に飛び込んだ。そしてそこで大人たちと働き、地域の子どもたちと接し、自分自身の身体に、その理不尽を、徹底的に叩き込もうとし続けた。

そして、世界で言えば、パレスチナの理不尽である。パレスチナを侵略したユダヤ人国家イスラエルを問題視し、それよりもそれを陰で操ってきたイギリス、そしてこの地の争いに乗じて我田引水を図る腹黒いアメリカの打倒を、彼は胸に深く秘めつつ、その時、つまり行動を起こすべき時が来るのを、待っていた。

そんな奥平剛士にとって、甘っちょろいハナタレ小僧の後輩たちが徒党を組んで馬鹿騒ぎを始めたな、と言う程度の存在でしかなかった全共闘は、そこに紛れて身を隠す隠れ蓑にはちょうどよかった。

のちに、6回生だった1989年に吹き荒れた京大闘争において、幹部の一人に祭り上げられ、機動隊との衝突や時計台占拠では幹部から頼られてもいたが、彼は指導者に名を連ねることを拒み、また、機動隊との衝突にあっても警察に捕まるなどというヘマは、決してしなかった。

それは、もちろん、彼に、他の学生とは愛通じない最終目的があったからである。
それを果たすまでは、彼は、公安にマークされるわけにはいかなかったのである。

そんな奥平剛士の前に、突如として赤軍の重信房子が現れたのは、日本が万博に沸く8月のことだった。

(第九話「奥平剛士と重信房子を結んだ赤い糸」につづく)