
新元雅之、黒田真行。二人の「まさゆき」は、リクルート平成元年入社の同期である。
黒田の方が先にA職で働いていた分わずかに先輩ではあるが、大卒と高卒入社で同期でも4〜6年の歳の差があるのは、私の同期・橘茂昌、藤江まびなたちと私との年の差があったことと同じだ。
高校球児だった新元は、県立神戸商業野球部で甲子園を目指した。俊足巧打の二塁手だった。
この学校は、奇しくも私の同期であり心友である藤江まびなの母校である。そして新元が「大変お世話になりました」と慕ってやまない当時の教員・坂東英敏は、私の高校時代の親友であった。
新元は高校卒業後リクルートに就職。就職情報誌部門の進行担当として配属された18歳の新元を、黒田は大切な人材として、たいそう可愛がったようだ。
新元にとっても、黒田は特別な存在だったと振り返る。
事実。新元が、夢であった教育者の道を諦めずに1994年末にリクルートを退職した際の、年末発行の週刊就職情報の編集後記に、黒田はこう記している。
「5年間同じ釜の飯を食った大切な同期が会社を去ることになった。寂しい。しかし、彼は高校野球の指導者になりたいという夢を追って辞める。そのためには教職資格を取る必要があるので、彼はこれから大学に行かねばならないが、自分の意思で、人生のやり直しに踏み出す彼を、私は心から応援したい」と。
新元はこうして会社を辞めたが、新年が明けて早々、1995年1月17日、阪神淡路大震災が、黒田、新元、そして私を奈落の底に突き落としたのだった。
リクルート関西SJの鉄の結束
震災当日、新元雅之は、神戸市須磨区の二階建ての長屋に住んでいた。
激しい揺れが、1階で寝ていた彼を襲い、2階部分が崩れ落ちてきた。
その時の状況を、自らも被災し実家が全壊した黒田真行はこう振り返っている。
「斜めに崩れてきた二階が、一階で寝ていた新元の枕の数センチのところに突き刺さっていた。」
新元はこの時、死んでいてもおかしくなかったが、彼はなぜか、生かされた。
黒田も私も生かされたが、3人とも実家は全壊した。
1994年12月末でリクルートを退職した新元だが、震災被災者となった翌年1月17日は、まだ後任への引き継ぎ途中だった。
黒田は新元に連絡した。
「とにかく一度、会社に来い」と。
新元はなんとか調達したボロボロの原付に跨って、大阪支社、U7ビルにたどり着いた。
「ついてこい」
黒田は、新元を焼肉屋に連れて行って、彼に肉をたらふく食わせた。
肉を頬張りながら泣きじゃくる新元に、黒田がかけた言葉は少なかった。
「俺が口にする言葉はな、人生で限られていて。だから、今は、言葉がないんだ」。
原再び神戸に帰る新元の原付に、黒田はありったけの支援物資をくくりつけ、見送った。
原付の後ろに積める荷物なんて、たかがしれていた。新元にはもっともっと必要なものがたくさんあったが、それを彼を追いかけて届けたのは、宮本由淑、岡野寛ら、黒田組の仲間たちだった。
大阪から、新元の潰れた家まで、なんと、自転車に物資を積んで、彼らはやってきた。
「ありがとうございます」
「なんて人たちだ!」
新元は、泣いた。
新元は、被災地の中でも、もっとも過酷な避難場所となった鷹取中学周りで、8ヶ月近くテント生活を続けた。そしてトラックに乗り、建物解体現場で神戸復興に汗を流し続けた。
教師になるために、そのために必要な資格を取るために、リクルートを辞めて大学受験を志したのに。
彼の出鼻をこれでもかと挫く未曾有の天災に、それでも新元は負けなかった。
翌年春、志望大学のほとんどには落ちたが、一つだけ受かった大学があった。
ただ、その大学には教職課程がなく、彼は別の大学で教職課程を修了し、6年かけて教員免許を取得したのだった。
新元は、30歳になっていた。
新元のリクルート時代、北の庄事件
新元は、1989年4月から1994年12月末までリクルートに在籍した。
18歳の純朴な青年が見たリクルートの世界は、すべてがまるで新しく、刺激が強すぎたようだ。
「進行」の仕事を引き継いだのは、あのエキセントリックな四宮敬人。
進行担当として接する制作には、怪人ヨッシーがいた。
ヨッシーは宴会で、女子社員を膝の上に乗せ、「俺の唇は乾いてるんだ、チューしてよ」と。
18歳の新元青年には、彼が象徴するそんなリクルートの風土、文化は、到底理解し難いものであったろう。
GIB旅行では、先輩たちは女性の裸の写真をカメラに収めた。
当時はフイルム写真しかなく、現像に出さねばならないが、それは無理。新元は、先輩たちからの依頼を受けて会社の写真部にかけあい、なんとか先輩たちの欲求を満たした。
新元は、部署を横断して存在した「熱唱クラブ」の一員でもあった。
とにかく歌が抜群にうまかった彼は、当時のリクルート御用達、太融寺近くのスナック「北の庄」に入り浸った。いつも黒田に連れられて。
スナック「北の庄」のマスターの名は新元。
新元雅之と同郷、すなわち広島出身の人だった。
1991年ごろ、バブルがはじけてからもしばらくは浮かれた世の中で、スナック「北の庄」には、イカれたリクルートの奴らが毎夜毎夜、日付変更線を超えて大騒ぎしていた。
もっとも多く、というか毎日のように来ていたのが、辰巳という女性社員であり、彼女が連れてくるJJ=住宅情報の連中だった。
1992年のある日、事件は起こった。
JJに所属していた、タレントの東野幸治の兄らしいがそのドアホが、全裸でカウンターの上にあがり、踊り始めたのだ。
私は会社を辞めていたがスナック「北の庄」は大切な店だったのでこの時も来店しており、目の前でお粗末なちんぽを振り回して調子にのる東野は、当然許せなかった。
出口というマネージャーが、それを見てヘラヘラと笑っていたので、私は怒鳴った。
「おい、出口。貴様らJJは反社か?一般客に絶対やったらあかんことして不快な思いさせてる部下を、お前はなんで止めんのや?あ、止められんのか?なら、お前はマネジャー失格や。とっとと辞めろ、ボケ!」
カウンターの上の東野を引きずり下ろし、出口を罵倒した私に、確か松本という苗字の、野球部に所属しているらしい若手がつかみかかってきた。
こう見えて、私はケンカの達人である。
かならず相手に先に殴らせて、殴らせてからそいつを警察に突き出して、いつもそんな阿呆どもを監獄にぶち込んできた。
松本とやら、そいつはラッキーで、周りに制止してもらい私を殴るに至らなかったから、監獄にぶち込まれずに済んだが、私はマスターに、彼らを出禁にしろと要求した。そこから私と彼らが出会うことはなくなった。
そんな、スナック「北の庄」での乱闘〜JJ出禁事件を、新元雅之はちゃんと知っていた。
新元とスナックすずめと5歳のチッチ
30歳から教職の道を歩み始めた新元雅之。
その後、四半世紀にわたって、子どもたち、親たちと関わり続けてきた。
そんな彼の、指導者としての情熱と、黒田真行の転職マイスターとしての情熱とは、同質である。
騒がず、静かに、しかしとてつもなく熱い。
そして、二人とも、絶対に逃げない、のだ。
今回、「くろだまGumbo」のチケットを買ったものの沖縄出張のために来れなかった新元だが、5年前に彼は黒田に会いに行っており、5歳のチッチ(娘さん)にも会い、スナックすずめで黒田と一緒に歌ってもいる。
今日、寿司屋で飲んだ後、私は新元をカラオケに誘ったが、それは、私と新元が今日さし飲みすることを知った黒田から「本当の身内のように可愛い弟分であります。カラオケ歌わせたら右に出るものはいません。」とのメッセージがあったから。
私はこう言って彼をジャンカラに誘った。
「新元くん。くろだまGumboのラストで黒ちゃんと娘さんが一緒に歌った、オワリはじまりって曲、歌えるか?それをな、君の歌声をな、黒ちゃんに動画で届けてくれよ。」

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