
高野悦子が失望した2つの全共闘
1969年6月24日未明、立命館大学三回生の女子学生が貨物列車に飛び込んで、自死した。
鉄道自殺で亡くなった学生の名は、高野悦子。

2年後の1971年に、彼女が死の直前まで書き留めたノートの内容が、死後、遺族によって『ニ十歳の原点』という書籍として発刊されたが、この本は1970年代の学生にとってのバイブルのように読まれ、そののち『ニ十歳の原点序章』『二十歳の原点ノート』も発行されたので、彼女を知る人はさぞ多いことだろう。
その高野悦子は、もちろん彼女が通った立命館大学で、彼女が二回生の冬から激しさを増した立命館大学全共闘の活動に参加していた。
本来なら彼女は立命館大学全共闘の活動に専念し、よその大学のことである京大全共闘の活動とは関わることはなかったはずである。
ところが立命館大学全共闘の活動は京都大学全共闘の動きと軌を一にしていた面があったが、立命全共闘が5月下旬に自業自得で学内における活動拠点を失ってからは、京大全共闘との活動の一体性はさらに、そして一気に強まることになったのであった。
彼女は、おそらくはやむなく、京大全共闘の活動に参加することになったが、期間的には5月下旬の1週間程度のことだったはず。
立命館大学大学全共闘の崩壊、そして京都大学全共闘の崩壊。二十歳の瑞々しい感性では受け取り難い、あまりに苛酷な2つの崩壊をわずか1週間ほどの間に経験し、民青には顔を殴られ、警察には連れて行かれ(即日返されたが)、そんな出来事があったわずか1ヶ月後の6月24日、彼女は自らの命を絶った。
彼女が死を選んだ理由は、彼女だけが知るものであり、他人、たとえ俺が犬であろうとも、安易に詮索すべきことではないだろう。
しかし、立命館大学全共闘に大いに失望したあと活動を共にすることになった京大全共闘も、彼女を大いに失望させるものであったことには、間違いはないはずだ。
京大闘争は、1969年3月の入試粉砕闘争を経て、9月21日の時計台封鎖解除に至るまで半年以上も高い高い高原状態を保ったが、加速していった闘争参加者の多様性が、京大闘争を複雑化させ、早期沈静を阻み、深く、長く継続していた。
まさに同時期、高野悦子の立命館大学全共闘の活動は、一気に頂点に達したが、再三の機動隊投入によってたちまちのうちに国家権力に圧倒され、追い込まれたことが、高野悦子と京大全共闘との接点をつくることになる。
彼女が籍を置く立命館大での活動ができなくなるような、機動隊が学内に立ち入るような、致命傷となった事件は大きくは2つある。
一つは、2月18日、もう一つは、5月20日に起こった。
まずは、この2月18日に何が起こったかということから第六話を始めよう。
2月18日の大事件
もともと立命館大学の紛争のきっかけは、「新聞社事件」にあった。
1968年12月12日、『立命館学園新聞』を発行する立命館大学新聞社に9名の入社希望者があり、新聞社側は一旦返答を保留したが、これを入社拒否だとする入社希望者が抗議し、新聞社を支援する学生もヘルメットと角材で武装して応戦、小競り合いに発展した。
元々この入社希望者は、学生の自治組織である学友会が『立命館学園新聞』の報道姿勢の是正を求めて申し込んでいたという経緯があり、真相究明を求める集会に対抗して開かれた「新聞社への不当介入、学友会一派糾弾集会」の中で、全学共闘会議準備委員会が結成されたのである。
学生寮をめぐる問題も引き金となったとされる。立命館大学寮自治会連合は、寮費撤廃、水光熱費および食堂人件費の大学負担などを要求していた。
そんな中で、1969年1月16日、寮連合(実質的には全共闘)が大学側の交渉委員を閉じ込めて中川会館を封鎖。これが立命館大学での大学紛争のはじまりだった。
京大でバレンタインデーの流血があった4日後の2月18日午後1時から、立命館大学では反日共系の法学部大衆団交実行委の呼びかけによって、清心館10号教室で法学部学生集会が開かれた。
集会には学生約150人が参加。〝大衆団交実現要求〟の手段として中川会館北側にある存心館(4階建て)のバリケード封鎖を過半数の賛成を得て決定。
真冬の夕刻、もう真っ暗になっていたが6時15分ごろに、法学部学生ら約200人が存心館の正面入口や西側入口、さらに学友会のボックスがある研心館への地下道をベニヤ板や机、イスなどで内側からバリケード封鎖した。
しかしそれを認めぬ民青が実力排除に乗り出す。
これに対し、学友会(代々木系)側は「封鎖解除をはかろうとして、中川会館からかけつけた全共闘側学生と衝突。全共闘側はヘルメット、ゲバ棒姿の約300人で存心館を内側から固め、学友会側も4、500人の黄ヘルメットの学生を動員してぶつかったのである。
存心館4階からはイスや石が投げつけられ、学友会側も数か所から放水、投石をくりかえしているうちに午後8時ごろには、日共系学生、反日共系学生、一般学生など約2,000人が広小路通や中川会館を埋めた。
そして、「封鎖解除!」を叫びながら反日共系学生約50人がゲバ棒、鉄棒をふりかざし、ベニヤ板をタテに研心館に立てこもる日共系学生に向かって突撃する。
8時半ごろには、存心館の地下に投げ込まれた殺虫くん剤の煙が4階にまで広がった。
存心館3階西側の窓からは全共闘側の学生が真っ赤に尾をひいた火炎ビンが日共系バリケードに向かって数回に渡って投げつけられ、これによるけが人が続出。負傷者は学内診療所へ運び込まれたが、治療が追いつかず、市内の各病院へ分散収容されたのである。
これが翌日の京都新聞に「立命大でまた両派が衝突─負傷100余、重体1人」と報じられる大事件として報じられる。
翌19日は京都府警機動隊が立命館大学広小路キャンパスの捜索を決行した前日で、その夜、高野たちは「機動隊の学内立入りにハッキリした立場をとらないとこれからもずっとこのまま駄目な状態になっていくような気がして」、大学近くの喫茶店に2月20日(木)未明にかけて大学近くの喫茶店にいた(当時深夜まで営業する喫茶店は多かった)。
外は午後11時から20日午前2時まで、雪ではなく、弱い雨が降っていた。
機動隊の学内立ち入り
1969年2月20日。
この日の警察側の出動は事前に予知されていたため、全共闘の学生たちは午前5時半ごろから、広小路キャンパスの正門前で約300人の学生を集め、集会を開くとともに机、長イスで正門を内側からバリケード封鎖し、さらに午前6時ごろからは一般の学生とともに正門前に座りこんだ。
京都府警は、この日大阪府警機動隊500人の応援を得て、完全武装した機動隊1700人と現場検証隊の100人計1800人が、学生たちが体制を整えようとする午前5時には京都御苑に集結。午前6時半には上京区河原町広小路西入の立命館大学の周囲を完全にとりまき、凶器準備集合罪、傷害暴力行為の疑いによる強制捜査の機をうかがった。
午前6時50分、青ヘルメットにジュラルミンのタテを持った機動隊員1800人が、京都御苑の中から立命館大学広小路学舎西の梨木神社前に姿を見せると、構内にいた学生が西門わきのヘイに飛上がって「ウォー」と叫び声をあげる。
高さ約2メートルのバリケードがつくられた正門のすぐ中で、午前6時ごろから集会を開いていた全共闘など反代々木系学生約300人は、演説をやめ、直ちにすわり込んだままスクラムを組み「インター」をうたいはじめた。
午前7時45分、機動隊は中川会館裏の東門と研心館横の西門の二手から学内にはいった。西門からはいった機動隊は構内でいったん整列したあと、指揮者の指示通り、ゆっくりと存心館正面入口へ向った。
機動隊は存心館にはいると、あっという間に地下室と4階までのすべての教室にちらばり、窓から顔を出して校庭内の動きを見守った。
一方、東門からはいった一隊はカギのかかった門を即製の踏段を使って乗越え、封鎖中の中川会館のバリケードを大きなペンチ、ハンマー、電気ノコギリなどで排除にかかった。有刺鉄線できつくしばられていた机やイスは、みるみるうちにはずされ15分後には隊員が中川会館の中に入った。
8時5分、機動隊は、中川会館の正面入口の前の学生をジュラルミンのタテで押しもどす動きに出たため、すわり込んでいた反代々木系の学生のうち、ヘルメットをかぶっていた約20人が、スクラムを組んで中川会館前の機動隊の列に突込んだ。
しかし、たちまち前の2、3人がねじふせられると全員が後退。機動隊は約50メートルにわたって列をつくり、校庭にいた一般学生、反代々木系学生など数百人を校庭の片すみに押しこめた。
学生たちは「機動隊帰れ」と叫ぶだけで、機動隊になぐりかかったり石を投げたりはほどんどなく、機動隊も拍子抜けで、校庭の他の場所で手もちぶたさに待機する状態となった。
引き続き機動隊は広小路通や河原町通の警戒要員を残しただけで、残り約1200人が学内にはいり、研心館前や存心館、中川会館付近を固め、街中の狭いキャンパスはたちまち機動隊のヘルメットで埋まった。
午前9時過ぎには存心館前広場にいた学生数百人はすべて学外に排除されたが、全共闘(反代々木系)側も学友会(代々木系)系も組織だった抵抗は行わず、結局、ヘルもゲバ棒も持たぬまま学生は全員学外に追い出され、柵を境に、学内は制服と特製ヘル、盾の機動隊が占拠するという異様な光景となったのであった。
2つ目の決定的事件へ
存心館の破壊ぶりはすごいものだった。
各室とも机などの備品はほとんど姿を消し、全くの廃屋となった。
警察の捜査を予想して書かれたのだろうか「立命は死んだ。府警の手術で再生を求めた大学は我々の手から遠く遠くはなれてしまった」というマジック書きが残されていた。
凶器準備集合罪の適用による中川会館の強制捜索、存心館・地下道・正面広場の現場検証、国家権力の直接的な介入・弾圧という事態に直面して、立命館大学は重大な試練に立たされていた。
後期試験は延期や中止を余儀なくされ、卒業式も一部中止となった。また、大学の対応をめぐる教員の辞任という事態にも至った。
そんな中で高野悦子は4月に三回生となっており、5月13日には、新しい学生証を受け取った。
立命館大学の学生証は当時、毎学年初めに発行されていた。
表紙には「昭和44年度 学生証 立命館大学」とだけあり、次の頁に学部・学科・回生、氏名・生年月日・年齢、本籍地、現住所、現住所異動等が記載された身分証明書となっており、「上記の者は本学の学生であることを証明する。昭和44年4月1日発行 立命館大学長 末川博(印)」)とあった。
ちなみに3頁目は写真と学費納付欄、4頁目には学生証所持規定の9項目が書かれ、学割発行控え欄、アルバイト登録欄があった。
高野の日記には、1969年5月13日「立命館大学の学生であるという学生証をもらった」という事実のそっけない記載とともに「学生証という薄っぺらな紙きれに己れの存在を託すほど薄っぺらな存在ではないのだ、私は。」とあった。
日記は、淡々と続いた。
「五・一九 恒心館にて全学バリ闘争準備」
「五・二〇 六時ごろ恒心館着。」
「身一つで全学バリ。」
彼女の日記に記されたこの3行は、のちに「立命館大学の一番長い日」とされ続ける、運命の日のことであった。
その日までの流れはこうである。
2月26日以来、立命館大学恒心館が「全共闘」学生によって長く封鎖されていた。
5月16日、立命館大学は「創立記念日に向けて 教職員・学生への大学の訴え」を出していた。この「訴え」とはこうだった。
「全共闘」の学生諸君が5月19日の創立記念日を立命館の『解体記念日』にせよとよびかけ、本部(中川会館)を奪還し、封鎖を拡大しようとする動きをみせている。全学の教職員・学生が当面している事態を正しく認識し全力を結集されるよう期待する。」
5月16日の「訴え」に応えて大学の教職員及び教職員組合の組合員、生協労働組合の組合員、1・2部学友会学生たちが5月18日から大学内に泊まり込んでいた。学生は「延べ3000名」もの学生が泊まり込んで警戒にあたっていたのだった。
5月19日は、その立命館創立記念日である。 創立記念日のため全学休講。「全共闘」はこの日を立命館大学「解体記念日」とするとしてバリケード封鎖を宣言していましたが、この日の行動はなかった。
立命館大学の、一番長い日
日付が変わって5月20日の深夜0時すぎ、M教授宅の電話が鳴った。警察からだった。
「(何がおこるかわからないので)今晩の居所をはっきりして欲しい」
M教授は嫌な予感がし、電話を切った直後、大学内で待機することにして自宅を出た。
5時40分頃、再び警察から電話があった。
「至急に会いたいので御所(清和院門)まで来て欲しい」
M教授がI講師を連れて指示された場所に行くと、出迎えた警察官は詳しいことは警察でお話しますと言って2人を車に乗せ、警察に連れて行く。
警察署長室に着くと、2人は捜査令状を見せられ、すでに恒心館に対する強制捜査の準備を整えており、その開始は6時40分の予定であると告げられたのだ。
「恒心館を捜査したい。罪名は、放火未遂、暴行、監禁、傷害の容疑です。」
「場所は恒心館及びその敷地内です。広小路キャンパスは含みません。」
M教授、I講師が捜査令状の説明を聞き終わった時はすでに6時30分になっていた。すぐにM教授は、大学に電話連絡し警察の執行に立ち会う者の人選を頼み、急ぎ大学に戻った。
7時少し前に到着した時には、すでに警察機動隊が恒心館突入の態勢を整えていた。
6時40分、2月26日以来「全共闘」学生によって封鎖されていた恒心館の強制捜査(6時40分~9時45分)がついに始まった。
機動隊員は正面入り口、北門、南側窓の三カ所に分かれ、机やイスを太い針金でしばり上げたバリケードをエンジンカッターなどを使ってつぎつぎ排除、5階建ての同館へはいった。
正面入り口のバリケードは、2-4階の教室から取りはずした机で三重にも積み上げられており、この排除には手こずった。
全共闘派学生、館内には反日共系の全共闘男女学生172人が〝ろう城〟していた。
1階には産業社会学部事務室や食堂などがあるが、食堂は学生が昨夜まで利用したと思われ、パンの食べくず、食器、ジュースのあきビンなどが散乱。その南側ロビーにはヘルメット約百数十個がころがり、ケース入りのあきビンが山と積まれていた。
2階から4階までは18教室あるが全教室とも机、イスはおろか、黒板や教壇もまったくなく、がらんどうの部屋が並ぶが、天井のけい光灯のガラス破片が床にちらばり、廃墟と化していた。
2階正面バルコニーは(投石用の)こぶし大の石でうずまっており。3階のトイレの物置用タナの鉄パイプは一本残らずひき抜かれ、各セクトの〝城〟に束にして積まれていた。
さらに5階は教授の研究室が並んでいるが、書物入れのロッカーはじめ机、イスは廊下などに放り出され、仕切りの壁も各部屋の区切りがつかぬほどつき破られて「研究室」の痕跡は微塵もなかった。
全共闘の旗がひるがえっていた屋上が全共闘の最後のトリデだったようだが、ヒサシには、石やイスが積まれていた。
籠城していた学生たちは、紺のヘルメットと出動服に身を固めた機動隊の大きな隊列に圧倒され、抵抗なく退去。裏庭に集合させられた。
北門横の金網が切り開かれると、学生らはわびしくインターを歌いながらひとりひとりうつむき足早に立ち去った。
インターとは、学生運動や労働運動で歌われた、世界的な革命歌・労働歌である「インターナショナル」である。19世紀にフランスで生まれ、日本では昭和期の労働争議や学生運動で、団結や闘争の歌として盛んに歌われた。
細野武男元立命館総長(当時、産業社会学部長)らの立会いの下、こうして捜索は午前10時に終わり、火炎瓶171本、トラック1台分の石、鉄パイプ244本、灯油、石炭かます19袋が押収された。
恒心館から排除されたほとんどの「全共闘」の学生は広小路キャンパス存心館前で集会をはじめた。するとこの集団の中から黒いヘルメットを被った4、5名のグループ(以下、「黒ヘルG」)が集会に参加せず直接に「わだつみ像」前まで行き、「わだつみ像」にロープをかけ、これを引き倒し破壊した。
「わだつみ像」は、京都に暮らす犬でも、知らなければモグリ扱いされる存在。立命館学園の教学理念「平和と民主主義」の象徴だ。
1953年12月8日に広小路キャンパスに建立されて以来、立命館大学の象徴ともされてきたこの像が、1969年5月20日、全共闘の学生に破壊されたのである。
全共闘による、戦没学徒記念像「わだつみ像」の破壊は、学内からの抗議に止まらず、全国に報道されて広範な全共闘糾弾の声が上がり、紛争終結に向けての象徴的な事件となった。
一方、集会に参加していた「全共闘」学生は、支援の他の学生を含め約2百数十名の集団となって広小路キャンパスに侵入。正門・西門をバリケード封鎖した上で清心館、存心館、尽心館、生協食堂等校舎を破壊する。
この破壊行為の最中、11時頃、 大学が声明を発表する。
この声明は、5月20日早朝の恒心館の強制捜査について、大学の要請によるものではないこと、京都府警察当局に対して強い抗議の意志を表明すること、事態を招来した「全共闘」学生の破壊的暴力行為に対して深刻な反省を要求するというものだった。
12時00分直前、警察より「府警機動隊を広小路キャンパス西門(寺町通りに面している)より入れる」との電話が入り、直後機動隊の侵入が開始された。大学は一方的な通告と侵入にたいして抗議したが、侵入した機動隊は「全共闘」学生を広小路キャンパスから追い出した後、学外に退去した。
すると12時20分、「全共闘」学生は再び学外から広小路キャンパスに戻り、いっそう激しい破壊行動を開始した。
14時頃、大学は再び声明を発表する。この声明は、広小路キャンパス内にいる「全共闘」学生に対し、破壊行為をやめ学外に退去するよう強く要求すると同時に、大学の事前了解なしに警察の一方的に判断によって学内侵入したことは、事態を一層混乱させ大学の自主的解決の努力を水泡に帰する行為であるとし、抗議の意を表明するものだった。
14時45分頃、1・2部学友会学生は「学園破壊をこれ以上許すわけにはゆかない」「われわれは直ちに館外(泊り込んでいた研心館)にでて暴力学生を実力で排除する」「キャンパスをとりまく学友、一部キャンパス内にいる学友も共に協力してほしい」と訴え、「黄色いヘルメット」を着用し、一団となって暴力学生を学外に追い出した。
これによって15時00分、ようやく「全共闘」による封鎖・占拠が解除された。
封鎖解除された広小路キャンパスは先に破壊されていた中川会館や恒心館、衣笠キャンパス4号館同様すさまじい破壊が行なわれていた。
事態を知って登校してきた学生たちは「破壊され、腕をもぎ取られ、頭に大きな穴をあけられたうえ、その胸には赤いペンキで『死』と落書きされ」、キャンパスに横たわる「わだつみ像」を目の当たりにした。
わだつみ像は出陣学徒のなげきといかりともだせ(黙だせ=黙って見過ごす)を再び繰り返すなという悲願を本郷新氏が芸術的に表現したものである。
わだつみ像を虚像にすることは真の反戦平和運動をさぼるということであろう。
全共闘ごときが、どれだけの平和運動をしたというのか。
立命館の象徴の、あまりの無惨な姿、その衝撃は大きく、「全共闘」の一員であり三回生になったばかりの高野悦子の、全共闘に対する幻想は大きく揺らぐことになったと思われる。
(第七話「高野悦子の京大全共闘ゆき片道切符」へつづく)