
エルネスト・チェ・ゲバラの死
俺が主人、奥平剛士に最初に出会った1967年の夏が過ぎ、さらに秋が過ぎて冬が訪れようとしているある日、「ボリビアの高原地帯の寒村でエルネスト・チェ・ゲバラが10月に処刑されていた」というニュースが日本に伝えられた。
わずか82名のゲリラ部隊を率い、一艘のヨットに折り重る難民のようにメキシコからキューバへ上陸したゲバラは、同志カストロと共に、アメリカ支配の支柱として独裁体制を敷いてきたバティスタ大統領の軍隊と闘った。
一時は10数名にまで部隊を減らしながらも、分け入った山奥の農山村でゲリラ部隊を再編成した彼は、2万もの相手軍勢にたいしてたった1,000人の部隊で戦い、そしてキューバ革命を成就させた。
新政府では、国立銀行総裁、工業大臣などの要職に就き、国民の幸福実現のために精力的に働いたとされる。
革命から半年後には、アメリカによる経済制裁に対抗すべく、世界各国を歴訪。
1959年7月には日本を訪れ、池田隼人通産相と会談し、翌年には通商協定を結んでいる。
来日時、彼は自ら強く望んで広島を訪れ、原爆死没者慰霊碑に献花し、原爆資料館の展示を見てまわった。原爆病院では被爆者を慰問し、あまりの被害と、その惨状に涙を流したという。
長い巻き髪、豊かな黒髭。そして、ベレー帽に戦闘服。
「世界でいちばんかっこいいのがエルネスト・チェ・ゲバラだ」
ジョン・レノンをして、そう言わしめた。
そんなゲバラが、1965年のある日、忽然と消えていた。
キューバからも、彼の行動を注視してきた世界中の人びとの視野からも。
この年の2月、ゲバラはアルジェでおこなわれたアジア・アフリカ経済会議において、ソ連をして「帝国主義的搾取の共犯者」であると痛烈に批判し、盟友カストロに対して訣別の手紙を送っていた。
ソ連は、物資輸送を停止されたくなければゲバラを切れとキューバ政府に迫っていた。
彼が政権から離脱したのは、その要求に対してカストロの心中を慮ったゲバラが自ら下した結論だった。
そのことは、10月のキューバ共産党大会において明らかにされる。
カストロは、彼から届いた訣別の手紙を読みあげたのであった。
その10月、アフリカのコンゴ革命で挫折したのちボリビア革命の途上にあった彼は、生け捕りにされたあと、銃殺処刑された。
ゲバラの圧倒的影響力
ゲバラ処刑の数ヶ月前、つまり俺が奥平剛士に出会った1967年の夏以降、『ゲリラ戦争』『革命戦争の旅』『ゲバラ 革命の回想』といった本人の手記が相次いで日本語に翻訳されて出版されてベストセラーとなっていた。
死の直前まで書き継がれた日記も『ゲバラ日記』として四社から、また同日記をふくむ全四巻からなる『ゲバラ選集』も出版され、もはやブームと言ってよい現象が始まっていた。
すべての戦争を内乱へ、内乱から革命へ。
彼の「国際主義」とその思想や行動は、彼の死によって、もちろん一般人ではなく、ある限定的な人びとの間には「確信」としてひろがっていった。
奥平をはじめ、京都大学の彼に影響を受け始めていた学生にとって、ゲバラの死は、その存在を「信仰」に近い対象にまで次元増床させることになった。

京大のシンボルである時計塔には巨大なゲバラの遺影が高く掲げられ、シルクスクリーンにした彼の肖像写真をリーフレットにして、学内や街頭で配る学生たちが多く出現したのだった。
奥平は、翻訳出版されていたゲバラの本をすべて読んでいた。
そして、ゲバラが死ぬ8カ月ほど前、1967年2月10 日の日記には、すでにこんな文章を残している。
「革命家が、その非常の手段のいっさいを免罪されるのは、ただ彼らの心中、一片の私心なき清明さをもってのみである。満身を挙げて、正義を行なう。しかしそれは口先では成就せぬ。すべての非常の手段権謀を駆使せねば大義は現実の世界にうちかつことはできぬ。しかしそれを用いる革命家はあくまでも、あくまでも清みわたって美しくなければならぬ。それが彼の唯一の生きがいであるはずだからだ。」
そして、そのノートの最後のページには、以下の詩が書き残されていた。
「奥平剛士
これが俺の名だ
まだ何もしていない
何もせずに 生きるために
多くの代価を支払った
思想的な健全さのために
別な健全さを浪費しつつあるのだ
時間との競争にきわどい差をつけつつ
生にしがみついている
天よ 我に仕事を与えよ 」
この日記を彼が書いたのは1967年2月。
この時点では、彼はまだ教養課程三回生であり、
工学部キャンパスで4ヶ月後の6月になって狼煙を挙げた京大闘争についても、その影も形もがなかった。
つまり。
俺が初めて奥平剛士を見かけた1967年の夏、
学生運動の波に飛び込むことはなくても、彼は独り「革命家」としての矜持をすでに持っていた。
そして、彼は「来たる日」に向けての「準備」を怠っていなかったのだ。
1968、東から吹いてきた闘争の風
1967年から1968年にかけて、この頃、奥平剛士は大学にはあまり行かず、東九条で肉体労働に明け暮れていたわけだが(第一話)、京都大学では、日本や世界的な学生運動の高まりを受け、ついに翌1969年に爆発する「京大紛争」へと向かう前段階の激動期に入っていく。
羽田事件など全国的な安保・反戦闘争に京都から出向いて参加する行動派もおり、学内は医学部での動きや寮問題を契機として次第に殺伐としていった。
日本全体で見れば1968年は、この時代の象徴的な出来事である東大闘争や日大闘争といった学生運動が活発に行われた年だ。
世界に目を転じると、ベトナム反戦運動が世界的に展開され、アメリカではキング牧師暗殺を契機として公民権運動が勢いを得、フランスでは五月革命とも呼ばれる学生運動・労働者ゼネストが起こり、西ドイツでは戦後民主主義の形骸化・権威主義化に抗議する学生運動が高揚した。
社会主義圏でも、「プラハの春」と言われたチェコスロバキアの民主化運動とそれに対するワルシャワ条約機構軍の軍事介入があった年であり、各国の新左翼学生が中国の文化大革命に、ソ連型社会主義に代わる社会主義のモデルを托そうとしていた。
学生運動、特に全共闘運動の発端は、日本大学だった。
1968年4月の新入生歓迎運動に対する学生の民主化運動への抑圧と、大学の経理不正・脱税問題が明るみに出たことが絡み、学生側の大学当局追及・現理事長体制批判の動きが急激に表面化したのだが、全学共闘会議や各学部の闘争委員会も結成され、日大はいち早く「全共闘時代」に入った。
一方、東大では処分問題などで対立が続いていた医学部の学生が安田講堂を占拠し、これに対し東大当局が機動隊導入を強行したことから、大学自治への暴挙として10学部中9学部が一日ストライキに突入。その後、無期限ストライキ拡大という事態に発展し、1968年7月5日には東大全共闘が結成された。
そして、全共闘と新左翼が連携し、民青系学生運動と対抗しつつ全共闘運動が展開されていった。
こうした動きは、ゲバラを師と仰ぎ世界革命を志す俺の主人、奥平剛士の琴線にはなんら触れるものではなかったが、ほかの京大の多くの学生たちには大いなる刺激となったようだ。