たとえば京都発、ベイルート着。〜学生たちそれぞれの片道切符〜 第五話「京大闘争の勃発」

新年明けましておめで闘@京大

1969年になると、

俺はすっかり騒がしかった医学部にも嫌気がさして、俺は学生部の建物とその周りに居を移していた。

ところがなんと、ここもすぐに居心地が悪くなる。

新年早々、あれは1月16日のことだった。

「寮闘争委員会」の奴らが学生部建物を占拠した。

建物を封鎖して、これまでより酷い、暴力的な騒ぎが始まったのだ。

封鎖の直接のきっかけとなったのは、

同建物で前日の15日午前 1時から始まった奥田総長と寮生たちとの団交が決裂したことであった。

1969年1月14日、午後5時から、反民青系の吉田寮生と熊野寮生からなる全寮闘争委員会(寮闘委)の約200人と、学生部長との団交が始まり、途中から奥田総長も出席していた。

議題はもちろん、1968年末に突きつけられ総長が受け入れを拒んだ3項目要求についてであった。

まあ、犬の俺だって、住み心地にはこだわるさ。
だから、寮生たちが住むところにこだわることについてはわからないでもない。

ただ、寮闘争委員会の要求は3つもあって、それは

①無条件増寮、② 20年長期計画の白紙撤回、③財政全面公開 というもの。

ここで総長は、前年12月の団交の立場から大きく譲歩した回答をした。

「無条件増寮」は拒否したが、「長期整備計画」について、全面白紙撤回はできないとしつつ寮に関する部分は撤回したほか「経理公開」は実現の方向で検討すると。

しかし、寮闘委の連中は、犬の俺から見ても「落とし所というものを知らない若輩」。

3項目要求の完全獲得を強硬に追求する。

総長は、さらなる要求については断固飲まなかった。

すると寮闘争委員会の奴らは、総長との団交開始から 24時間後の 16日午前 1時、決裂を宣言する。


そして前々日14日夜から学生部建物に泊まり込んでいた教養部闘争委員会や反代々木系各派の学生も合わせて約200名で建物を占拠、封鎖してしまう。

この学生部建物占拠について、寮闘委はこう説明し、正当化した。

「長い増寮運動のなかで話し合いを続けても問題は解決しないことを知った寮生の新たな問題解決の表現であり、蓄積された怒りの表現である」と。

すると、同日即刻、寮闘委らの封鎖貫徹の集会(約300名)と、日本共産党及び民青系の「五者連絡会議」(同学会・職組・院協・生協・生職組)の封鎖糾弾の集会(約400名)が、学生部前と時計台前で、つまり隣接して開催された。

折しも、東大では学生が占拠する安田講堂で、機動隊との攻防戦が1月18日・19日に行われていた。機動隊の占拠解除に伴う研究施設の荒廃の映像は「京大を第二の東大にするな」という感情的な危機意識を秩序派に引き起こさせ、「紛争化を避けたい」の一点で総長と民青系の「五者」が連携した形となっていた。

五者とは、学生自治会である同学会、大学院生協議会、職員組合、京大生協、京大生協労働組合の五者で構成された連合体で、以降京大紛争の過程を通して、終始「全共闘系」と激しく対立した。

犬の俺から言わせれば、人間という生き物は、すぐ怒って争いごとを起こすが、その際には必ず徒党を組む。
まったく困ったもんだが、こうした学生部封鎖にも、生ぬるい大学当局の対応に対しても。どちらもが気に入らずに怒りを露わにしたのが、「五者連絡会議」という、もっとよくわからん集団だった。

抗議集会といえば聞こえは良い。

でも、このときすでに封鎖解除を要求する五者連絡会議の学生と、封鎖を行っている学生とが、乱闘を始めている。

その周りを千人の学生・教職員が取り囲み、京大キャンパスは騒然とした雰囲気に包まれた。

そんな中、大学から支給された(笑)黄色いヘルメットを被った民青系の同学会行動隊が学生部の封鎖解除を試みたが、寮闘委はそれを難なく跳ね返した。

それにしても、せっかく「京大方式」で平和的解決に徹してきた大学当局がついに学生たちにヘルメットを支給するのだが、その際、なんと言ったのだろう?

「暴力はダメだよ。でも、気をつけてね、このヘルメットを被ってね!」とでも言いながら配ったのだろうか?

てか、こんなものいつ購入したんだろう?費目は何だった?

大学側がヘルメット購入をせざるを得なかった理由はこうだった。

まず、話し合いでの解決を目指し、18 日には総長と団交を行った。

「大学側の方針はなまぬるいんじゃ」

と、総長はここでも吊し上げられ、きびしく攻め立てられた。

大学当局としてはそんな厳しい状況だったが、この期に及んで、それでもまあ、どうにかなるだろうと他人事のように考えていた職員も多かったいう。

ところが、封鎖を支持する他大学の学生を含めた全国学園闘争勝利全関西総決起集会が1月21日に開催されるということが分かると、生ぬるかった大学当局も、さすがにこのままではかつてない大混乱が起こるだろうことぐらいはわかったらしい。

慌てて、開催前日の1月20日、なんとしても混乱を回避すべしと「学外者の本部構内立ち入り禁止」を決定したのだった。

ヘルメット調達も、この日に慌てて購入したと思われる。

狂気の3日間初日、奥平の「予行演習」

1月21日、学生部封鎖を支持する学生らによって全関西総決起集会の開催が学生部前で予定されていたが、これを阻止するため、民青系の「五者」が本部構内をロックアウトした。

どうしたかというと、本部正門に高さ3メートル、奥行き5メートルもの「逆バリケード」が築かれ、集会参加者が本部構内に入れないようにしたのである。

これによって、学生部を封鎖する寮闘委は、本部構内で孤立してしまう。

本部構内の外にいる学生部封鎖を支持する学生らは、「逆バリケード」を何度も突破しようと試みたが、放水や民青系の同学会行動隊のピケで、どうしても本部に近づくことができない。

このような衝突が、雪の降る中、夜間も含めて3日間続き、これがのちに「狂気の3日間」と呼ばれることとなる。

奥平剛士が、初めて紛争の現場に登場したのはこの1969年1月21日のこと。全共闘の一員としてだった。

この日、学生部の建物を占拠する寮闘争委員会の学生60名を支援するために、他大学をふくむ全共闘支持派学生たちが正門前に集結していた。

彼らは寮闘争委員会と合流して、全国学園闘争勝利全関西総決起集会を本部構内でひらこうとしていた。

しかし大学の各門は教職員と学生が固めており、大学として、学外者の入構を阻止する行動、実力行使に出ようと構えていた。

もちろんこの動きをとったのは、五者連絡会議(学生自治会の同学会、大学院生協議会、職員組合、生協、生協労働組合で構成)、そして大学当局と一般学生である。

彼らは正門にバリケードを築いて、全共闘の学生たちの学内進入を押しとどめようとしていた。

この動きを主導した大学の自治連合組織である五者連絡会議の実権を握っているのは、日本共産党とその青年組織・日本民主青年同盟(民青)であったが、なんと奥平は、このとき民青に所属する学生のひとりとして潜り込み、全共闘進入に対する「防衛」にあたる「ふり」をしていた。

ただでさえ鍛え上げられた肉体を持った奥平が、そんなことができたのは、彼がもとより学生運動には一線を画した立場で学生生活?をこの時点でもう4年半以上も送り、こうした学内闘争にも無縁であったことによるだろう。

つまり、面が割れていない、のである。

これに対して、本部構内と東一条通をはさんだ南側にある教養部正門前で集会を聞いていた全共闘封鎖支持派は、夕方になるとヘルメットをかぶり、角材を持って、そしてついに正門から本部構内に突入しようとした。

しかし、正門を守る多数の学生が机や立看板でバリケードを築いて対抗したため、なかなか中に入ることはできない。

そんな時だった。

正門の外の全共闘に向けて放水のホースを向けていた奥平が、「逆噴射」よろしく突如としてホースの向きを変えたのである。

つまり彼は、寝返った。

攻撃先を「味方」に変えたのである。

しかし、さすがの奥平も、たった1人では袋叩きに合うのは時間の問題。

さんざん学内の「防衛軍」に真冬の冷や水を浴びせ大いに怯ませ、またおどろきたじろいで彼から身を引いた一瞬の隙をついて、奥平はひとり素早くバリケードをよじのぼり、正門の外で待つ全共闘の学生の中に跳び降りたのである。

え?まさかこの時からの、なんちゃって全共闘か?

兎にも角にも奥平剛士は全共闘の一員となり、

この「狂気の3日間」を境に、工学部共闘会議の中心メンバーとして奉られることになる。

犬の俺の災難を想像してほしい。
底冷えのする京都、しかも暦の上でも最も冷え込む1月21日の放水を俺も被ったのだ。

騒がしい学生部建物を後にして、ようやく本部構内の入り口近くに居心地の良い場所を見つけて、そこから傍観していた俺の方にも、冷たい水が容赦なく飛んできた。

そこに外に向かって放水していた主人、奥平の姿を見つけて応援するために近づいていったら、彼が突然放水の向きを学内に向けたもんだから、間近で彼の奮闘ぶりを見守っていた俺は、それをまともに被ったんだ。

死ぬかと思ったよ。

奥平はこの時すでに、最終行動をイメージしていたのか?

それにしても全共闘の進入を防ぐべく行動していた「民生派」の中に、まさか全共闘のスパイ?が紛れ込んでいて、突然寝返るだなんて。

正門の中で防衛に必死の連中とっては、まさに青天の霹靂、まったくの想定外であったろう。

ゲバラを師と仰ぎ、世界革命に命を捧げる覚悟のわが主人、奥平にすれば。

特に関心のないことで真っ二つに割れている学生たちの、どちらかといえば全共闘の方がマシか、程度の「全共闘派」であるわけで、彼にすればどちらと闘ってもあまり気合も入らない。来るべき彼の「最終行動」のための予行演習にも満たぬ生ぬるい「闘い」でしかなかったろう。

しかし、この「紛れ込み」の予行演習は、彼の最終行動に役に立つ。
まさか「日本人」がパレスチナの一員であるはずはないだろう、と、彼の「本当の敵」に思い込ませる戦術としては、れっきとした予行演習となった。

3年後に「最終行動」を決行する彼が、この時点でパレスチナでの「旅行客になりすまし」作戦をすでにイメージしていたとすれば、俺の主人は、凄すぎる。

まさにゲバラの再来だ。

こうしたことがあっても、全共闘の学内突入はかなわず、寮闘争委員会の学生60名が学生部の建物を占拠する状況は、依然変わっていなかった。

そして五者連絡会議は 翌1月22日、つまり狂気の3日間の二日目、ただちに封鎖を解除しろと大学当局に詰め寄って、実力行使の決断を求めた。

にもかかわらず、大学当局の部局長会議では「あくまで説得のみを行う」なんて穏当な対応が決定されたもんだから、五者連絡会議は自ら実際行動で封鎖解除を行なうことを決定する。

そして、同日深夜。

「全面行動」は決行された。

学生部の占拠が続いたままでは、機動隊が導入されて東大安田講堂事件の二の舞になりかねないと恐れた「五者」と一般学生たちは、ついに自力で封鎖解除をせんと実力行使に踏み切り、学生部に突入したのである。

おい、深夜だぞ、深夜。
犬も夜おちおち寝てはいられないって、どういうことかと俺は思ったけど。

封鎖解除のための実力行使は、夜を徹して結局10時間以上も続いたんだ。

決着がついたのは、なんと翌 23日午前 10時 25 分。

学生部建物2階の窓に、ついに白旗が掲げられた。

孤立させられたまま中にいた寮闘争委員会の学生約 60名は、梯子を伝って外に出て、狂気の3日間3日目にして、7日間も続いた学生部建物封鎖がようやく解除された。

これは、俺が初めて見た「夜討ち」というものだった。

ちなみに犬の世界には、こういう不意打ち的な戦いはない。

もともと戦いそのものがほぼないし、もし戦ったとしても正々堂々、手も出さず、足も出さず、噛み合うのみだから。

「京大方式」の限界

機動隊が突入して、学生たちが力で排除された安田講堂の封鎖解除が東京大学であって。

それに対して警察権力を入れずに自力(学生と職員)の手によって封鎖解除行われたのが、今回の京都大学。
まあ、そう言えないことはなかった。

新聞各紙はこれを「京大方式」と命名して、概ね高く評価した。

学生部封鎖が解除されて一件落着、やれやれと思った俺だったが、それはぬか喜びだった。

その後京大では、学生同士がもっと大規模な衝突を繰り広げていく。

兎にも角にも、1月23日午前10時半、寮闘委は学生部の窓に白旗を掲げ、封鎖は解除されたわけだが。

すると30分後の11時、「五者」は法経一番で、封鎖をしていた寮闘委の寮生60名を取り囲んで「暴力学生弾劾」集会を開始すると、1500人の学生や教職員が参加した。

一方、封鎖を支持する側は、学外者排除・封鎖解除のための実力行使を「狂気の三日間」 と呼んで、大学当局と五者連絡会議を激しく非難。

特に民青系学生への非難が激しく起こり、学生部封鎖を行った寮生が、寮運動の意義と「五者」の運動妨害について発言すると、会場からは寮闘委支持の声が続出した。

こうして弾劾集会の目的が未達になると、森是議長ら「五者」は会場から退席してしまう。

封鎖の実力解除を激しく批判する全学中央闘争委員会準備会(寮闘委)がその場で学生部長団交を呼びかけると、残った1200人らと寮闘委は、学生部長さらには総長を法経一番に呼び入れ、闘争破壊の責任を追及した。

かくして奥田総長は、25日の再団交を約束したのだった。


犬から見たって、封鎖する自分たちも実力行使でそれをしておいて、逆に解除を実力行使によってされたら激怒するって、随分勝手だと思わないか。

でも、奥田総長は、愚痴の一つぐらい言ったかもしれないが、じっと我慢。

今の時代なら、「もう無理!」とか言えたかもしれないが、57年も前はそうも言えなかった。

1月25日午後 2時 10 分。学内最大の教室である法経第一教室で封鎖を支持する学生など約1500名が待ち受ける総長団交に、岡本学生部長を連れて出席した。

何をしても突き上げられ、何を言っても文句を言われ、来る日も来る日も団交に次ぐ団交。

京大キャンパスに居場所を見つけるたびに居心地が悪くなって、
新しい居場所を探さないといけない犬の俺も大変だと思っていたけれど、

総長はあまりに気の毒だよ。

上を見ればキリがないが、下を見てもキリがない。

俺は心に刻んだ。

「もし人間に生まれ変わっても、たとえ何があろうとも。絶対に大学総長にだけはなってはいけない。」

この総長団交は、二度の休憩を挟んで、結局2日後の27日午後3時40分まで続いたが、双方の主張が全く平行線をたどったままで終了した。

奥田総長も、岡本学生部長も、過労死寸前の土俵際で踏みとどまり、決して折れることはなかったのだ。

警察に頼りたくない、当局と学生間の話し合いで解決していきたいという「京大方式」は、マスコミに褒められたところで、結局その後の紛争長期化を招くことになった。

学生同士はさらに激しい衝突を起こし続け、多数の負傷者を出すことにつながっていくのである。

血のバレンタインデー

「狂気の3日間」は、京大闘争の序章に過ぎなかった。

1969年1月25日、約束の総長団交の直前に全学闘争委員会(後の京大全共闘)が結成され、寮闘委は全学闘争委員会に合流した。総長団交は、27日まで53時間続いたが、決裂した。

団交で成果を得られなかった学生側は、その後 1月30日には教養部において、代議員大会が無期限ストを決議する。

翌 31日には教養部各門にバリケードが構築されたほか、 2月 3日には文学部、 5日には医学部、 13日には工学部、 18日には農学部が次々とストライキに突入して、紛争は一気に全学へと拡大していった。

この間、文学部は「社学同」、医学部は「中核派」といったセクトが主導したが、学生部封鎖解除過程に対する一般学生の不信感は大きく、これらのスト突入を大きく後押ししていた。

俺はといえば、2月になっても殺伐とした京大学内で、少しでも静かなところはないかとロケハンを繰り返した結果、

時計台あたりに居を移していた。

なのに1969年2月14日。

「バレンタインデーなんそれ?」と言ってはなかったが、そんな甘い世界にはなんの興味もなかった?この時代の学生は、この日に教養部代議員大会を開催すると決めていた。

そして大会に備え、五者連絡会議の学生・職員たち総勢約 800名が、前日13日から会場となる法経第一教室がある時計台に入っていた。

草木もねむる丑三つ時。

俺も深い眠りに落ちていたが、

突然の怒号や悲鳴に、俺は飛び起きた。

2月14日午前2時半。

全共闘500名が、教養部代議員大会にそなえて時計台内の法経第一教室につめていた五者連絡会議800名に対して火炎ビンと投石、ゲバ棒で攻撃をかけたのだ。

その先頭には、彼にとっては遊び半分だった「狂気の3日間」以来、わずかの間に全共闘学生を率いる立場となっていた俺の主人、奥平剛士の姿もあった。

「やって来たぞ!」

怒号が飛び交い、法経第一教室の電気がいっせいに消された。

明るいと攻撃目標になるから、当然の対処だろう。

しかし、机や椅子が完全に取り払われて、傾斜のついた床だけとなった大教室に隠れるところはどこにもない。

逃げ出す術がない中の学生たちに、ヘルメットと角材(ゲバ棒)が配られる。

扇状の大教室の後ろはすべて窓だったが、ガラスが割られ、そこからどんどん火炎瓶が飛んでくる。

真っ暗な室内に飛んでくる火炎瓶は、床に落ちて燃えながら転がった。

中にいる五者連絡会議800名にとって、火炎瓶はまださほどの危険ではなかった。

燃える炎が灯りの代わりとなって周りが見えるし、それによって飛んでくる新たな火炎瓶を(よ)けることもできた。 

危険なのは、石である。

拳大以上の大きさの石がどんどん投げこまれてくるからたまったものではない。

闇の中を猛スピードで飛んでくる石は、当たるまでわからない。ヘルメットを被ってはいるが、当たる場所によっては致命傷となる。

五者連絡会議の学生たちは、できるだけ窓から遠ざかって、ひたすら火炎瓶と石の直撃を避けることで精一杯だった。


「ここは広すぎて守り切れないから、今から法経四番教室へ移動するぞ!」

リーダーの号令で、五者連絡会議800名は、法経第一教室を一斉に飛び出して退却を始める。

取り囲んでいた全共闘のゲバ棒とわたりあいながら、法経四番教室へ次々に駆けこんでいく。

そして、教室入り口の扉の内側に、机の天板など、長く大きな板片を幾重にも重ねて立てかけていった。

釘などないから、内側から十数人が集まって押さえる「にわかバリケード」で全共闘の進入をなんとか防ぐのだが、そこに火炎瓶や石が容赦なく投げ込まれてくる。

窓から入ってこようとする全共闘の学生めがけて反撃の火炎瓶を投げ返すと、それが命中し、火だるまになって教室の向こうへ転がり落ちていった。

取り囲んでいる全共闘の人数はどんどん多くなっていく。

人数は多くても教室の中に閉じ込められ、何せ飛び道具がない五者連絡会議の学生たちの形勢は、もはや本能寺で明智軍に取り囲まれた織田信長か。
圧倒的に不利であった。


「このままではやられる。みんないっせいに飛び出そう」

五者連絡会議の学生たちは、ドアを開くと、とにかく突っ走れとばかり外に逃げた。
角棒を持った全共闘の連中が取り囲んで待ち受けている。

脱出を図って飛び出した五者連絡会議の学生たちは、両側から全共闘の角材で滅多打ちにされながらも一目散に走って、とにかく逃げたのだった。

雪ではなかったが冷たい小雨が降り続く中、

午前 7時寺頃まで、激しい衝突が続いたが、幸いにして死者は出なかった。

この時の「武器」はまだ角棒であり、鉄パイプでなかった。

それが、死者までは出なかった一つの要因ではあっただろう。

俺ももう、寝ている場合ではなかった。

物陰から、数百名の学生が血を流して戦う姿、2度目の「夜討ち」を、それが終わるまで俺はじっと見ていた。

見出し画像
1969年2月14日、バレンタインの夜討ちで荒れ果てた法経第1教室。この混乱を経て、各学部で無期限のストライキや大闘争へと発展していく。

「入試阻止闘争」に飛び火

その12日後の2月26日夜。

時計台は、今度は他大学学生を含む全共闘系約 400名によって占拠され、封鎖された。

なんでこんなことばかりするのだろうと俺は思った。

「3月3日からの入試実施断固阻止!」

それが俺の疑問に対する彼らの答えだった。

その様子を眺めながら、俺はもう「勝手にしやがれ」の心境である。

犬だって、睡眠不足は堪えるのだ。この日の夜、俺はいつしか深い眠りに落ちていた。

すると、これまた丑三つ時の午前 2時頃。

すわ デジャブか、と思ったがどうやらそうではない、
確かに再現された怒号と悲鳴に、俺はまたまた飛び起きた。

2度あることは3度あると言うらしいが、
俺が見た「夜討ち」、これが3度めであった。


封鎖に反対する学生たちの、占拠した全共闘系約 400名に対する夜討ち攻撃だった。
激しい争いは、まる1日続いた。

そして午後5時過ぎになって、ようやく封鎖は解除された。

俺は丸一日その様子を眺めていたが、

ここでもまた200名を超える学生の血が流れた。

激化する入試阻止の運動に、大学側はもはや学内での入試実施は無理であろうと諦め、教職員を総動員して学外で入試を実施することを決めた。

1969年3月 3日から 5日まで、京都大学の入試はなんと京都市内 8 カ所、宇治市内3カ所に分かれて実施された。

異常事態もここまでくると、犬もびっくりである。

会場の一つとされた宇治の総合グラウンドには2月 25日からの突貫工事で約 1000名収容の仮設試験場が建てられるなど、 慌ただしい準備の中での実施であったが、警察の厳重な警戒にも守られて、入試はなんとか無事終了した。

この間、入試阻止闘争の激しい衝突は見られたが、

阻止に向けて強硬姿勢をとるセクトと、それについていけないノンセクトの学生たちとの間で内部に亀裂が生じ、じわじわ広がって、ついに全共闘の主役だった教養部闘争委員会(急進的無党派学生で組織)がセクトの入試阻止闘争からついに離脱した。

これが致命傷となって、「入試阻止闘争」は不発に終わった。

1969年京大入試の受験者

この、異常極まる1969年京大入試を受けた人の証言(書籍)がある。

それは、『街場の親子論~父と娘の困難なものがたり~』 内田樹・内田るん著 中公新書ラクレ。

多少長くなるが、受験者が受けた京大闘争の影響を共有したく、引用させていただく。


-----------引用開始

1969年の京大入試のときに、たしかにうちの親はホテルを取ってくれなかったけれど、京都には当日じゃなくて2日前に行っていたんです。

るんちゃんも知ってる従兄のつぐちゃんが歯科大の学生で、京阪電車の沿線の枚方のあたりに下宿していて、その部屋に泊めてもらっていたんです。

京大全共闘が「入試粉砕」闘争をしていたので、学内での入試が不可能になっていて、京大当局が、どういうかたちで入試を実施するか、場合によっては入試中止になるかを前日構内で発表するということになっていました。

だから、受験生はみんな前日に、京大までそれを調べに行ったんです。

僕も日比谷高校のときの友人たちと一緒に雪の降りしきる京大まで状況を見に行きました。

偶然ですけれど、この間、明治学院大学で高橋源一郎さんと対談することがあって(源ちゃんが2019年3月で定年を迎えたので、その最終講義シリーズの連続対談のグストに呼ばれたんです)、そのときに二人とも69年に京大受験して、二人とも落ちたんだよねという話が出ました。

そして、入試の 前の日に雪の中、京大構内に行ったでしょ、という話になって、あのとき京大全共闘の人たちが火炎瓶を投げていて、それが雪の降りしきる時計台の前をオレンジ色の弧を描いて飛んで行くのが、すごくシュールな光景だった……という思い出話をしたら、源ちゃんが「僕はあのとき火炎瓶を投げる側にいたの」という驚くべき話をしてくれました。

受験生が「入試粉砕」ってないよね」いや、あるか。

ともあれ、前日から雪が降り出して、ものすごく冷え込んで、入試当日に京阪の駅に行ったら、ポイント凍結で電車が止まってしまっていました。

駅でずっと待っていて、電車が1時間半くらい遅れて、京都駅に着くことは着いたけどバスのダイヤも雪で乱れていて、結局入試会場の京都予備校に着いたのは、試験開始に2時間以上の遅れだったんです。

途中で、「もう行っても仕方がないや」と思つたんですけれど、とりあえず行って見たら、大雪のせいで遅刻者続出したので、開始時間を1時間遅くしたので、まだ少しだけ時間がありました。

でも、予備の教室がないので、暖房も何もない冷え切った廊下に机を並べて、僕ともう一人、やっばりめちゃくちゃ遅刻した受験生と二人で、かじかんだ手に鉛筆を握って、ぶるぶる震えながら英語の試験を受けました。

だからひどい成績だったんです。

というわけで、すべては雪のせいであります。

でも、うちの親たちが大っ腹で京都市内のホテルを取ってくれていたら、雪の中を歩いてでも試験会場にたどり着けたから、もしかしたら、69年に京大に受かっていたかも知れません。

でもね、受かればよかったというものじゃないんですよ。

京大に入ったら、当然そのまま学生運動ということになるでしょ。

69年の京大って、レーニン研とか赤軍派とかRGとかそういうめっちゃ剣呑な政治党派が跋扈していたキャンパスですからね。

僕みたいなハイテンションな子どもがそういうところに入ったら、たちまち噴き上がって、あれよあれよという間にとんでもないことになっていた可能性は大です。

それを考えると、69年に京大に受からなくてよかったのかも知れないと思います。

もし僕と源ちゃんが69年に京大キャンパスで出会っていたら……と想像するだに慄然とします。

「より命が縮みそうな選択肢」を意地張って先取りするチキンレースみたいなことになったら大変なことでした。

だから、落ちてよかったんです、あの年は。


-----------引用終了

『街場の親子論~父と娘の困難なものがたり~』 内田樹・内田るん著 中公新書ラクレ より

京大全共闘反代々木系の敗北宣言

「全共闘は事実上解体した」

「入試阻止闘争」が不発に終わり、京大全学共闘会議の反代々木系リーダーは、敗北宣言するしかなかった。

反代々木系とは、日本共産党またはその執行部に反対する、新左翼をはじめとする勢力を総称として指す呼び方で、逆に日本共産党側からは「トロツキスト」「ニセ左翼集団」「ニセ左翼暴力集団」などと侮蔑される存在だ。

そんな敗北宣言もありつつ、その後も各学部では、講座制・学位制への疑問、 学生の大学運営参加、教授会公開、財政公開、カリキュラムなど個別の論点などをめぐって運動が展開されたが、闘争の中でこれら学内のことはさほど問題視されないようになっていく。

とって代わって運動の争点となったのは、中教審答申粉砕、 ASPEC(アジア南太平洋地域閣僚会議)粉砕、沖縄、そしてなんといっても70年安保など、学外の政治課題だった。

前面に押し出されはした政治課題だが、争点は定まらず、京大闘争は明らかに拡散する傾向が見られた。

ただ、学内での実力行使はまだ続いていた。

3月25日に予定されていた卒業式は中止となった。

4月11日に行われた入学式には、全共闘系学生が乱入して、開式後わずか10秒で閉式に追い込まれたのであった。

(第六話「「高野悦子と立命館全共闘」へつづく)