第17話「SJ(就職情報誌部門)制作、編集の人財がステージ上で再会する、奇跡の音楽祭!」

SJ(就職情報誌部門)関西版(週刊就職情報〜Bing、とらばーゆ等)の編集長を、実に15年間にわたって担ってきた伝説の人物・岡本武史が、20世紀末を機にリクルートを辞めるにあたって自らの後任として重責のバトンを渡した人物は、黒田真行だった。

黒田はその後やはり15年間にわたって、「リクナビNEXT」編集長、「リクルートエージェント」HRプラットフォーム事業部部長、「リクルートメディカルキャリア」取締役などを歴任し、一貫してリクルートの転職サービスの発展に貢献した。

リクルートのDNA、特に市販誌ビジネスにおけるDNAは。まずこの二人が転職事業を担った30年間があって、それ以降も後進たちの体内に脈々と宿り続けているのであろう。

ただ不思議なことに。この歴史的バトンタッチ以来、二人はずっと会っていなかった。もちろん仲が悪くなったわけではない。心の中で互いにリスペクトしつつ、内容は全く異なるそれぞれの道をまっしぐらに突き進んできた濃密な四半世紀が、二人それぞれに存在する。

2026年9月13日、東京は下北沢にて。この二人が、そして、そのDNAを受け継いできた板倉真紀、山岡真弓、田中俊介、百嶋一大、西宏昌、竹中健一ら錚々たる面々がバンドメンバーとしてステージ上で再会するという、同じ釜のメシを食った仲間たちにとっては歴史的とも言って過言ではないだろう音楽イベントが行われる。

この音楽祭が実現に至るまでの背景、経緯など、ぜひとも知っていただき、多くの同志たちが旧交を温める機会となればと願う次第である。

岡本武史は、広島フォーク村のシンガーソングライターだった

岡本武史は、1950年(昭和25年)に、和歌山県で生まれた。
小学校、中学校、高校までを和歌山県で過ごしたが、音楽に目覚めた彼はギターを手にして曲を作り始める。

「音楽でメシを食いたい」
そう言って、大学進学はしたものの遠く広島に行こうとする彼を、教師であり厳格を絵で描いたような父は許さなかった。岡本は、大学進学を機に、「勘当」されてしまう。

広島で一人暮らしを始めた岡本は、いい曲を書いた。知る人ぞ知る広島フォーク村で、学生でありながらも音楽でメシを食い始めた。広島フォーク村とは、1968年11月、まさに70年安保を控え、学生運動がピークに差し掛かろうとする時代に産声を上げた。当時広島商科大学(現在の広島修道大学)の学生だった吉田拓郎が、広島にあった河合楽器系、岡本がいたヤマハ系(彼のギターは当時からヤマハ一筋)と、もう一つ軽音楽系の団体の三つを「一つのフォーク集団にしよう」と呼びかけたことがきっかけだった。

吉田拓郎や村下孝蔵ら彼らと肩を並べて活躍し始めた岡本に、1973年、23歳のとき、大きなチャンスが訪れる。ヤマハがこれまでになかった日本のポピュラーソングを創作できるアーティストの発掘を目的に始めていた「ポプコン」の「広島県予選」で、岡本が故郷のことを歌った「和歌山へ」が、広島代表の一曲に選ばれたのだ。

「和歌山へ」は、ギター一本で訥々と歌う「岡本節」の代表曲であったが、1973年の10月14日に三重県の合歓の里で開催される本選会では、ヤマハのスタッフたちからオーケストラをバックに歌うことを提案される。まだ23歳である、大人から言われるままに、それを受け容れてしまったことが、今も彼の心の中に癒えることのない傷として残ってしまうことになる。オーケストラのアレンジと、岡本節とが、まるで相入れず、岡本曰く『もう自分の歌ではなくなっていた』という本番となってしまったのだ。

この本選でグランプリに輝いたのは、小坂明子の「あなた」である。彼女はピアノ弾き語りを貫いて、それが吉と出たのか、「あなた」はポプコンのグランプリに輝いた。岡本がグランプリを譲った「あなた」は、ポプコンだけでなく、世界歌謡祭でもグランプリを受賞。そしてその後に発売されたシングル・レコードは、100万枚以上の売上を記録する大ヒットとなり、大スターに駆け上がった彼女は、紅白歌合戦にも出場するに至る。

「言葉」へのこだわり、そして「情報とは何か」という問い

まさに明暗クッキリ、広島に帰った傷心の岡本は、音楽を諦める決断をする。岡本の曲は、歌詞が素晴らしい。つまり、曲のメロディより言葉を大切に、歌詞に徹底的にこだわった。そんな岡本の言葉の力は、広島の大手広告代理店に認められ、コピーライターとしての人生が始まることになる。ところがそんなある日、新聞の求人広告欄のアルバイト募集が岡本の目に留まった。

その社名は「日本リクルートセンター」。社員として広島最大手の広告会社で働けていることに、さしたる不満があったわけではなかった岡本だったが、なぜかとても気になった。そして、アルバイター採用試験を受けて採用され、「日本リクルートセンター」という、当時まだ得体の知れなかった会社への転職を決意したのだ。

「え?会社を辞めるだって?で、これからどうするんだ?」
「日本リクルートセンターという会社に行こうと思います。アルバイトですが。」
「はあ?なんだそのいかわがしい名前の会社は?何やってる会社だ?」
「情報誌をつくっている会社らしいです。」
「情報?」

退職を決意した岡本が、当時の上司に報告した際の会話である。

上司はしばらく黙ってから岡本にこう言った。

「岡本、広告という字を書いてみろ。」
岡本がその字を書くと、上司は次にこう言った。
「では、情報という字を書いてみろ。」
岡本がその字を書くと、上司は岡本にこう言った。
「広告という字は、広く告げると書くよな。その通り、大きな声を出して告げれば、伝わるものだよな。で、情報という字は、情けに報いると書くよな。情けに報いるという意味の本質をわかってのことであれば、俺は止めんよ」

のちにとらばーゆ、Bing編集長をなんと15年の長きにわたって務め、四半世紀にわたって勤めたリクルートを1999年12月に退職した後も、転職マイスターとして、アルバイター活用、女性活用などをテーマとする講演活動などに忙しい日々を送ってきた岡本武史自身の、これが初めての転職だった。

情報とは何か?その探究は岡本から黒田へ

岡本は、前職の上司から投げかけられたテーマ「広告と情報」の違い、そして「情報」というものの本質について、先輩や同僚、後輩に対して問い続け、考え続けてきた。そして、そのことを、のちに岡本が編集長のバトンを渡す黒田真行に、まだ黒田が駆け出しの頃に問う。

その翌日、岡本の机の上には朝日新聞の三面記事と、同じことを扱った毎日新聞の三面記事とが並べて置いてあった。どちらもある女性の火の不始末によって大きな火災があったことを報じたものであった。同じ件に関する「情報」だったが、両者には違いがあった。朝日新聞には、「火災の原因は女性の火の不始末であったが、女性の不注意によるものだった」と書かれており、一方の毎日新聞には「連日の夜勤明けで疲れ果てた女性が、火が燃え広がるのに気がつくのが遅れた」と書かれていたのである。

この二つの切り抜きを、黙って岡本の机に置いたのは黒田真行だった。

岡本は、黒田のこの「答え」に胸が熱くなるとともに、問い続けてきた「情報とは何か」という問いへの解と確信を得たのである。そうだ、これが「情報が人間を熱くする」ということなのだと。

黒田真行は、1965年、昭和40年に兵庫県で生まれた。岡本の15歳年下である。
小学校、中学校、高校までを兵庫県で過ごし、大学は大阪の関西大学に進んだ。この頃のことを、彼を慕う井橋団平が詳しく聞いて、私が知らなかった黒田の原点、とても大切なことを書いてくれたので、以下、ほぼ引用させていただく。

黒田は子どものころから、本を読むことが好きだった。小学校では、図書館の貸し出し数で一位になるほど、夢中になって本を読んでいたという。そして、本を読み続ける中で、世の中で虐げられている人、抑圧されている人、情報を持たないことで不利な立場に置かれている人の存在に触れていった。

後に求人情報誌の編集に携わることになる黒田仕事観は、突然生まれたものではない。子どものころから本を読み続け、社会の矛盾に対する違和感を持ち始めた黒田は、大学生にして「情報」を伝えることを始めていた。

活字の怖さを知り、それでも新聞記者を志し、そして岡本武史と出会って

黒田は、19歳にして、ミニコミ誌を作り始めた。それは評論誌のようなものだったという。マンションの一室を事務所として借り、本を作り、梅田の阪急百貨店や紀伊國屋書店にも自分で営業に行き、実際に置いてもらっていた。文章を書くこと自体が、もともと得意だったわけではないというが、黒田には書きたいことがあった。伝えたいことがあった。

ところが、あるとき、自分が書いた評論が大きな問題になる。身体障害や、精神障害の人が持つ才能をテーマとして扱った文章だったようだが、その中の文章や画像が問題視された。

「差別主義者やろ」

そう言われ、いくつもの団体から激しく糾弾された。

普段であれば立場の違いから反目しあっている団体同士なのに、「危ない奴が出てきた」という一点でのみ団結し、黒田の事務所に押しかけてきた。黒田は地下鉄に乗せられ、アジトのような場所で拉致された。そこにいた百人ほどの人間は、全員が黒田の書いた記事のコピーを持っていた。一行目から赤線を引いた紙を手にしながら、「お前は差別主義者だ」と詰め寄ってきた。百人もの人間から問い詰められる「糾弾会」は夕方から明け方まで12時間以上も休みなく続けられた。

その後も彼らの激しい糾弾は続いたが、この一連の経験で、黒田は「活字は怖い」と思った。言葉は、人を動かす。人を傷つけることもある。自分の意図とは違う形で受け取られ、思いもよらない事態を招くこともある。黒田は19歳にして、その怖さを身をもって知った。

普通なら「活字恐怖症」なり「発信恐怖症」になってしまうところだろうが、それでも黒田は、活字の世界から離れようとはしなかった。むしろ、新聞記者になりたいと思うようになる。理由は明確だった。

情報を知らないことで、割を食っている人がいる。
その人たちに、必要な情報を伝えることで飯を食いたい。

黒田は、そう考えた。

新聞記者を目指しながら、黒田はいろいろな仕事をした。バーテンダーやお好み焼き屋など、さまざまなアルバイトも経験した。そんなある日、1987年の秋、朝日新聞に目を通していた黒田はリクルートの制作アルバイト募集を見つける。日給は5,800円。求人広告の制作で文字を書く仕事だったが、いいバイト代だ。新聞社の試験では論文を書くこともある。普通のアルバイトをするよりも、字を書いていたほうがいい。そう考え、黒田はリクルートのアルバイト試験を受けに行った。
採用してくれたのは、当時編集長だった岡本武史だった。

そんな二人が、なぜ26年ぶりに、しかもなぜ音楽祭を?

岡本武史と音楽についてはすでに書いた。
では黒田真行は、音楽との距離感はどのようなものであったのか?

黒田が音楽を始めたのは中学時代のことだ。ドラムを始め、バンド活動も始めた彼は、パンクロックの影響を大きく受けた。彼の、どこかアナーキズム的な思想の源泉、それは多感な中学生を虜にしたパンクにあると思われる。ちなみに当時から黒田のドラムパフォーマンスを知っていて、のちにリクルートでも黒田の後輩となった知足は、今回黒田が音楽祭のステージに立つと知って、「黒田さんがドラム叩かれるのなら、名器と言われているスネア、Blackビューティーを使ってもらいたい」と申し出てくれているほど、黒田のドラムに惚れ込んだ人物だ。

そんな黒田真行が、岡本武史と同じステージに立ったことが一度だけある。岡本が退職を前にした1999年、シーガルハウスで行われたワンマンライブのバックで、黒田はドラムを叩いていた。

それ以来、一度も会っていない岡本と黒田を、今回26年ぶりの再会へと誘導し、しかもステージ上での再演へと私がことを進めてきたのには、2つの理由というか「必然」とも言える「流れ」がある。

一つは、私が岡本から「音楽活動再会のパートナー」として私が要請を受けたことがある。岡本はこの春、私を「編曲者」として指名し、広島フォーク村時代からの数々のオリジナル曲を蘇らせ、音楽活動を再会することを決意したのだ。

第16話「R75岡本武史は、私の入社時、カルチャーショックの緩衝材となってくれた人。ついに再会!」
岡本武史、音楽活動再開は5月13日。尼崎のリハーサルスタジオでの初練習後、反省会をみっちりと!

もう一つの理由(流れ)の源流は、黒田の癌闘病生活が10年近くなって体調がよろしくない現状に対して、医者でもない無力な存在であることは事実であっても、友人として何も力になれないとは思わず、「念の力」と「免疫力アップ」の観点から「黒田のがん細胞を叩き出す会」の活動を私が会長となって今年4月8日に始めたことにある。

「黒田のがん細胞を叩き出す会」の、目指すことの一つは、黒田の健康回復を本気で願う人を集め、「念」を結集して、会の名称のとおり黒田の体内からがん細胞を消すこと。そしてもう一つ目指すのは、黒田自身が、常に手の届く先に明確な「楽しみ」を持ち、それを「目標」にしてウキウキした毎日を過ごすことで「免疫」を極大化することにある。

黒田とカラオケに行ったことのある人なら、彼が常にテーブルをドラムに見立ててリズムをとる姿を知っているはずだ。

9月13日、下北沢で。最高の再会、そして最高の成果を!

「黒田のがん細胞を叩き出す会」の第一回は、2026年4月8日。場所は、東京は高井戸のスナック「すずめ」にて開催させていただいた。4月8日と聞いて、何かピンと来た方は、元リクの方には多いだろう。そう、私の師匠、アニキでもあり、多くの元リクの皆さんにとっての偉大な先輩であった平尾勇司が旅立った日だ。しかも、彼が天に召された時刻は、この第一回「黒田のがん細胞を叩き出す会」の開会時間と同時刻、18時25分だったのだ。これは単なる奇遇と解釈すべきことではない。私はこの瞬間、まさに平尾勇司の魂が黒田の体内に宿った、あるいは平尾がまだ生きておかしくなかった時間のバトンが黒田に渡された、と、そう思っている。

黒田の決意表明。「俺は負けん。」

第二回はその1ヶ月後。黒田に大阪まで来てもらって、大阪にて開催した。

ノンフィクション「かもめのDNA」第14話「なぜ黒田真行はすごいのか?私が彼をこよなく愛するのはなぜなのか?」
勉強、テキストの画像のようです
第二回で、歌い、思いを語る黒田

いずれの会も、黒田に常に手の届く先に明確な「楽しみ」として、「新曲への取り組み」を提案。

第一回は2曲、第二回は一曲増やして3曲。

そして第3回は、2回やって一定の効果は認められたものの、まだまだ成果が足りないということでより大々的にやることもあって、彼のメインボーカルステージをさらに4曲に増やしたが、この第3回こそは2026年9月13日、冒頭のフライヤー画像でご案内している「くろだまガンボ」なのである。ちなみにこの音楽祭名の「ガンボ」は、「がん撲滅」の略名で、会の幹事長・西宏昌のナイスな命名だ。

幹事長の西宏昌(バンドではキーボード&コーラス)、会長の神生 六(越生康之:バンドではベース&コーラス)。9月13日の音楽祭会場近くのスナックにて打ち合わせ!

黒田はこのステージに、脳腫瘍も入れると黒田より癌闘病ははるかに長い「へなしゅん(田中俊介)」とともに、2回立つ。一回めは、岡本武史率いるバンドGGEのパーカッショニストとして。そして音楽祭のトリとして自らのバンド「黒魂」を率い、メインボーカルとして。

岡本武史は、すでに新曲を書き始めている。彼の作詞を私が作曲するコンビも発進した。また、黒田真行には私が作詞を依頼。作曲した処女作は昨日出来上がっている。黒田作詞、コッシー作曲のコンビ、そして岡本武史とのコンビで、オリジナルアルバムもつくりたい。
そんなビジョンを持ちつつ私はこの「黒田のがん細胞を叩き出す会」を、年4回のペースで続け、1年、また1年、と楽しんでいるうちに、あれ?気がついたら40回?10年経っていたわ、と黒田と大笑いする日をはっきりとイメージしている。

後期高齢者となった岡本武史、そして必死でがんと戦い続ける黒田真行、田中俊介に会いに来てください。祈ってください。また、きっと会場に集まる人たちの何割かはがんと戦っているはず。みんなの力と「念」を結集して、私たちお互いの未来に、キックオフしませんか!?

チケット購入は、こちらからお願いいたします。

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