たとえば京都発、ベイルート着。〜学生たちそれぞれの片道切符〜 第二話「差別の都」

部落差別発祥の地、京都

俺が生まれたのは京都。

この街は、そもそもこの国に、東九条のような「特殊部落」というものが現れ、それによる差別が始まった、かつての「都」らしい。

そして、それが始まったのは、摂関家全盛の時代、つまり11世紀前半に全盛期を迎えた藤原家が仕切っていた頃の京都であとのこと。

京都というところは、部落差別の源泉、醜悪極まりない部落差別の原型が生まれた忌まわしい場所だ。
そう、京都とは、国際観光都市である前に、「差別の都」なのである。


俺が死んでから45年ほど経って、NHKの大河ドラマではこの汚点を「光る君へ」って美化したらしいな。

はあ?「平安絵巻」なんてクソ生ぬるい綺麗事言ってんじゃねえよ。 

平安差別ともいうべき部落差別の悍ましい仕組みをつくったのは藤原家ではないか。


より天皇にとり入らんがために、人間としてやっちゃいけないことをやって、その後の日本を差別まみれにした。それが藤原家摂関政治の本質ではないのか。

天皇を利用して権勢を思うがままに振るわんと、「天皇をケガレから守り、キヨメる」ことを大義名分にさらに天皇にとり入らんと考えた藤原家が、この国に初めて、被差別部落の設定を行ったのである。

それをちゃんと描けってんだ。

証拠はいくらでもある。

まず、今が2024年だから1114年前、西暦914年の『意見封事十二箇条』を見ると、為政者が作っている社会の秩序から外れて、税金などを納めず、河原などに住んでいる貧しい元農民などを差別する姿が出てくる。

また、927年の『延喜式』という史料を見ると、御所から見て東北、即ち鬼門の方向にあって、御所の守り神に位置づけられている下鴨神社の南に住んでいた「濫僧(後の非人)」や「屠者(後の穢多)」が、「ケガレ」ているという理由で、追放されたとある。

さらに1015年の『小右記』という史料を見れば、天皇を「ケガレ」から守るために、御所の近くで人間や動物の死体が放置されるとして、検非違使という警察に死体を処理させているとある。

ただ、この検非違使は天皇直属の警察でとても位が高いため、彼らが死体を直接処理したのではなく、当然、誰かにやらせたに違いない。

そこで、1016年の『左経記』という史料を見ると、検非違使は、「河原人(後の穢多)」にやらせていたとある。河原人がこの時代、つまり1015年頃には、都から追放される代わりに、京都の町周辺に住んで、「キヨメ」として検非違使に使われることが始まったと考えられるのだ。

これらの史料は、いずれも忠平、師輔、兼家、道長と続いた藤原氏の時代のものである。

この史料から、天皇に近づいた藤原家が

「天皇家と天皇の都をいかにしてケガレから守らん」

という大義名分を掲げ、天皇家にさらにとり入るために、

非常に巧妙に被差別部落を設定したということが伺える。

藤原氏は、まず、河原人に京都の町の清掃をさせた。

キヨメというものを初めて部落民にさせたこと、これが部落差別の始まりであった。

そして、一般民衆に対してこう呼びかけた。


「河原人は税金も払わないケガれた人たちで、だから町をキヨメさせているのだ。」

京都の町人にとって、このようなキヨメは自分たちの自尊心をくすぐる存在だった。

「彼らは我々と違って税を納めない代わりに町の中を清掃してくれる。」

「我々はきれいにしてもらう納税者だ。」

藤原氏は、彼らを差別するよう町人たちに呼びかけ、人そのものに対する差別意識を洗脳し、「人そのものがケガレている」という感覚を徹底的にすり込んだ。

藤原氏が被差別部落民にさせた仕事は、清掃のほかに、警察、治安の管理もあった。

清掃、警察、治安などと言えば聞こえは良いが、それらの領域の、きつい、汚い、危険な部分のみを切り取って、彼らにやらせていたのである。

それは例えば、死体処理であったり、町の中に入ってきてほしくない物乞いをするような人たちを町の外へ追い出すために京都の入り口の辻々に立たせたり。

京都におられる天皇の、直属の位が高い検非違使が死体やケガレた人たちに直接手をふれないで済むよう、死のケガレと罪のケガレを取り払う仕事をする者として、彼らは藤原家の思うがままに使われたのである。

警察権が認められていた部落の一つに、都への東の入り口に位置する山科の「夙(しゅく)」がある。

夙とは、天皇陵の御陵番である「守戸(しゅこ)」が語源であり、この部落の人々は代々、墓守や葬送、酒造、興行などに従事した。

同じ被差別部落民でも、牛馬処理権を持ち、皮革、膠などを扱う皮田、穢多とは異なり、夙は、警察権や自治権も認められた特権的な部落の一つであった。

夙のように警察権を持つ部落の設定には、警察の役割をする検非違使という天皇直属の職位が関わっていた。すなわち彼らの仕事を手伝わせた以上、そこに検非違使を管理・統率した天皇の意向、というより天皇を利用して権力の集中と永続化を図った藤原家の意向が反映されていたことは明確である。

藤原氏がこうした被差別部落の設定を行ったということは、別の側面からも説明できる

鎌倉時代中期までの地図を見ると、京都や奈良の周辺にしか「非人」の集落はないが、鎌倉時代後期になって初めて鎌倉にも「非人」集落が現れるのである。

これでわかることは、被差別部落というものは、日本で権力の集中していた場所に発生したということ。そして、その権力が集中した京都や奈良が、部落差別の源泉であったということである。

明治41年に作られた全国の被差別部落の分布図を見ると、被差別部落の人口比率が高いのは京都、兵庫、奈良、和歌山、愛媛の順になっている。

権力というものが被差別部落をつくったことは明白であり、この分布からみて、京都に権力があったときに被差別部落はつくられたと考えなければ説明がつかない。

もし江戸時代に被差別部落がつくられたのなら、

被差別部落の人口比率は、江戸が一番高いはず。

しかし江戸には少なく、これは、江戸幕府がつくったのではないということを示す証拠となる。

現存している史料からは、明らかに天皇の権力を笠に着た藤原氏が「京の都」に被差別部落をつくった。

そうとしか説明できないのである。

ガラパゴス京都

室町時代の史料には、

「穢多の子はいつまでも穢多である」

「卑しい者とは結婚しない。血は一度汚れるときれいにはならない。」

などと、差別意識までが記されるに至っている。

江戸時代になると、差別は「制度」になった。

それまで人の身分を確かめる術は特になかったが、

江戸時代になると宗門人別帳がつくられ、結婚などで人が移動する時も身分を記した書状が一緒に送達され、人の身分がどこでも確認できるようになる。

こうして差別が制度化されると、被差別部落の人たちは、どこへいっても差別から逃れることができなくなった。そして、ひとたび差別が制度になると、やがて今度は逆に制度が差別を生み出すという循環が生まれていく。

このようして、江戸時代には、人が人を差別することが「義務」にまでなるのである。

しかし。
明治、大正、昭和、平成を経て、今や令和の時代である。

それでも、京都市内に古くから住む人間は、今もなお、

知らない人に対しては必ずと言って良いほど

「住んでいる場所がどこなのか」を問う。

その際、「京都市」と答えるだけでは不十分である。

彼らは「京都市内のどこなのか?」を知りたいのだ。
「どこそこです。」と答えて、その答えが彼らの興味のある地域でなければ、

「あ~、そうですか・・・」と、はっきり言って失礼極まりないリアクションが返ってくる。

興味のある地域であれば、次には「そうどすか〜、で、何代前からそこに住んだはるんどす?」という質問が来るのである。

このように、京都の洛中に住む人間は、自分の目の前にいる人間が「洛中の人間か? それとも洛外か?」に興味がある。

洛中とは、京都市の中心部。天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、応仁の乱などの長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として周囲に巡らしたお土居の「中」のエリアである。 

そこに住む、ガラパゴス化した住民の価値観はこうである。

洛中ならば「京都の人」(かまう価値あり)。

洛外ならば「その他」に過ぎぬ(かまう価値なし)。

被差別部落ならば…。
言葉にする必要もないだろう。

そんな閉鎖意識でガラパゴス化した京都市は、明治、大正、昭和、平成を経て令和のいま、財政破綻寸前まで追い詰められている。

俺は犬だから、人間同士の差別には関係ないだろうと思うかもしれないが、とんでもない。
俺が、被差別部落地区の人に飼われていたら、「あの地域の犬だけははねたらあかん、えらいことになるで」と、「特別視」されるはずだから。

無能市長の時代

「また(財政改革が)できなかったの繰り返しでは済みませんよ」。

京都市議会特別委員会で、市議の一人が、深刻な財政問題を16年間にわたって泥沼化させた任期切れ間近の門川大作市長に対し、財政再建策への決意表明を迫った。

それに対し、市長在任16年間、危機回避のための何らの政策もなく、次の選挙には出ずに責任から逃げ切るつもりの門川市長は、「たしかに後がない財政危機だ」と、まるで他人事のような気のない答弁(答弁ではないが)を、消え入るような声で繰り返した。

もちろん最近のことで言えば、コロナ禍による歳入減少も言い訳にしたかったろう。

しかし決定的な財政危機の主たる要因は、バブル期の市営地下鉄東西線の建設など大規模公共工事の借金返済があるにもかかわらず、昭和の時代から福祉や医療、子育て支援などの施策を、何の計算も工夫もなく、厳しい決断を先送りにして継続したことである。

しかも、本来ならば運賃などの収入で返済すべき地下鉄事業の巨額の借金を長年にわたって一般会計で肩代わりし続けたため、財政逼迫に拍車がかかった。

近年の京都市財政の逼迫要因を一言で言えば、こうである。

「線路は続くよどこまでも、もとい地下鉄事業赤字は続くよどこまでも」

 

「貯金」にあたる財政調整基金は、30年前にとうに枯渇。

将来の借金返済に備えて積み立てている公債償還基金を取り崩す「禁じ手」と呼ばれる手法を連発して、粉飾まがいの見せかけの収支の均衡を保ってきたというていたらくである。

その基金を失ったその後は、ついに財政再生団体に転落する恐れがあるのだ。

無能な門川大作だけを責めるのは酷かもしれない。

もともとこの財政破綻への道を決定づけたのは昭和の時代、1950年に京都市長となった高山義三だったから。

彼は、社共をバックに当選したのに、当選するやいなや寝返るように、いきなり保守勢力と妥協する。成り行き任せ行政の典型だった。

当選していきなり保守路線に寝返った高山に対して、当時京都市役所内で形成されていた左翼グループは、怒り心頭。


「高山は許せん。早く市長の座から引き摺り下ろさねば」

彼らは、虎視眈々と高山失脚の機会を伺うようになる。

そんな1951年、事件は起こる。
京都市の臨時職員杉山清次(筆名・杉山清一)が、オール・ロマンス社が発行する『オール・ロマンス』誌10月号(通巻43号)に小説「特殊部落」を発表したのである。

この小説は、実在する京都市内の被差別部落(東七条、いわゆる柳原、別名崇仁地区)が舞台であった。

崇仁地区とは、京に都がある時代から存在する数ある京都市内の被差別部落の中でも、現在に至るまで激しい差別を長く受けたきた地域で、崇仁学区内の貧困者の比率が京都市内で最も高かったことでも知られる。

2020年(令和2年)の国勢調査によれば、人口は1380人。平均年齢は53.9歳、65歳以上人口は38.55パーセントと高齢化が進んできたが、1920年以降の人口増加の大半は朝鮮人の流入によるものであり、奥平剛士が京大入学後に毎日通い詰めた東九条(JR京都駅を隔てた南側)が、その流入の多くを吸収してきた。

小説「特殊部落」

この小説は、朝鮮人の父と日本人の母を持つ医師「鹿谷浩一」と、朴根昌の二女「朴純桂(日本名:純子)」との恋愛を描いた純愛小説である。

しかし、そこに被差別部落民が登場するわけでもなく、その地域に住んでいれば「部落者」と呼ばれて差別され、離れれば「部落者」でなくなるという、実際の部落差別とも朝鮮人差別ともその本質が懸け離れた、いわば架空の「特殊部落」として描かれた小説だった。

そのため、この小説の舞台とされた被差別部落の住民たちの中に「地域の実態をゆがめて興味本位に描いた差別小説である」という抗議の声が上がり、反発の動きが表面化したのだった。

市長糾弾の機会を待ち構えていた市役所の左翼グループにとってみれば、

「すわ、これは行動を起こす絶好のチャンス!」

それ以外の何物でもなかった。

彼らはただちに部落解放全国委員会京都府連合会に駆け込んで、委員長らに対して、この小説を被差別部落の悲惨さを興味本位に取り上げた差別小説として糾弾に立ち上がるように依頼するとともに、解放委員会の名による『糾弾要綱』も準備。

さらに、京都市役所内部では同じグループによる市長答弁の作成までが周到に作成された。

「小説を誠に遺憾とし、同和行政予算の拡充に取り組んでまいります。」

高山市長はこう表明し、京都市は1952年度の予算で、前年度のなんと5.8倍にもあたる4338万円の同和予算を計上したのである。

このオールロマンス事件以降、部落解放同盟の中では、差別事件を梃子にして行政闘争に取り組み、被差別部落への同和予算を増大させるという方式の運動形態が定着した。

表向きには「解放委員会の追及に対して行政側がその正当性を認め、予算の拡充を約束させる」という体裁が整えられていたので、その後、各種の運動団体が市を追及する際のモデルとなったと言われている。

糾弾の嵐の中、小説の作者である杉山清一は、反省の意を表明したものの、差別者の烙印を押された。

市役所に居場所を失った彼は職員を辞し、その後は転々と職を変えるようになったという。

そうした歳月が45年間続き、1999年、杉山清一は他界した。

ちなみに、のちに俺が「タケシ」という名をもらった梅原猛は、この「オールロマンス闘争」の頃はまだ京大の大学院生。この頃の彼は強烈な虚無感に襲われ、賭博に逃げ、のめり込む日々を送っていたそうだ。

俺から言わせれば勉強のしすぎだろうということなのだが、人間というものの得体は全く理解ができない。

彼が志した道は「哲学」とかいう学問らしく、人間というものは犬より随分複雑なことを深く考えるものだと言う。

かたやあまり深く考えずに、「特殊部落」と言う小説を発表した若き日の杉山清一。
いくら頭が良くても、いかに考えをめぐらせようとも、人間というもの悩みの解決に至るどころか賭博などにのめり込むしかなかった若き日の梅原猛。

杉山は、「差別者」の烙印を押され、京都市役所を追われて、職を転々。終着駅の書かれていない「片道切符」を持ったまま、ひっそりとその生涯を終え、梅原は、長じて同じ京都市の最高学府「京都芸大」の学長になった。

人間にとって「若い」とは、それだけでなんと理不尽なことであろうか。

ドッグイヤーと言われるようにあっという間に老いて死んでいく俺たち犬にしてみれば、「若気の至り」なんて悠長なことを言っている暇などないわけで、人間と犬のどっちが幸せかなんてわからない。

高度成長が生んだもう一つの差別

奥平剛士の少年時代、戦後日本の経済成長の背景には、まず朝鮮戦争特需があった。そしてほぼ間断なく、ベトナム戦争特需が続いていく。

奥平は京大に入ったが、前提として、まず太平洋戦争、そして朝鮮戦争、ベトナム戦争のおびただしい戦争の犠牲者がいての経済成長であってのことであるとの認識を強く持っていた。

西の最高学府である京都大学に進んだ奥平のような学生たちは、当時は特にだが、いずれ国の将来を導いていかなければならぬインテリと位置付けられていた。集団就職の少年少女や草深い故郷の田畑で汗を流す年寄や兄弟たちから見れば、到底そこへはたどり着けようもない、選ばれた者たちであった。
奥平自身、そのように思われていることを自覚していたし、「一種の後ろめたさ」であり「ある種の優越感」もたしかにあるのだった。

そして自らも故郷で骨身を削って親が貯めた学費をうけて大学へ進学したこと。

さらには国や大企業が経済成長に不可欠な「労働力」を「金の卵」という詭弁よろしくかき集め、結果、みんな同程度の安い給料で工場などで汗を流す先輩たち、自らの幼なじみたちが世の中の大半を占めているという現実も。
これらのことが、入学してからもずっと奥平の頭から離れることはなく、それはある種の「うしろめたさ」として消えることはその後もなかった。

そんな日本の現状、そして日本を取り巻く世界情勢、そんな中で各国でわきあがる革命への行動と、それへの弾圧、さらには環境破壊へとまっしぐらに、さらなる危機へと、ひたすら突き進んでいく人類のこと。

これらを冷静に観察する奥平剛士の目には、それらは総じて「行き詰まり、いずれ破滅への道をたどるであろう情勢」として映っていたのである。

奥平が学生運動を否定し、独自に京都の被差別部落に身をどっぷり置いていた20歳の頃、東京では、早稲田大学で学生闘争が勃発した。のちに「150日闘争」と言われる第1次早大闘争である。

この闘争は、政治党派に属する活動家学生だけでない広範な一般学生も闘争に参加したこと、闘争主体が「全共闘」を名乗ったこと、手法として全学バリケード封鎖という実力行使に至ったことなど、後に全国で活発化する学園闘争、全共闘運動の先駆となった。

俺が注目したいのは、奥平が選択した生き方とは全く異なるにしても、その背景にある「学生の自覚」というものが同じであったことである。

当時大学に通える人は限られていた。だから、大学に通うことができる者の間には「自分たちはエリートだ」との認識があった。そして彼らは、大学に通えている自分たちが動かなければ社会は何も変わらない、良くならないというプレッシャーや責任感のようなものを背負っていたのだ。

エリートというのは何も、東大、京大、早慶だけを言うのではない。

他の大学に通っている大学生も、自身に向けられる世間的な評価のようなものを感じていた。

実際ほぼ同時期に、全国各地の大学で学生運動というものが勃発していた。当時の学生たちは、「自分たちが社会の中でどういう立場にあるのか」を自覚し、その責任や役割を感じていたという側面が確かにあったと思われる。

当時の大学、短大、専門学校への進学率は20%前後であった(昨今の進学率は80%を超えている)。
このころ早稲田大学の学生であった元静岡県知事・川勝平太が、2024年4月、新入職員に向けた訓示の中で「毎日野菜を売ったり、牛の世話をしたり物を作ったりとかと違って、基本的に皆さんは頭脳・知性の高い方たちです」と発言したことは記憶に新しい。
この「職業差別発言」を謝罪して辞職した彼は、奥平とは3歳違い。早稲田大学第一政治経済学部経済学科卒業、同大学院経済学研究科修士課程修了、オックスフォード大学博士号取得、早稲田大学政治経済学部教授を経て政界に進出した典型的なエリートであり、「団塊世代」のど真ん中、もっとも苛烈な競争の勝者であるという意識を持ってずっと生きてきた人間であった。


川勝がそうであったかはわからないが、当時、学生たちの多くは、「自分たちと大学は社会的矛盾のあらわれの一つ」として存在するのではないかという自意識を持っていた。そして、彼らの多くは自己と社会、自己と世界の関係を真剣に見つめた結果、「いまの資本主義のありかたを正す原理」を、初期マルクスの『経済学・哲学草稿』に見出した。

当時の学生がよく口にした「自己否定」という言葉は、原理的思考運動の中で「人間疎外」「労働力商品」といった言葉をさらに突き詰めた結果生まれたキーワードである。

60年代に敗北を喫した学生運動を否定し、ひとりスラムに通い土方に汗を流し始めた19歳の奥平剛士は、その原理的思考を独自に行動に移した、稀に見る存在である。

稀に見る独自の行動とは、京都の被差別部落に飛び込み、学問や知識や理論では決して辿り着くことができない最下層の庶民の生活の、その根幹部分にまで触れていこう、いや、自分の血肉とせんとした行動であり、それまでに出会ったことのない、被差別部落の得体の知れない怪物のようなリーダーの懐に敢えて飛び込んで、日々「自分の限界」を超え続けようとしたことである。

(第三話「60年安保」につづく)