
江戸時代後期、クソロシアが日本に接触してくることが多くなり幕府は北方への備えを強く意識していたころ、間宮林蔵は幕府の役人として北海道などで測量を行っていた。
1804年にはクソロシア政府の外交使節レザノフが長崎に来航して通商を求めてきたが、鎖国をしていた日本側の反応はつれなく、レザノフは半年間長崎の出島に留め置かれたあげく、求めていた交易も拒絶された。
幕府のこの対応に怒ったレザノフは、「通商を実現するには、武力で威嚇するしかない」と決意。まずは樺太、次に択捉島と、レザノフは北方地域の襲撃を開始する。
1807年、クソロシアの水兵が上陸してきたとき、間宮は択捉島で測量を行っていて、襲撃に巻き込まれた。日本側の守備兵はもちろんいて、間宮林蔵は徹底抗戦を主張したが、上役は慎重な態度に終始。あろうことか大した反撃もせぬまま退却してしまった。その結果、クソロシアによる略奪や放火を許してしまう。
この時の「大失態」の関係者は奉行所で取り調べを受けたが、終始反撃を主張した間宮におとがめはなかったが、敗走したことを負い目に感じた彼は、奉行にこう申し出た。
「どうか自分を、ロシアに行かせてほしい」と。
間宮林蔵の樺太探検、決死の旅立ち
間宮はおそらく日本の防衛のためにひと働きし、『意気地なし』『負け犬』との汚名を返上しようと考えたのだろう。しかしこの申し出は鎖国下の折、受け入れられるはずもなく、その代わりに間宮には樺太の調査が命じられた。
1808年(文化5年)3月13日、林蔵は宗谷に着任し、同年4月13日、林蔵と松田伝十郎は樺太へと渡る。林蔵は生きて再び日本の土は踏めないと覚悟しており、花崗岩でできた墓碑を海岸に建て、探検への決意のほどを示して旅立っている。
この際の出港場所は現在の第二清浜地区であり、そこには「間宮林蔵渡樺出港の地の碑」がある。
この記念碑の右横に祭ってある石が、林蔵自身が持参したといわれる墓石の上半分で、1958年(昭和33年)に清浜地区の浜から発見され、1959年(昭和34年)に有志らによって建立された。
サハリン=樺太(からふと)での一進一退
1808年(文化5年)4月17日、林蔵と松田伝十郎は樺太のシラヌシにおいて二手に分かれ、林蔵は東海岸を、伝十郎は西海岸を北へ進んだ。伝十郎は6月19日にラッカ岬に着いたが、それ以上は海草が腐食して海岸を歩くこともできない状況から引き返し、林蔵は北知床岬まで到達した後、波浪に翻弄されそれ以上進めずに引き返している。
その後林蔵は西海岸を北上。20日ノテトで伝十郎と再会し、もっと奥地を査察したいと伝十郎に同道を頼み、林蔵もまたラッカ岬にまで到達した。二人の樺太踏査はこれで終わりましたが、宗谷に戻った後、直ちに林蔵はロシアの勢力範囲、樺太北東部の地図作成のため、樺太の踏査を命じられている。
同年7月13日、林蔵は再び樺太に渡り、9月3日トッショウカウまで進んだが食糧が底をついたのと寒気に堪えかね、トンナイ(本斗)まで引き返し冬を越した。
樺太と大陸の間は海で隔てられていた
翌1809年(文化6年)1月29日に再度北上を開始し、4月9日にノテトに到着する。5月8日に氷海の割れ目を縫うように北へと針路をとり4日目、樺太と大陸は距離を広げるばかり。たどり着いたのは北緯53度15分のナニヲーだった。
ここにおいて樺太は大陸から続く半島ではなく、島であることが完全に立証されたのである。
その後、林蔵は大陸にも渡り、7月11日にはデレンを訪れている。宗谷に戻ったのは9月18日。
一年半に及ぶ大踏査の結果は、1830年(天保元年)にフランスの地理学者ルクルスによって「間宮海峡」として認められ、また、林蔵の樺太図はドイツの医師シーボルトが1851年(嘉永4年)に刊行した「日本陸海図帖」に載せられて、世界地図にただ一人日本人の名を残すこととなった。
日本最北端は、断じて「宗谷岬」ではない
カムイワッカ岬は北緯45度33分に位置する択捉島最北端の岬だが、ここが「日本最北端」の地である。日本最北端は宗谷岬だという人が多いが、北方領土は日本固有の領土であり、択捉島にあるカムイワッカ岬が日本最北端、宗谷岬は北海道本島の最北端という認識を間違えてはならない。



日本最北端じゃね〜っちゅ〜の。自分で間違えてどうすんだ!いくら観光客に来て欲しいからと言って、日本国民として恥ずかしくないのか、と言いたい。
ちなみに北海道、九州、四国を「島」と捉えなければ、択捉島は日本でいちばん大きな島でもあり、全長は204kmに達する。
北方領土は日本固有の領土である
北海道北東の洋上に連なる島——歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島のことを、「北方領土」または「北方四島」という。根室半島の納沙布岬から最も近い島は、歯舞群島の一つである貝殻島で、3.7kmしか離れていない。
北方四島は、戦後ソ連に法的根拠なく占拠され、日本の領土にもかかわらず現在日本人が自由に行き来することができなくなっている。
北方領土の全島を合わせた面積は約5,000㎢で、福岡県や千葉県と同じくらいの広さがある。国後島は沖縄本島より大きく、色丹島は隠岐島(島後)より大きい。
北方領土は日本固有の領土である
1855年2月7日、日本とロシアは平和的、友好的に日露通好条約(下田条約)を結び、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の国境をそのまま確認した。それ以降も、北方領土は一度も外国の領土になったことがない、わが国固有の領土なのだ。
北方領土は、17世紀初めにはすでに日本とかかわりをもち、18世紀末からは江戸幕府の直轄地として、
日本人の手によって開拓された。日本人は漁場や航路を開き、木材を切り出し、鉱山や牧場、水産加工場などが営まれた。北方四島は、多くの日本人がここで生活し、受け継いできた島である。
クソロシアによる違法な侵略
1945年8月9日、ソ連は、当時まだ有効だった日ソ中立条約に違反して対日参戦。日本がポツダム宣言を受諾した後の同年8月28日から9月5日までの間に、北方四島すべてを占領。その後現在まで、ロシアによる法的根拠のない占拠を続けている。
当時四島に住んでいた17,291人の日本人は、約半数が自力で脱出。残りの島民はソ連により故郷を追われ強制的に退去させられ、サハリン(当時の樺太)の抑留を経て日本に送還された。
現在四島に居住する日本人は一人もいない。
クソロシアの侵略に正当性なしとする3つの根拠
歴史上・国際法上のどの根拠を探しても、北方領土に対するロシアの占拠に正当性や根拠がないことは明らかだ。
1.北方領土は一度も外国の領土になったことはない。
1855年日露通好条約で択捉島とウルップ島の間に国境線が引かれて以降、北方領土は一度も外国の領土になったことがない、わが国固有の領土なのだ。戦争で奪ったわけでもなく、平和的なとり決めによってわが国領土であることが決められているのである。
2.ロシアの占拠は「領土不拡大の原則」違反である。
連合国は、第二次大戦の処理方針として「領土不拡大の原則」を宣言しており、ポツダム宣言にもこの原則は引き継がれています。したがってわが国固有の領土である北方領土の放棄を求められる筋合いはなく、またそのような法的効果を持つ国際的取決めも存在しません。
3.北方領土は、千島列島には含まれない。
サン・フランシスコ平和条約でわが国は、千島列島に対する領土権を放棄しているのだが、わが国固有の領土である北方領土はこの千島列島には含まれていない。このことについては、樺太千島交換条約の用語例があるばかりでなく、米国政府も公式に明らかにしている(1956年9月7日付け対日覚書)。
宗谷岬から「返せ!」と叫ぶだけじゃダメ
北海道本島最北の地「宗谷岬」は北緯45度31分22秒に位置し、サハリンの島影を遠望することができる。「返せ!」と叫んでも聞こえまい。また、叫んでいるだけでは何も変わらない。

北方領土問題について、日本政府は「わが国固有の領土である北方領土問題を解決して平和条約を締結する」という一貫した基本方針の下、強い意思を持って外交交渉を粘り強く行ってきた。
また、問題が解決されるまでの間、日ロ両国国民の相互理解を深めること等を目的に、北方墓参、四島交流、元島民やその家族による自由訪問、人道支援など、相互訪問と交流も地道に行われている。
北方領土返還要求運動は、北方四島がソ連に占拠された直後から根室市で始まり、全国各地に広がって、今では全国の都道府県に北方領土の返還を要求する県民会議が設立され、活動を続けている。
北方領土返還実現のためには、世代を超えて国民一人ひとりがこの問題を理解し、関心を高め、力を合わせることが何より大切なことである。





宗谷丘陵の「周氷河地形」
「宗谷岬」は、北緯45度31分22秒に位置し、わずか43㎞彼方にサハリンを望む北海道最北の岬である。
宗谷丘陵は、北は宗谷岬、南は天塩川北岸に及び南北90㎞にわたるが、宗谷付近では寒冷地を特徴づける周氷河地形が見られる。


氷河地形とは、一般的には高い山地に見られる鋭い稜線と深い谷に代表されるV字谷を想像させるが、宗谷では土が凍っては融け、融けては凍るという現象を繰り返しているうちに傾斜地で流土現象が起き、斜面の上の土が崩れ落ちて下の谷に積み重なって、尾根と斜面がなだらかで小さい谷が浅いスプーンのような地形ができた。
その後、今から約1万年前に地球最後の氷河期であるウルム氷期が終わると、雨水や川水が土砂を削って流れるようになり小さな谷がV字に刻まれ、現在のようななだらかな稜線と急な谷が入り乱れた周氷河地形ができた。このような地形は北海道のいたるところでできたとされているが、開発などで破壊され、現在でもその美しい地形を最も顕著に見られるのは宗谷丘陵のみとなっている。
今から約1万年前の氷河期にできた宗谷丘陵の周氷河地形は、平成16年10月に「北海道遺産」に指定されている。
宗谷と稚内の歴史
江戸時代以前はアイヌの人たちが北海道(蝦夷地)に住んでいたが、本州の人達(和人)が移り住み始めたのは、江戸時代。1685年(貞享2)に松前藩が現在の宗谷に藩主の直轄領地として宗谷場所を開設したのが始まりと言われている。
また、1869年(明治2年)7月8日、新政府は蝦夷地に開拓使を設置し、8月15日には蝦夷地を北海道と改称。その後、開拓使宗谷出張所が置かれたが、あまりにも広大な北海道を管理するのは難しく、全道レベルの行政機関やその出先機関、さらに町村レベルの行政機構の改廃もめまぐるしく続いた。
1878年(明治11年)9月8日、宗谷郡において稚内・声問・抜海・宗谷・泊内・猿払の6か村が成立。1879年(明治12年)7月1日、宗谷村に宗谷・枝幸・利尻・礼文4群を管轄する宗谷外三郡役所の設置と同時に宗谷外五村戸長役場が発足するが、これが稚内市の始まりとされている。
1897年(明治30年)11月2日には宗谷外三郡役所を廃止し、北海道宗谷支庁が設置された。その後、もともとは宗谷村の一部だった現在の市街地地区が稚内村として分村され、稚内村が発展し市となった後、1955年(昭和30年)に宗谷村を合併し、現在に至っている。
蝦夷地調査・樺太検分、クソロシアの侵略
蝦夷地の最北に位置し樺太に対する宗谷には、たびたび幕府の調査がきており、1785年(天明5年)、1786年(天明6年)には、初めて蝦夷地を大々的に探検している。また、1785年(天明5年)7月2日には、庵原弥六、下役引佐新兵衛、鈴木清七らが樺太を調査するため海峡を渡っており、樺太探検に先鞭をつけた。
1800年頃になるとロシア船が日本近海に出没するようになり、1807年(文化4年)3月24日、露寇対策のため幕府は宗谷、樺太を含む西蝦夷地を直轄地とする。
1792年(寛政4年)、シベリア総督の使節アダム・ラクスマンが食料や燃料を確保するため、日本と通商条約を結ぼうと来日し、箱館に着きました。鎖国を理由に通商は拝辞したが、当時老中であった松平定信は今後外交を望むのあれば長崎にだけなら入港してよいという「信牌(許可証)」を与えた。これによって、冒頭に記したように1804年(文化元年)9月6日、ロシア皇帝の侍従長であるニコライ・レザノフが信牌を持参して通商を結ぶため長崎に入港したのであった。
大韓航空機と祈りの塔
1983年(昭和58年)9月1日、サハリン沖モネロソ島付近の海上で、ボーイング747型大韓航空機がソ連迎撃機のミサイルで撃墜され、乗客乗員合わせて全269名が亡くなった。
この大惨事の墜落現場にもっとも近い稚内では、警察、自衛隊、海上保安部、稚内市などの関係機関がそれぞれ対策本部を設置し、領海内での機体の捜索などの対応に追われた。稚内市は領海外での外国の事件にもかかわらず墜落現場に一番近かったことと、乗客に28名の日本人がいたため、どんな展開にも対応できるようにと事件後の対応に全面協力。遺体収容のための体育館の確保や病院、火葬場、宿泊所など、様々な手配を進めた。
この事件から2年たった1985年(昭和60年)9月1日には、遭難者の慰霊と世界の恒久平和を願って、遺族会と稚内市をはじめとする全国からの浄財をもとに、宗谷岬の高台に「祈りの塔」が建立された。

塔は、鶴が羽を広げ天空に首を持ち上げる姿をしており、事件の真相と真の平和を鶴の様に首を長くしてねがいを求める様子を表しており、19.83mある塔の高さは事故発生の1983年を、16枚の羽は遭難者の16か国の母国を、269枚の総張石は遭難者269名を表している。また、くちばしの方向は事故海域のある方角を向いており、角度は事故海域の緯度と同じ46度30分に傾けられている。
現在の宗谷岬と宗谷丘陵
現在、宗谷岬・宗谷丘陵には、「日本最北端の地の碑」をはじめとした宗谷(稚内)の歴史を語る上では欠かすことのできない数多くのモニュメントや建造物だけでなく、平成19年には宗谷丘陵に「宗谷岬牧場」が開かれ、安心・安全にこだわったブランド牛「宗谷黒牛」の生産も行われている。
また、57基の風車を有し、57,000kwの規模を誇る風力発電所「宗谷岬ウィンドファーム」や、ほたての貝殻を粉砕して敷き詰めた「白い道」もあり、多くの観光資源がある日本最北の宗谷には、1年を通して約37万人の観光客が訪れている。
宗谷地域の観光資源
岬には「日本最北端の地の碑」や「間宮林蔵の立像」、「祈りの塔」や「旧海軍望楼」など、国境のまちである宗谷(稚内)の歴史を語る上では欠かすことのできない数々のモニュメントや建造物がある。

宗谷岬公園
宗谷岬公園は、観光資源として注目され始めた1966年(昭和41年)、市によって開設された。開設当時は「宗谷岬灯台」「海軍望楼」「石柱に刻んだ最北端の地の碑」と数件の売店しかいない小規模な公園だったが、観光客の増加とともに様々なモニュメントの建立や駐車場の整備、海岸線の整備等が施され、現在の姿となっている。
日本最北端の地の碑
北緯45度31分22秒、宗谷岬の突端に位置している。1961年(昭和36年)には石柱が立っているだけだったが、1968年(昭和43年)7月10日に現在の形に建て替えられ、1988年(昭和63年)には20m沖合に移設工事が行われた。その際に緯度が1秒高くなったことはあまり知られていない。北国のシンボル北極星の一稜を象った三角錐のデザインで、中央にあるNの文字は“北”を、台座の円形は“平和と協調”を表している。
間宮林蔵の立像
1808年(文化5年)に樺太に渡り、間宮海峡を発見した林蔵の生誕200年にあたる1980年(昭和55年)7月に、彼の偉業を顕彰し、次代を担う青少年に世界にはばたく夢と勇気を培ってもらおうと建立された。
『宗谷岬』音楽碑

様々な歌手にレコード化され、NHKの「みんなの歌」でも全国に紹介された郷土の歌「宗谷岬」の音楽の碑が、「日本最北端の地の碑」にほど近い場所に建てられている。スイッチを押すとメロディーが流れる。
あけぼの像
北海道の牛乳生産量100万トン突破と飼育乳牛50万頭突破を記念し、1971年(昭和46年)7月に建立された。“天北酪農の夜明け”を象徴している。
旧海軍望楼

ロシアとの国交が悪化し始めた1902年(明治35年)に旧帝国海軍が建設。1904年(明治37年)日露戦争が勃発するとすぐに海軍無線電信所が設置され、ロシア艦隊の海峡通過を監視し、1929年(昭和4年)まで機能を果たした。稚内では、明治年代の建築物で唯一現存するもので、市の有形文化財に指定されている。

宮沢賢治文学碑
1923年(大正12年)8月、宮沢賢治が稚内港から連絡船にのり、大泊に至る際に作詩した詩が記されている。宗谷要塞重砲連隊宗谷会の人達が、僚友の霊に対する深い哀悼と平和の祈りを込めて建立し、1986年(昭和61年)10月12日に除幕式が行われた。
宗谷海域海軍戦没者慰霊碑

1980年(昭和55年)9月、樺太を含む宗谷海域の防衛中に亡くなった海軍軍人の鎮魂のために建てられた。

平和の碑

宗谷沖で日本海軍によって撃沈されたアメリカ海軍潜水艦「フワー号」の乗組員80名と、フワー号によって沈められた日本商船5隻の犠牲者690名を慰霊するため、1995年(平成7年)9月に日米合同で建立された。日米合同で慰霊碑を建立するのは、日本では初めてのことだった。
世界平和の鐘
ニューヨークの国連本部の前庭に世界の恒久平和を願うシンボル“世界平和の鐘”がある。この鐘と同じものを世界中に設置し、その思想を広めようとする運動があり、この運動により設置された第1号が宗谷岬の“世界平和の鐘”で、1988年(昭和63年)6月18日に除幕された。
子育て平和の鐘
世界平和の鐘の隣に1988年(昭和63年)に建立された。稚内市は家庭、地域、国、世界の平和を願うとともに未来の平和な国際社会にはばたく子供達の健やかな成長を願って、1986年(昭和61年)に子育て平和都市を宣言している。
ラ・ペルーズの碑
1785年(天明5年)の江戸幕府による蝦夷地調査の2年後である1787年(天明7年)、世界一周をしているフランス人のラ・ペルーズが宗谷海峡を発見している。これにより、それまで地続きとされていた蝦夷本島と樺太が海によって隔てられていることがはっきりした。ラ・ペルーズが初めて宗谷海峡を通過してから220年目の2007年(平成19年)10月27日、海峡を見下ろす宗谷岬の高台に記念碑が建立された。
宗谷岬灯台

宗谷岬の高台に紅白の鮮やかな宗谷岬灯台がある。道内では3番目に建てられ、1885年(明治18年)9月25に点灯された。灯台の光は約32㎞先まで達する。
宗谷公園
稚内市の発祥の地であり、運上屋(現在の税金にあたる運上金を徴収する役所)の跡地や、稚内市発祥の地の記念碑などが建ち並んでいる。1970年(昭和45年)に歴史公園として開設された。
宗谷厳島神社
宗谷の歴史的建造物の中で、今なお現存しているのが宗谷厳島神社だ。1782年(天明2年)奉納と記された「鰐口(ワニグチ)」が現存し、1781年以前に建立されたと考えられている。
宗谷護国寺
北方警備のためこの地に秋田藩士達が駐屯することになった1856年(安政3年)、蝦夷地で先に建立されていた有珠善光寺の住職が宗谷場所の協力を得て建立した幕府直轄のお寺である。1911年(明治44年)に一度焼失し、1950年(昭和25年)に現在の位置に再建された。跡地は1957年(昭和32年)に北海道文化財に指定されている。
旧藩士の墓
江戸幕府は1807年(文化4年)に最初の西蝦夷地直轄を決行し、津軽藩士が宗谷に派遣され、翌1808年(文化5年)には会津藩士が交代要員として派遣されたが、本州とは全く違う厳しい冬の寒さのため多くの死者を出した。旧藩士の墓石は全部で13基あり、会津藩3基、秋田藩2基、幕府関係者8基として祀られている。1856年(安政3年)に梨本弥五郎に従って初めて積丹島を越えてきた女性や宗谷で生まれた武士の子らの墓も含まれている。これらの墓石は、かつて点々と海岸や道端にあったものを明治時代に村民の手によって1か所に集められ、さらに1957年(昭和32年)に現在の位置に移された。
津軽藩兵詰合の記念碑
宗谷には多くの東北藩士達が派遣され、厳しい冬を耐えてきたが、ストーブや毛布のほかにも「コーヒー」が越冬に用いられた。犠牲者を出す以前からコーヒーは日本の歴史に登場していたが、宗谷にコーヒーが届いたのは多くの犠牲者を出した後だった。この碑は、コーヒーを飲むことができずに亡くなった藩士達を悼み、その後コーヒーを薬として大切に飲んだであろう先人達に思いを馳せ、1992年(平成4年)9月に除幕された。