第16話「R75岡本武史は、私の入社時、カルチャーショックの緩衝材となってくれた人。ついに再会、そして…」

私の大学、京都市立芸術大学美術学部デザイン学科からリクルートに入った人間は過去3人。
私以外の2人は、あまりのカルチャーショックに、ともに1年でリクルートを去った。
では、なぜ私が良くも悪くも10年近くもリクルート居座ったのか?
それは私が上司に恵まれたことがもっとも大きいが、入社時の強烈なカルチャーショックを身近で和らげてくれた岡本武史の存在も非常に大きかったと振り返る。

岡本武史は、音楽で身を立てようとして反対する親から勘当され、故郷和歌山吉田拓郎、村下孝蔵らの原点としてあまりにも有名な「広島フォーク村」で、彼らと共に音楽活動をしていた。ちなみに当時、村下孝蔵は岡本武史のバックを務めていた。
岡本は20歳前後の頃を振り返り、「和歌山から広島に移り住み、プロを目指していたが、音楽で食べていけないとなればどうしよう?」と孤独で不安だらけの独身生活だったという。

1999年、リクルートの部下たちとバンドを組んでいた時のライブ映像を拝見したが、いい曲ばかりで驚いた。たとえば狭いアパートの一室に吹きつける風に感じた孤独と不安を歌った「風の音」という名曲は、彼がリクルートと出会ったずっと前に生まれていた。

岡本武史の原点「広島フォーク村」

広島フォーク村は、1968年11月に、当時広島商科大学(現在の広島修道大学)の学生だった吉田拓郎の「広島のフォーク集団を一つにできないか」という提案によって生まれた。当時広島にあった河合楽器系、岡本がいたヤマハ系(彼のギターは当時からヤマハ一筋)と、もう一つ軽音楽系の団体の三つがあったが、拓郎は『企業色のないもっと自由な団体を作ろう』と呼びかけ、まさに70年安保を控え、学生運動がピークに差し掛かろうとする時代に産声を上げた。

岡本がその頃つくった曲に「和歌山へ」という名曲があるが、この曲はヤマハが主宰する第6回ポピュラー・ミュージック・コンテスト(通称・ポプコン)広島地区で一位となり、岡本は晴れて1973年の10月14日、三重県の合歓の里で開催される本選会に向かった。
この時の演奏で唯一岡本が悔やんだことがある。
「ギター一本でやればよかった。それがこの曲には一番よかったが、なんとバックにオーケストラがつくというので、それを受け容れてしまった。結果、これが自分が作った曲かと思うほど違う曲に聴こえてしまって…」

結果、グランプリに選ばれたのは小坂明子が歌った「あなた」だった。

「いい曲だと思った。この曲に負けたのなら仕方ない」

グランプリを譲った「あなた」は、ポプコンだけでなく、11月18日に開催された第4回世界歌謡祭でもグランプリを受賞した。しかもその後に発売されたシングル・レコードは、100万枚以上の売上を記録する大ヒットになった。

ちなみに、ポプコン入賞作品には上條恒彦、ヒデとロザンナ、モップス、ジ・オフコース(後のオフコース)の名前なども出てくる、まさにメジャーへの登竜門であったし、実際、2年後にはあの「中島みゆき」も「時代」を引っ提げてここからレジェンドへの道を突き進むのであったが。
諦めがついた岡本は、音楽の道を諦め、広島で就職する。

地域最大手の広告会社に、社員として採用されたのだった。

転職マイスター岡本自身の初めての転職

サラリーマン生活を送り始めた岡本の目に、ある会社のアルバイター募集の広告がその目に飛び込んできた。その社名は「日本リクルートセンター」。広島最大手の広告会社で働けていることに、さしたる不満があったわけではなかった。

しかし、面白そうだと直感した岡本は、日本リクルートセンターのアルバイター採用試験を受けて採用され、転職を決意したのだ。

「え?会社を辞めるだって?で、これからどうするんだ?」
「日本リクルートセンターという会社に行こうと思います。アルバイトですが。」
「はあ?なんだそのいかわがしい名前の会社は?何やってる会社だ?」
「情報誌をつくっている会社らしいです。」
「情報?」

退職を決意した岡本が、当時の上司に報告した際の会話である。

上司はしばらく黙ってから岡本にこう言った。

「岡本、広告という字を書いてみろ。」
岡本がその字を書くと、上司は次にこう言った。
「では、情報という字を書いてみろ。」
岡本がその字を書くと、上司は岡本にこう言った。
「広告という字は、広く告げると書くよな。その通り、大きな声を出して告げれば、伝わるものだよな。で、情報という字は、情けに報いると書くよな。情けに報いるという意味の本質をわかってのことであれば、俺は止めんよ」

のちにとらばーゆ、Bing編集長を務め、四半世紀にわたって勤めたリクルートを1999年12月に退職した後も、転職マイスターとして、アルバイター活用、女性活用などをテーマとする講演活動などに忙しい日々を送ってきた岡本武史自身の、初めての転職だった。

情報とは何か?岡本に問われた黒田の回答

岡本は、日付ははっきりしないが1970年代の後半には日本リクルートセンター広島営業所で社員となり、そして、事情もはっきりしないが(明かすことは野暮というもの…笑)大阪支社に転勤する。

岡本は、前職の上司から投げかけられたテーマ「広告と情報」の違い、そして「情報」というものの本質について、先輩や同僚、後輩に対して問い続け、考え続けてきた。
第15話で登場した黒田真行も、岡本からその議論をふっかけられた一人である。

ある日、岡本の机の上に朝日新聞の三面記事と、同じことを扱った毎日新聞の三面記事とが並べて置いてあった。

どちらもある女性の火の不始末によって大きな火災があったことを報じたものであった。
同じ件に関する「情報」だったが、両者には違いがあった。


朝日新聞には、「火災の原因は女性の火の不始末であったが、女性の不注意によるものだった」と書かれており、一方の毎日新聞には「連日の夜勤明けで疲れ果てた女性が、火が燃え広がるのに気がつくのが遅れた」と書かれていたのである。

この二つの切り抜きを、黙って岡本の机に置いたのは黒田真行だった。


岡本は、黒田のこの「答え」に胸が熱くなるとともに、問い続けてきた「情報とは何か」という問いへの解と確信を得たのである。

そうだ、これが「情報が人間を熱くする」ということなのだと。

クレーム対応の最前線で

さて 岡本編集長率いる転職情報誌に「採用広告」としての効果を期待して、企業は広告費をリクルートに支払う。一方で、読者にすればその広告は自分の将来に大いに関わる「転職情報」である。
その情報は、間違っても読者を不幸にするものであってはならない。しかし、その広告に投資する企業の期待を裏切ることもあってはならない。
市販誌である「就職情報」「とらばーゆ」「Bing」は、その両者の間に立って、毎週毎週、真剣勝負を繰り広げていた。

思うようにいかなかった企業、読者からのクレームは、心あるSJ部門の従業員にとっては本当に辛いものだった。

1999年に岡本のライブをサポートしたバンドメンバーはSJ(転職情報誌部門)の従業員で固められていたが、そのバンド名は「クレーム4」という笑うに笑えないネーミングだった。
また、こんなことも岡本の思い出に残っている。
当時、クレームの嵐の最前線で、顧客からの電話に対応していた女性従業員がいた。

彼女の対応は本当に素晴らしいものだった。
クレームを入れてくる人はみな怒っている。だから、まず、その怒りを受け止め、絶対的傾聴の姿勢を貫けるだけでも過酷な業務である。以下は、その女性と、あるクレーマーのやりとりである。今ならカスハラ、セクハラで完全アウトな価値観がまだ蔓延っていた四半世紀以上前のこと、読むだけで気分が悪くなるような会話だが、歴史的事実としてご容赦願いたい。

らちのあかない編集長の存在意義

「こら、お前とこの情報誌にうちは高い金払ったけど効果ゼロやぞ。どないしてくれんねん」

「まことに、申し訳ございません」
「お前みたいなペーペーの女に何を言うてもはじまらん。男に代われ!」
「申し訳ございません。あまりお役に立てそうな男性が思い浮かびませんが、どのような男性に変わればよろしいでしょうか?」
「上のもん、おるやろが。上のモンを出せと言うとるのや。たとえば編集長や、編集長がおるやろが!とにかく、お前じゃ話にならん。らちあかんのじゃ!」

「はい。承知いたしました。私の業務として、もう少し具体的にお話を伺いたいところではございますが。ご要望に沿って電話を代わらせて頂こうと思います。ただ、一つだけあらかじめご承知おきいただきたいことがございます。編集長は、私よりもっとらちがあかないと思いますが、それでよろしいでしょうか?」

こう対応されたクレーマー、猛烈な怒りがどこかへ行ったのか、一方的に電話を切った。
その瞬間、その場にいた従業員たちが、「らちのあかない編集長」を囲んでドッと沸いた。岡本は、改めてみんなから「らちがあかない」とだめ押しされたようで、なんとも複雑な気持ちになったという。

当時、編集長の上には事業部長がいたが、その事業部長からは「クレームはお前のところで止めろ」と厳命されていたようだ。ある意味、「らちのあかない」岡本の存在は、SJ事業にとって、現場の責任者ではないと言う立場を取り続ける当時の事業部長以上に大きかったと。私は勝手にそう思っている。

岡崎坦が愛のキューピット

2026年5月13日。

そんな岡本武史と再会した。
再会のきっかけをつくってくださったのは我らが岡崎坦。
「笑顔絵と音楽展」の初日に来てくださった岡崎が、「岡本くんが君と会いたがっているよ。一緒にバンドしたいってさ」。
嬉しいことだった。私は、岡崎さんから教えていただいた岡本の連絡先に早速メールして、この日の再会となったのだ。

6ヶ月間だったが、毎日一緒に仕事をした頃のことが昨日のことのように蘇る。
当時の思い出話が、どんどん掘り下がっていく。
当時のメンバーの女性関係、またご自身が当時部下であった奥様と結ばれた経緯などは、当時「うぶ」だった私にとっては、抱腹絶倒の「情報」の連続。

情報が私を熱くし続けた。
ともにお世話になった相談室の「木田マスコ」さんの話題になると、ともに思わず涙が込み上げた。

色々な話をしたが、最も印象深かったの会話はこんなものだった。

「僕は、吃音でね。子供の頃どもりと言われて、すごく辛い思いをしたんだ。両親も私も、それを直そうとあらゆることを試みた。藁にもすがるって、まさにそんな感じでね。そんな中で、宗教にも縋ったことがあって。でも、高僧かなんか知らないが、彼の言う通りしたところで、僕の吃音はまるで直らなかった。依頼、僕は基本的には人を信用しなくなったんだ。」
「それって、三島由紀夫の金閣寺の主人公を彷彿とさせますね。さぞや辛い思いをし、そして、内省的に、自分の世界を創り上げていく…」
「そうなんだ。で、越生くん。僕がなぜ音楽に、歌にのめり込んでいったか、わかる?」

「………………。」
私が答えられないでいると、岡本はこう言った。
「歌うときだけ、歌っているときだけはね。僕は、自分の歌詞を吃ることはないんだ。」
私は、彼の答えに、作詞家としての彼の原点、音楽家としての原点、そして、言葉を大切に扱うコピーライターとしての彼の原点を見た。

モチベーション再点火の火種になって恩返し

そして、近況の話になると、岡本は真剣な表情で私にこう言った。

「モチベーションをなくし、今の僕はただ生きているだけの後期高齢者になってしまった。ついては越生くん、君にお願いがある。僕の僕のモチベーション再点火の火種になってくれないか?具体的には、僕がこれまでつくってきた曲の、編曲をお願いしたい。そして、できれば一緒にバンドをやりたい」

私は嬉しかった。

が、こんな私である(笑)

「本当に私でいいんですか?」

岡本は、苦笑いしながらこう言った。

「いや、音楽を一緒にやったことがある複数の人に相談したら、彼らが君を推薦してくれたんだけどね。理由は、楽器が色々(ピアノ、ギター、ベースなど)できるし、腕も達者だから適任だと。でもその中にはこう言う人もいてね。『う〜ん、あの人は難しいですよ。何せ、性格が…。FB見てても、いつ噛み付かれるか戦々恐々。やめといた方がいいんじゃないですか』ってね」

「その通りです!」と私。

「でも、一方で、『彼には噛み付くだけのもっともな理由があって、誰彼なしに噛み付く狂犬病ではありませんよ』と言う人もいてね、僕もそう思うから君にこの件を依頼しようと思ったんだ。うちの奥さんも昔からの君のファンだしね」

26年前、みんな若かった!

4時間以上が経過し、私たち2人は充分呑んだ尼崎商店街での昼のみハシゴ酒を切り上げ、岡本のマンション下までタクシーを飛ばした。もちろん奥様がいらっしゃり、突然の訪問は野暮すぎる。私もそれは流石にしない。岡本のオリジナル代表曲20数曲が収録されたDVDを貸していただいて、早速それらの曲を聴き、依頼に応えるために、マンション下に立ち寄ったのだ。

私は、思い立ったが吉日、すぐに動くタイプだったが、加齢によって今はそれにますます拍車がかかっている。

マンション下で岡本からDVDを受け取ると、ここで私は岡本と別れ、そのままタクシーでJR尼崎駅へ。終電までまだ時間があり、いつもならさらに梯子酒を続ける私だが、この日は違った。
早く「DVD」を観たい!
一目散に自宅アトリエに戻って、一晩中「DVD」を何度も見続けた。

「素晴らしい曲ばかりではないか!」

そして、27年前の黒田真行がドラムを叩いている。
ああ、「おいた」絶頂期の、黒田だ。流石にかっこいい。

松井貴彦がベースでリズムを刻み、田中ピーと百鳥一大の素敵なギタープレイが絡み合う。

とにかく。みんな若い!

2026年、岡本武史が戻ってくるぞ!

私は、深夜にも関わらず、岡本にメールした。

「(曲のリボーンのための編曲)、喜んでやらせていただきます。まずは私と、岡本さんがお好きなチャゲアスみたいなデュオとしてスモールスタートしましょう。そして、私の編曲が進む間に、この1999年のバンド「クレーム4」のメンバーに呼びかけていただき、そのままでバンド復活なんて、最高じゃないでしょうか。この時にはピアノがなかったので、私がピアノマンとして参加すると、すごく面白いと思いますけど。」

(クレーム4のみんな!私をピアノに加えたクレーム5としての復活話に乗ってはくれませんかねえ。松井くんは君の上司を僕がボロクソ言ったので怒っているのだろうけど、まあ、岡本さんのために、ということで。)

とにかく、もともと素晴らしい原曲たちを、まずはよりキャッチーにするための編曲。そして、新ユニットのスタートだ。
デュオの名前は?
そうだなあ、やっぱり「岡本武史」の個人名で押していくのが第一候補だな。
僕のセンスでは、お笑いの「次長課長」のセンスで「上司部下」、あるいは「飼い犬に手を噛まれた岡本武史」「おかもとたけしと紙おむつ」あたりがしっくり来るんだけれど(笑)。

曲が素晴らしいので、「三の線」にはしたくない、だから却下。

まあ、ちょっと考えてみましょう、岡本さん。

でも、岡本さんのおかげで、2026年残りの7ヶ月あまり、ますます忙しく、また、一段と楽しくなりそうです!