
2026年になり1月19日にR85池辺正博が64歳という若さで死んだ。
池辺が死んだことで、彼を慕ってやまないR86西野愛に電話をし、池辺を見送ることができなかった関西の友人たちで「献杯の会」をしようと企画したのが今回の「笑顔絵と音楽展」だった。

今年に入って、池辺のことだけでなく、R80平尾勇司の闘病に嫌な予感がしたものだから、たまたま池辺逝去の翌日に会う約束をしていたので、池辺のお別れの会に東京には行けず、体がしんどい中おもてなしの準備をしてくださっている平尾宅に行ったら、彼が「俺も69歳で死ぬ」って言うもんだから、たまらず、平尾の一番弟子R86小岸弘和に相談しに行った。
さすがは小岸、彼のおかげで3月は広島で平尾を慕ってやまない仲間と共にかけがえのない時間を過ごすことができたのは、ひとえに小岸はじめ磯田ら弟子たちおかげだったが、そのことは第10話に書いた。
話は前後しまくるが、池辺の死について、池辺、近藤らと毎夜のように木村ライダーのバーで飲んでいたR89黒田真行に電話すると、彼もボコ泣きしていて。
「僕もちょっと調子が悪いんです」なんて言うもんだから「お前、死んだらあかんぞ」と車をぶっ飛ばして東京に会いに行って、R89シンタロー(高橋信太郎)も一緒に、黒田行きつけのスナックすずめで泣きながら歌い、4月8日にはそこに黒田ファンを集めて「黒田の癌細胞をぶち殺す会」をやり、私の「笑顔絵と音楽展」にも5月4日に来てもらって「しつこい癌細胞をぶち殺す会パート2」をやった。
え?でも、なんか、おかしくね?
おいおい、俺がやってること、20年早くね?
長生きは人生の目的ではないが、だからと言って、早く死ぬこともないわけで。
「かもめのDNA=短命」なんてとんでもない、みんなで払拭しなくては!
ノンフィクションを書き残したいと思った理由
私がこの物語を書こうと思ったのは、3ヶ月少し前の1月28日夜、兄貴でもあり上司でもあった平尾勇司の自宅マンションで彼から、4月上旬に透析をやめてこの世を去るつもりであることを聞かされたことがきっかけだったことは、平尾がその「予定」というか「段取り」通り4月8日に鬼籍に入った直後、第11話、第12話で明かした通りである。
奥さんと共に大泣きして、平尾と固くハグして、彼のマンションを出てそのあと、私はまだ開いている居酒屋を見つけ、やけ酒のような酒を煽り、気絶するまで飲んだ。
ひどい二日酔いに翌日夕方まで車の中で悶絶していたが、2リットルのペットボトルをがぶ飲みして、駐車場から車を出し、家路についた私は、車の中で、少なくとも1度は酒を酌み交わしたことを基準に、濃いご縁をいただいた人たちの顔を思い出しながら、彼ら一人ひとりとの思い出を探しながら過去を遡っていた。
毎日のように飲んでいた一部の人がいるので、思い出深い人は、数的にはざっと300人ほどだろうか。顔だけではなく、いつ頃何度お会いしたとか、その時交わし合った言葉とか、しっかりと思い起こせる、そんな人ばかりを数えてみた。
そして、この300人のうち、なんと3分の1近くの人がすでにこの世にいないことに、同時に気がついたのだ。
今年鬼籍に入った平尾勇司、池辺正博を含め、心ならずも早逝した彼らのことを残された私たちが末長く忘れないで、彼らと一緒に人生を歩める、その一助となれば。
それが、このノンフィクションを書いている理由である。
働き盛りの30代、40代でこの世を去った俊英
こんなことも思い出した。
平尾が神奈川営業部長として栄転した1989年の秋、私も、なんと大阪の制作課長をしながら東京の企画室、編集企画課を兼務せよとの、あり得ない辞令を受けたこと。結婚式場「玉姫殿」で合同送別会を開催いただき、ド派手に送り出され、半分大阪に片足を残して私は平尾を追うようにとりあえず東京に行ったこと。
私を出迎えてくれたその部署には、あまりに優秀な若き頭脳たちがズラリと顔を揃えていて、今でも、その時の彼らの顔は、はっきりと覚えている。
他にもメンバーはいたが、その時フロアの西側に並ぶデスクに座って忙しそうにしていたところにやってきた私に視線を向けてくれた面々は、香山哲、長薗安宏、秋山進、信國幹一郎、いしいしんじ、中條宰、亀谷誠、青島(大石)千賀子、柄澤博人……。
最近で言えば長編小説「チェロ湖」でいしいしんじがスポットライトを浴びたが、元リクの人たちには、今更彼らそれぞれが何を為したなど、語る必要もないだろう。みんなとてつもなく仕事ができ、実際に、誰もできないようなことをなし、リクルートに大きな足跡を残した。
そんな眩しく輝く若き才能、あまりの優秀さを目の当たりにして、私は圧倒されるしかなかった。
ただ。
信國幹一郎、亀谷誠、青島(大石)千賀子の3人は、まさに働き盛りの30代、40代でこの世を去った。名前をあげた9人の俊英のうち3人、3分の1が、考えらえない早逝で人生を終えた。彼らは、日本人の平均寿命の、半分も生きなかったのだ。
信國が44歳でこの世を去ってから、R89同期、親友の高橋信太郎は、今のリクルートの大黒柱となった事業「インディード」に「出戻り」で携わり、金字塔を打ち立てた。
そう思うと、早逝した3人は「これからどれだけのことができたか」、計り知れない。それだけに、悔しくて仕方がない。
私の友人知人だけでも早逝者が後をたたない
9年半のリクルート生活で私が濃いご縁をいただいた方々だけでも、すでに鬼籍に入られた方は、実にたくさんいる。
没した方で、日本人の平均寿命あたりまで生きた方は、位田尚隆2代目社長だけ。位田とは最期まで関一郎が親しく、一緒に大学で学ぶなど、彼の晩年を支え続けていたようだ。
しかし大沢武志元専務は77歳、江副浩正創業社長は76歳で。私と親しくしていただいた村上元九州支社長、山田滋神戸支社長、林清三元京都支社長といった方々は、皆70歳代で鬼籍に入っておられる。
ここからは、さらに驚くべき事実を書く。
神戸営業所時代の先輩では隣の人事教育部門のホープ横山先輩は20歳代で突然死、毎日のように飲みに連れて行ってくれた榊昌彦さんは、リクルート事件に大いに関わったファーストファイナンス時代にアラフォーの若さで自死した。
その隣の住宅情報部門の松村修さんともしょっちゅう飲んだが30年後に大学広報の仕事で再会、痛飲した数年後、還暦そこそこで没。私がよくシゴいた後輩の稲富重弘も昨年秋に63歳で亡くなった。
隣にはSJの営業部隊がいて、親友の山本勝己がいたが、あの屈強な体にして脳に病魔が取り憑き、アラ還にて没した。
神戸の次に赴任した大阪では私よりずっと若い大石が20歳代、滝山が30歳代、制作部門の先輩では大尊敬していた吉田由美子先輩が30歳代、アル中になって命を縮めたが優しかった武田均は50歳代で逝った。彼は平尾と同期で、同じく同期R80東谷尚典に聞いたところ「平尾は同期で5人目」とのことだ。
他にもお世話になった人たちが相次いで
リクルート時代、同じ部で親しく付き合った京都の木村嘉伸は独立して頑張っていた会社の社長在任中にもお世話になった仲、還暦を前に早々に没したことは今も信じられない。
採用開発部に配属された後京都に戻ってきた大久保浩浩もそうだ。
漢字検定事件でさんざん世の中を騒がせたが、漢字検定のテキストのデザインなどは私もお手伝いした仲だ。服役後、西宮のヨットハーバーで没した彼。あとで書くが、あまりにも光と影がくっきりと鮮明に分かれた人生だった。
彼の人生は江副さん同様、世間のステレオタイプの評価によって価値を失うものではなく、彼らの中身、業績は群を抜いていたし、リクルートという会社、立て直された漢字検定が、それぞれ世の中に貢献することと合わせて評価されるべきものであり、また、人間としての素晴らしい輝きもまた、私たちは知っているのだ。
9年半制作畑だった私、お世話になったと言えば、ブレーンさんだ。
最もお世話になったコピーライター上森秀樹はじめ、林海洋、森田洋一、南谷明美、最高のカメラマンだった原寛。みなさん古希すら迎えることなくアラ還、あるいはアラフィフで逝かれた。
印刷ブレーンでは神戸版の印刷をお願いしていた日本写植印刷の渡辺部長は50歳代、写植の辻本烝治社長はかろうじて80歳には到達されたが晩年はアルツハイマーが相当進んでいたという。
はっきり言って、これほどまでの短命は異常である。
上に列挙した、早くして没した人たち、病気と戦っている人たちは、私と深い縁をいただいた人ばかりであり、名前は知っている程度の人たちをここに加えれば、はるかに凄惨な現状が明らかになる。こんな調子では、まさに、リクルート最大最強最悪のDNAは、過酷極まるハードワークによる「短命のDNA」であると言われかねない。
もちろん、リクルートが、嫌がる若者の首根っこを捕まえて、拉致監禁して会社で働かせたのではもちろんないが、そこには明らかに「短命のDNA」が受け継がれていく仕組みがあったことを、今のところ否定できない。
人生は、波を打ち消し合う「音」に似ている
音は、波である。
それは、人生に似ている。私には、「音の打ち消し」が「人生そのもの」にも思えてならない。
音は、真逆の波同士の帳尻が合った、その時、「無音」になる。
人生もまた、心肺が動かなくなって終焉を迎えるのは、良き時代と逆の時代との波がちょうど消しあった、その時なのではないかと。
音も人生も、深ければ深いほど、それを打ち消そうとする波は高い。
その「無音」をテーマにした洋邦の名作映画でいえば、ゴッドファーザーと、砂の器。
日本人なら砂の器の方が腑におちやすいだろうが、主人公の天才音楽家・和賀英良(本名:本浦秀夫)は、癩病患者の父と旅する中で世間から受けるあまりの理不尽な差別に、それを埋めようとする上昇志向が芽生え燃え上がり、父と再会させようとする最も人間らしい幹元巡査を殺害するに至る。
ゴッドファーザーのマイケルコルレオーネは、ファミリーを守るために手段を選ばず多くの人を殺すが、結局は最愛の人たちを次々に殺されて帳尻が合い、まもなく自らも死んでいく。
私が知る70年代、80年代にリクルートに集まってきた人の多くは、もちろんおぼっちゃまお嬢様も多いが、少年少女時代に深く抉られた波を経験していた者も多い。常軌を逸した上昇志向を持つ人間がリクルートに多いことと、決して無関係ではないと私は観察していた。
その、常軌を逸した上昇志向は、並大抵のハードワークなどにへこたれるようなヤワなものではなく。
しかし、生身の人間ではある、彼ら彼女らの体を蝕んでいった。
結果、リクルートという会社で、一定以上のハードワークに塗れた人間に、短命という悲劇がもたらされることになった。
今の所、これは仮説かもしれない。
しかし、証明は急速に進んでいる。
調べて網羅したり列挙しているのではない。
皆さんの周りにも、思い当たることはないだろうか?
ハードワークの是々非々
早逝した彼ら、みな本人たちが、たとえば平尾が「俺の短命はリクルートのせいだ」などと言ったことはないし、彼はそんなことを思うような、あるいは自分の運命を誰かのせいにするような人間では絶対にない。
また、タウンワーク時代に平尾の弟子の一人となった?R86辻本秀幸と、今年に入って二度、一緒に飲む機会に恵まれたが、彼に「リクルートのDNA=短命説」をぶつけると、彼は見事に反論、私を論破してくれた。
ホットペッパーの鬼子母神であり、狭域ビジネスモデルの父ともなったR80の平尾勇司から、タウンワークはR86の辻本秀幸へとバトンタッチされ、タウンワークはリクナビNEXTをも抜き去るビッグビジネスへと成長を遂げたことを知らなければ元Rとしてはモグリのレベルだが(笑)、平尾勇司が確立した「狭域」をキーコンセプトとするリクルートの新しいビジネスモデルとしてタウンワークを開花させた辻本秀幸は、私のネガティブな発想を一蹴してくれた。
「越生さん、若者たちにハードワークはダメだと思わせるような書き方はやめてくださいね。僕は、人間は若い時にハードワークをしないとダメだと思っているんです」
「ましてや日本はどんどん沈んでいっています。その日本の若者が、ハードワークせずに、ただ長生きしたいなんて思い始めたら、未来はないです!」
辻本は私の目を見つめ、繰り返し、「ハードワーク全否定」をせぬよう、念押しした。
辻本は脳と心の関係を深く探究し、従業員の心身の健康と企業としてのあり得ないような進化を両立し、何より社会への貢献を最大化したいと考えている素晴らしい経営者だから、少なくとも彼の会社ヴァリューズは心配ないだろう。
また、私は辻本のことを、リクルート出身者で最も期待できる経営者だと思っているゆえ、第15話あたりにはしっかり書こうと思っている。
生きてさえいれば…
話を戻そう。
私は、ハードワークの必要性を説く彼に対して、こう言った。
「わかってるよ。ただ、もしこのリクルート短命のDNAが、俺の仮説にとどまらず、今後証明されてしまうとしたら、その前に問題提起しておくことは、俺の義務だと思っている。だって、俺は、死んで花実が咲くものか、と言う人生観だからね。」
簡単に乗り越えられるような仕事、なんちゃってレベルのハードワークごときが人を大きく成長させなんて私も思わない。しかし、日本人の平均寿命の、10年どころか20年も、30年も、40年も、ひどいやつは50年も。短命で死んでいく、そんな会社なんて、あっていいはずがない。ましてや若くしてこの世を去ったその理由が、不慮の事故、せめて病死というより、自殺者もかなりの数がいた過去のリクルートは、当時の従業員、関係者の短命を犠牲にして成長した側面は確かにあるだろう。私はそう考えている。
私自身もこれまでに三度死んでいてもおかしくなく、特に三度目は心筋梗塞で死線を彷徨ったのち生還したが、就職ジャーナル→ワークス研究所の頭脳・田口さんは、脳梗塞で車椅子生活になってもう20年近くになるだろうか、神戸のホテルのロビーで10年ほど前にお会いした時、思うように喋れない田口さんと、彼の車椅子を押す奥様の姿は忘れることができない。
創刊男の名を欲しいままにしたくらたまなぶさんも昨年、脳腫瘍に倒れられたてSNSから姿を消されたことは多くの元リクには衝撃的なバッドニュースだったろう。せっかく末期の膵臓ガンを消してのけ奇跡を起こしたカメラマンの中村昇治さんは、今度はヨット事故で下半身麻痺となってリハビリ中…。
しかし、生きていれば、なんとかなる。
リハビリや治療で健康を取り戻せば、なんとかなる。
そうした、病気と闘う仲間たちと心を通わせ、みな健康を取り戻して、鬼籍に入った仲間の分まで人生を謳歌していこう、みなさん、そうは思わないだろうか。
100歳越えが確実視されるレジェンド岡崎坦に続こう
5月3日、「笑顔絵と音楽展」の初日には、80歳半ばにして我々よりはるかにお元気な岡崎坦御大、70年代に第一次リクルート成長神話の主人公として活躍され岡崎坦御大とともに重役としての活躍も際立った蔵野孝行御大、そして新人時代から私が憧れ続けていた谷玲子御大、ともに3Kの大先輩・中垣内吉信御大、橋本久美子御大といった、80路目前の?まさに「レジェンド」の皆様にお越しいただいた。


私はこの3人のレジェンドを「早稲田71三羽ガラス」と名付けている。



まず、このレジェンドの皆様がこぞって100歳超えを果たされることが、リクルート短命説全否定の序章となることを期待したい。
そして、同じ日に来てくれたR86の面々は、私的にはリクルートの採用レベルが頂点に達した年と思っているのだが特にR86女性陣のパワーは凄まじく、西野愛、池田由利子、阿部早苗、本田忍の活躍ぶりとその活力、若々しさには圧倒されてタジタジとなった。

この5人が皆、還暦をとうに?過ぎているとは。一般人には到底そう見えないだろう。
彼女たちのバイタリティは、おそらく仕事のクオリティ、役割によって磨きあげられのだろう、世に言う「大阪のどえらく元気なオバはん」とはまるで異次元。ますます美しく、ますます健康でパワフルな現役世代なのだ。
普段はそれぞれが仕事や旅を楽しみ、集まれば互いに絶妙のリーダーシップを取り合って山にも登り、人生を謳歌しまくっているR86の女史たちである。
この面々なら、「現役」のまま軽く100を超えていく、間違いなくそうなるだろう、そんな気がした。

R86の男性では、トニーニョ(糖尿病)と腰痛持ちである宮崎秀敏の不健康さが、キラキラ輝くR86女性陣とはまるで光と影の関係、くっきりと明暗が分かれていた。彼女たちの輝きを頭で反射してはいたが。
彼の才能は日本を飛び出してミャンマーや中国でも生かされているわけで。まだまだ頑張ってほしい。今後は若い奥様ティリちゃんの生き血を毎夜吸いまくって、どんどん若返っていくことを期待しよう。

若い奥さんと言うことで、よもや腰痛が「夜の夫婦生活」によるものではないのだろうが、もしそうなら裏山の椎茸1トン分ぐらい羨ましい。
そんなことよりトニーニョ(糖尿病)に関しては、ティリちゃんのミャンマー健康食がその進行を食い止め、回復に向かわせることだろう。


そうだ。
第14話以降は、R86に象徴され、リクルートが誇る人財の、健康でパワーあふれる側面に光を当ててノンフィクションを続けて書くことで、「リクルートのDNA=短命」説を自らどんどん打ち消していくことにしよう。
それがいい!