たとえば京都発、ベイルート着。〜学生たちそれぞれの片道切符〜 第一話「京都大学1967」

俺は、見ての通り、犬である。

生年月日や命日は、人間のように正確に記録されてはいないが、

どうやら1967年の梅雨の頃には生まれていたようだ。

名前は「タケシ」。
生まれてからずいぶん後、5歳になってから名付けられた。

今から話す物語は、1967年6月に犬として生まれ、

犬としてはかなり長生きした俺が見聞きしてきたことだ。

舞台は、学生運動が燃え盛った時代の京都である。
だから、俺が接してきた人間、つまり登場人物は学生が圧倒的に多い。

本来ありもしない眉毛を、望みもしないのに描かれ笑われ続けた理不尽を味わってきた俺の視点から、たとえば若く未熟な頃に公安に目をつけられたが最後、2度と真っ当な人生に戻れなかった学生たちの「人生の片道切符」について話していく。

まあ犬は鼻がきくからね、無味無臭の人間より、人間臭い人を見つけるに苦労はしなかったさ。

生まれたばかりの俺が1967年6月29日に、この世で最初に見た人間の争いごと、
京都大学工学部キャンパスでの出来事からこの物語は始まる。

俺と奥平剛士との出会い

俺が生まれたのは、京都市の左京区。
京都大学キャンパス近くの、「吉田」の山中だ。

人間のように確かな生年月日が記録されるような恵まれた?犬は当時はごく稀であって。

先祖代々野良犬の血筋である俺などは自分の記憶にあることから類推するよりないのだが、

その記憶によると、俺は少なくとも1967年の6月29日以前には生まれていたようだ。

その、俺の最初の記憶なんだが。

たしか吉田神社の境内から西方面に向かっていて、梅雨の雨に打たれながら、ダラダラと続く坂道をよろよろ、重力に身を任せるように歩いていた。
とにかく腹が減っていて、何か食べるものを探していたんだ。
そして俺は、京都大学工学部のキャンパスに入った。

本来ならここは、とびきり頭のいい学生さんたちが学び、そして研究に没頭している場所であるはずだったらしい。
だけど、俺が見た彼らはこぞって、アホみたいな大声を出し、たった2つのことを繰り返し叫んでいた。

「大学は国家権力への軍事協力をするな!」

「大学院工学研究科への自衛官入学、断固反対!」

ただし俺が見たそんな景色は、この日京都大学で、大学当局への批判を強めた学生自治会の主導で「全学スト」が実行に移されていた日だから見られた、これまではなかった特別なものだったらしいが。

ストの目的は、京都大学大学院工学研究科に、どうやら学生たちが入学してはならないと考える「自衛官」という者が入学しようとしていて、それを拒絶することだった。
すわ 差別ではないか、と俺は思ったが、どうもそういうことではないらしい。

米陸軍極東研究開発局から大学や研究機関に合計 3億8000 万円にのぼる資金が援助されていることが国会で明るみに出てもいたこともあって、学生たちは、「大学が間違っても国家権力に軍事協力すべきではない」「再び戦争への道を歩むべからず」との主張を繰り広げていた。

要するに、自衛官の大学院入学はその「軍事協力」であるとして問題視したわけだ。

この全学ストをなんとかしなければ。

当時の京大総長であった奥田東は、学生たちが要求する団体交渉に応じた。

徹夜で行われたその団体交渉の場で奥田は、学生たちにこう約束したんだ。

「大学当局側は、自衛官が入ってこないという方向で意見をまとめるだろう。」

朝が来て、緊急の京大部局長会議が召集された。

その場で、奥田総長は学生に約束した方向での見解をこう述べた。

「自衛官の入学には諸種の難点があるので、各部局においては慎重に考慮する必要がある。」

大学当局において、総長の見解は絶大らしい。
こうして、「自衛官の大学院入学問題」については、ひとまず学生側の主張が通るという格好になった。

そんなこんなで、工学部キャンパスは騒々しい日が増え、
俺はおちおち昼寝もできなくなった。

そんな工学部キャンパスで、県立岡山朝日高校から京大工学部電子工学科に1964 年に現役合格して4回生になっていた奥平剛士を俺が初めて見かけたのは、1967年の夏のことだった。

教養課程で一度留年した彼は3回生まで教養課程にいて、4回生になって専門課程へと進んだところだった。

工学部キャンパスを歩く彼の姿は、とても学生には見えなかった。

ランニングシャツ一枚に、ねずみ色の作業ズボン。

ともに、胸や太ももなどその豊かな筋肉によって張り裂けそうな生地の張りと、腹部や足首など見事なくびれによる弛みとのコントラストが、もはや常人のそれではない。

この人はきっと、相当きつい仕事の肉体労働者か、何らかの格闘技のプロなのだろうと俺は思った。

細身ながら骨太で筋骨隆々、しかも無駄な肉は全て削ぎ落とされた、試合前の中量級プロボクサーのような、他の工学部学生とはまったく異質であまりに見事な肉体であったからだ。

彼は日本人にしては長い手足で歩幅も大きく、普通に歩いているにしては人並外れた速さで歩いていたが、まだ赤ん坊の域を出ない俺を見つけると、近づいてきた。

「おお、かわいいのう」

そう言って、ジーンズのポケットから捩じ込んでいたパンを引っ張り出して、俺に食べさせてくれた。

「ミルクも、いるかのう。ちょっと待っとれ」

そう言って、彼はどこかに走っていき、しばらくしてから戻ってきた。
両手にはアルミ製の皿と中身の入った牛乳瓶を持っていた。
彼は私のそばに座ると、皿に牛乳を注ぎ入れた。

「ほれ、飲め飲め。」

俺が無我夢中でミルクを飲み、パンを貪り食っている姿を彼はしばらく見ていたようだが、俺がすべてを食べ飲み尽くしてふと我に帰った時、そこに彼の姿はもうなかった。

これが、俺が奥平剛志という人間を知ったきっかけであった。

犬にとっては、彼こそは「主人」。
奥平剛士という人間が、死ぬまでついていくべき存在となったわけである。

奥平の「師」は被差別部落にいた

奥平剛士は京大に入学後、当時まだ盛んであった学生運動には見向きもせず、セツルメント活動というものに取り組む「底辺問題研究会」というサークルに入った。

セツルメント活動とは、宗教家や学生などが、都市の比較的貧しい地域に宿泊所、授産所、保育所、学習塾などを設けて、地域住民の生活や文化の向上のために援助をする社会活動のことだが、彼はその活動先であった「東九条」に通うようになる。

東九条は、JR京都駅南口から南方方面、すぐ目の前にある地域である。

そこは在日朝鮮人を住民の大半とするスラムであり、被差別部落出身者も多く暮らす。

その東九条のスラムは、奥平が通い始める頃には終戦からちょうど20年を経過。廃材やトタン板などを張りあわせた急拵えの小さなバラックが、狭い路地を挟んで犇めきあっていた。

高瀬川が鴨川と合流するあたりは、川が増水すれば小屋の足場もたちまち流されるような貧弱なバラックが並び、生活排水はそのまま垂れ流されていて、川は濁り、独特の悪臭を放っていた。

奥平は入学の直後、正確にはゴールデンウイーク明けの5月8日から、日記を書き始めていた。

その日記には、5月から底辺問題研究会というサークルに入り、京大、立命館大、ノートルダム女子大、華頂短期大、日赤看護学校の学生たちでつくる「兄弟会」のメンバーの一員として、東九条というスラム街に通い、学校の勉強についていけない子どもたちや休みがちな子どもに勉強を教え、ハイキングにつれて行ったり、相撲や鬼ごっこをしたり、祭りを催すなどしてセツルメント活動に明け暮れていたことが詳細に記されている。

基礎学力の欠乏ゆえに机のまえでじっとしていられない子どもたちが多く、彼の姿を見つけると、待ちかねていた子どもたちにたちまち取り囲まれて、「すぐ遊んでくれ」とせがまれた。

そんな子どもたちに手を焼くこともあったが、彼はいつでも受け容れて、遊んでやっていたようだ。
そう、飢え死にしかけていた生まれたばかりの俺にパンとミルクを与えてくれた、とても優しい青年なのだ、彼は。

そんなセツルメント活動に勤しむある日、奥平はある男と運命的な出会いをする。
「東九条青年会」という部落青年の集まりをつくり、生活のあれこれに困っている人たちから相談をうけて解決にあたる「よろず屋会」のリーダーで、自身も被差別部落出身である男だった。

「土方仕事」で鍛え上げた屈強な肉体の持ち主で、その気性は、「荒い」とか「激しい」とか、とても言葉で表せるようなものではなかったが、とても情け深くもあった。仕事にたいしては手を抜くことは一切なく、勤勉で、弁も立ったが、とにかく喧嘩っぱやかった。

東九条に密集するバラックの町はしばしば火事で焼けたが、そのたびに京都市当局ときびしく対峙し、日本共産党の青年組織日本民主青年同盟が主導するセツルメント活動に対しても、子どもらの宿題をみてやる程度の自己満足で東九条のなにがわかるものか、と学生の奥平たちに容赦なく批判をあびせた。

「学生」という期間限定の善意ごときは、彼の前に容赦なく徹底的に打ち砕かれた。

学生の奥平がガムシャラに働いた目的はなんだったか?

しかし奥平は、なぜか怯まなかった。
土木作業員として生計を立てているその人物に近づき、彼の下で肉体労働に励むようになる。

新入生の5月に東九条に通い始めてから4ヶ月後、季節は秋に向かっていた。

彼の指導のもと「土方仕事」をするようになった奥平は、きつい仕事が終われば議論があり、そして鉄拳を浴びる。ホルモンをアテに酒の洗礼も毎日のこととなる。

日々全身にそれらを浴びながら奥平は成長し、やがては土木の現場でも、殴り合いでも、「師」と仰ぐようになっていた彼と真っ向渡り合うようになっていった。


やがて「師」が重度のヘルニアを患って働けなくなってからは、奥平は解体業を営む老夫婦の工務店で働くようになった。

そこでの仕事は、一棟につきいくらで解体するという、いわゆる請負仕事だったから、これはもうアルバイトの域を飛び越えて「奥平組」の棟梁の仕事であった。

奥平は見積りから図面引き、工程管理、現場監督まで一手に引き受け、老夫婦に感謝された。

奥平はこうして、京都の被差別部落のど真ん中に飛び込み、「師」を見つけ、一人の「人間」として彼と向き合う日々を通じて、学問や知識や理論では決して辿り着くことができない最下層の庶民の生活の、その根幹部分にまで触れていった。

大学入学時に学生運動を否定していた19歳の奥平剛士は、彼の中にある原理的思考を、スラムに通い土方に汗を流す形で独自に行動に移したのだろうか。

そこでそれまでに出会ったことのない、得体の知れない怪物のような人間に出会ってしまった。
それをきっかけとして、彼の懐に敢えて飛び込んで、日々「自分の限界」を超え続けようとし始めたのではないだろうか。

つまり奥平は、京都の被差別部落のど真ん中に飛び込み、「師」を見つけ、一人の「人間」として彼と向き合う日々を通じて、学問や知識や理論では決して辿り着くことができない最下層の庶民の生活の、その根幹部分にまで触れていくようになった。それまでに出会ったことのない、得体の知れない怪物のような彼の懐に敢えて飛び込んで、日々「自分の限界」を超え続けようとしていたのではないだろうか。

きっかけはそうであっても。
彼は学生アルバイトの域を完全に超える金を稼ぎ続けた。
俺の疑問は、どんどん貯まるその金を、彼は何に使おうとしていたのだろうかということだ。

結果的には、自分の死と引き換えに実行した「国際ボランティア」、

それは彼の「最終行動」となったわけだが、ではいつから、スラムでの肉体労働の目的が来るべき「最終行動」の資金稼ぎに、いつから、なぜ、変わったのだろうか。

それは犬の俺にはわからない。

高山文彦が探し当てた奥平剛志の原点とは

ノンフィクション作家・髙山文彦は、奥平がのちに「師」と仰いだその男のこと、そして死ぬ直前までその男と深く結ばれた奥平のことをよく知る人物を、探し当てている。

「重労働しばしば暴力、のち酒とホルモンと涙」

そんな日々の様子と、そんな日々を2人と共にし、奥平を「アニキ」と慕うその人物の証言を、高山の著作「リッダ!」から引かせていただく。


「はげしい人やったんです、あの人(奥平が師と仰いだ人物)は。喧嘩っぱやいし、弁もたつ。度胸もピカイチや。差別をうけて育ってきたから、悔しい人でもあったんやけどな。中学生らが道端でシンナー吸っとるやろ。そういう子らがごろごろ東九条にはいてたんやね。それ見つけると、おまえらそんなもんやめえ言うて、シバくんや。もう二度としませんと泣いて謝るまで帰さへんねん。東九条の解放運動のリーダーが、あの人やったんですわ」

「自分も学校は小学5年までしか行ってないねん。家の近くの段ボール箱をつくる工場に丁稚奉公に出たんですわ、1時間11円でな。それから10代後半にセツルメントの連中からマルクス・レーニン主義を学ぶようになるんやけど、その中に奥平のアニキがいてたんです。講師をしたこともあったね。そりゃ、すごい人やったでえ、あのアニキも……」

「忘れるなんてできへん。相当シバかれましたよ、あのアニキ(奥平)も、あの人にな。いちばん最初は、ぶん殴られて高瀬川に投げ込まれてんねん。それでもアニキは、あんな細い体してるのに、殴りかかっていくねん。自分が勝つまであきらめへんのです。一緒に土方やって、一緒にホルモン食うて、酒飲んで、しこたま議論を吹っかけられて、それでまたシバかれるやろ。悔し涙と血で顔をクシャクシャにして、もう来ないんやないかと思ってたら、つぎの日も朝いちばんにだれよりも早く現場に出て、ツルハシを振るってる。そういう人やった、あのアニキは。それであの人にすっかり頼られるようになって、ぼくもアニキについて行ったんです。土方の場面でも、ものすごい仕事のやりかたすんねん」

「ぼくは、ずっとこう思ってる。奥平のアニキは、京都パルチザンとか赤軍とか、そういうところからアラブに出て行ったんやない。あのアニキは、われわれの東九条から出て行ったんや。世界でいちばん虐げられてるのがパレスチナの人たちや。アニキはその世界最底辺の人たちとの連帯を目指して、東九条という最底辺のスラムから出て行って、闘って死んだんです。あの事件のことは、ぼくは車のラジオで聴いた。その日の晩にあの人から電話が来て、アニキの名前がぽんと出た。ええっ、と、ほんまにぼくはショックやった。ほんまにあのアニキ、命をかけたんやなと……。ただのテロリストで片付けてほしくない。アニキのことは歴史的にきちんと評価してほしいと思うねん」

証言に出てくる「あの事件」は、「テルアビブ空港乱射」という事件名でよく知られている。

そう、アニキとは奥平剛士。

1972年にイスラエルのテルアビブ近郊都市ロッド(リッダ)に所在する現ベン・グリオン国際空港(前リッダ国際空港)で、安田安之、岡本公三とともに乱射事件を起こした、その人物である。

この物語は、俺が生まれてすぐに奥平剛士を見てから、その後彼がリッダで壮絶な死を遂げるまで、俺の主人である彼をまさに主人公として展開する、当時の学生たちが帰ってくる切符を求めずに突っ走った「片道切符」の物語である。

せめて犬の使命として

これから俺は、主人である奥平剛士を追いかけていく。

国際テロと言えば、2001年9月11日の、直接アメリカをねらった「同時多発テロ」で頂点に達した感があるが。

俺の主人、奥平の行動は、その源流となった、大きな一歩だった。

彼らの姿を、鏡の表と裏を返して見ればたちまちわかるだろう。

彼らが、正史で語られる、粗野で思慮分別に欠ける無頼漢などではなく、パレスチナ・アラブの人びとにとっては数千キロかなたのはるか東洋からあらわれた奇特な存在であり、当時だれもがたやすくは踏み込めなかった虐げられた人びとの大地に、日本人としてはじめて奥の奥まで踏み込んできてくれた、まさに「義民」であったことが!

キューバ革命政権樹立後、アルジェで痛烈なソ連批判をしたあと、忽然とキューバを去り、はるかコンゴへと渡ったあのチェ・ゲバラがそうであったように。

もとより歴史というものは、名もなき人びとの汗と涙によって綴られるものではない。

その「正史」とやらからすれば唾を吐きかけられ踏みつぶされるべき不純物か雑菌のたぐいであろう、俺の主人、奥平の行動から半世紀以上が過ぎたいま、なぜ彼らがそのようにあらざるを得なかったのか、心を落ち着けて現実を正視してみるとき、犬である俺でさえそうであるように、あなたがた人間も、人間社会の、世界の、「正史」などというものを鵜呑みにして生きることの無意味を思い知ることであろう。

(第二話「差別の都」につづく)