たとえば京都発、ベイルート着。〜学生たちそれぞれの片道切符〜 第三話「60年安保」

60年安保の英雄、唐牛健太郎

60年安保は、俺が生まれる7年も前、犬にしてみれば下手すれば一生分も前のことだ。

主人、奥平剛士にとっては中学生の頃に起こったことだし、彼がその後70年安保闘争に熱心だったかと言えばそうではないが、彼が入学し、そして死ぬまで在籍した京大にはその影響が色濃いので、少し触れておきたい。

60年安保闘争とは、戦争の記憶がまだ生々しかった時代、学生をはじめとする若者に大人も加わって、国会を取り囲むまでに至った国民運動である。

この安保闘争に参加したのは、日本社会党、日本共産党などの左翼政党、日本労働組合総評議会(総評)などの労働者、日本共産党から分裂した急進派学生らが結成した共産主義者同盟(ブント)と、ブントが主導する全日本学生自治会総連合(全学連)の学生などだった。

1937年に函館 湯の川温泉の芸者を母とし,いわゆる庶子としての生い立ちを背負う唐牛健太郎がそのリーダーだった。彼は、北海道大学在学中の1959年、ブント(共産主義者同盟)書記長 島成郎(1931~2000)の説得に応じて全学連委員長に就任した。
島は、人を惹きつけてやまない力、人懐こい魅力とカリスマ性を併せ持つ唐牛健太郎の類稀なる資質に目をつけたのだった。

60年安保闘争真っ只中に全学連委員長を務めた唐牛だが、最大の激闘となった1960年6月15日の国会前衝突事件時には巣鴨拘置所に拘留中であり、その事件の現場にはいることができていない。

そんな彼の名を一躍「現代の英雄」とまで高めたのは、その40日前の4月26日、国会突入デモを先頭に立って率いたその姿であろう。

岸信介内閣は、講和条約と同時に締結された日米安全保障条約について、対等性や双務性の強化を掲げてその改定を図った。

しかし、日米の共同防衛や核搭載船の寄港をめぐる懸念から大規模な反対運動が巻き起こった、その先頭にいたのが唐牛健太郎である。

安保闘争が最盛期を迎えていた60年4月25日。

ブント書記長の島も、全学連幹部たちも、いよいよ焦っていた。

「このまま推移すれば,安保条約は自然承認される。

国民を味方につける行動に打って出なければならない。」

全学連幹部たちと新宿で酒を酌み交わしていた唐牛は、思い詰めて黙り込んでいたが、

その場の重い雰囲気を切り裂くように、突然こう言い放った。

「もう決死隊しかない。

俺がトップバッターになって装甲車を乗り越えて飛び込むから、その後、俺に続いて飛び込んでくれ」

翌日の4月26日,国会前に行くと(唐牛の想定通り)この日も警察の装甲車とトラックがぎっしりと埋め尽くしていた。

どう考えてみても,何度見直してみても、この分厚い壁を突破できるはずがなかった。

誰もがそう思った瞬間、唐牛は一世一代のアジ演説をぶちあげた。

「諸君!自民党の背後には一握りの資本家がいるに過ぎない。

しかし,我々の背後には安保改定に反対する数百万の学生、労働者がいる。

装甲車の後ろには警官隊たちによって辛うじて埋められた真空があるだけである。

恐れることは何もない。装甲車を乗り越えて国会に突入しよう!」

この直後、学生たちが続々と装甲車を乗り越え、警官隊に向って“ダイビング”を始める。

あまりの意表をつく行動に,さすがの警官隊員たちも算を乱して逃げ出した。

唐牛は逮捕されて巣鴨拘置所に勾留され、2日後に北大を除籍となった。

5月に自民党が強行採決に踏み切ると、内閣退陣を求める数十万人規模の抗議デモが国会を取り巻く事態に発展する。

しかし。

6月19日安保条約の自然承認を阻止せんとして勃発した6月15日の国会前衝突事件時には、唐牛は巣鴨拘置所に拘留中であって、事件の現場にいることは叶わなかった。

そして安保条約が自然承認されると,全学連活動も急速に衰退。

翌年7月唐牛は委員長を辞任する。

唐牛が拘留中に発生した6・15国会デモは,デモ隊,警官を合わせて重軽傷者が1000人以上となる大惨事となった。この時に亡くなったのが、東大生 樺美智子(1937~1960)である。

唐牛と同じ年に生まれた樺は,唐牛を高く評価し、父親によく話していたという。

「美智子がつね日ごろ,唐牛君のことをすぐれた指導者だと私たちに話していました」

当時,唐牛が樺のことを認識していたかどうかは不明である。

しかし宇都宮刑務所を出所後、樺の無念を一人背負うかのように。

唐牛は彼女の墓参りに行っていたという。

唐牛47年の人生は何だったか

闘争は敗北するも当時の人々は全学連委員長・唐牛健太郎をして「現代の英雄」と呼んだ。

にわかに時代の英雄となった唐牛だが、出る杭は打たれるのが世の常だ。
その3年後、醜聞が容赦無く彼に襲いかかる。

1963年。

TBSラジオが「ゆがんだ青春 ― 全学連闘士のその後」と題するドキュメンタリーを放送したのだ。

「安保闘争の闘士たちが,『右翼の親玉』でCIAともつながりを持つといわれる田中清玄から400万~500万もの闘争資金をもらい,今も田中の庇護のもとにある―」

「左翼の最先鋭部隊だと思っていた全学連が,こともあろうに転向右翼からカネをもらっていた」

放送された内容は、左翼活動家に親近感をもっていた人びとの見方を180度変えさせるインパクトを持っていた。

事実、唐牛は,安保闘争に係る裁判中,田中清玄(1906~1993年)の経営する会社に入社していた。

当の田中はこう記している。

「自分は全学連委員長唐牛君に関する記事を読んで想わず目を瞠った。

唐牛君も自分と同じ函館で成長して居るではないか。

母一人子一人と云う唐牛君の家庭も亦全く自分と同じ家庭条件だ」

郷土と生い立ちを共有する田中と唐牛の親交は深く,唐牛と田中清玄の親密な関係は家族ぐるみの付き合いとも言えた。実際、唐牛は田中の子供たちをスキー旅行に連れていくこともあったという。

唐牛は田中の会社を退社した後、昭和40年(1965年)堀江謙一とヨットスクールを創設したり,昭和43年(1968年)新橋に小料理屋を開いたりする。

その間、学生運動は安保とは全く別の争点で慶応で火がつき、早大史に残る「150日間闘争」を経て,今度は東大闘争が始まっていた。

1969年1月、駒場キャンパスの8号館に立てこもる学生たちを見た唐牛はヘリコプターによる食料の空輸を思いついたそうだが、彼はすでに学生ではなく、もちろん空輸実施には至らなかった。

東大闘争は、同月18日から19日にかけて機動隊による安田講堂封鎖解除をもって終結する。

唐牛は翌年から北海道で漁師見習いに転じた。

翌1971年には本格的な漁師となるため、「トド撃ち」で縁のできた紋別に居を定める。
そこで約10年間もの長きに渡って「漁師」として生きた唐牛は、その後47歳の若さで没した。

唐牛健太郎を支援した田中清玄の次男・愛治はのちに政治学者となり,平成30年(2018年)戦後第12代早大総長に就任するが、昭和26年(1951年)生まれの彼は60年安保闘争の時は小学生、東大安田講堂陥落時は18歳であった。

彼は、かつてスキーを教わり兄のように慕った唐牛が、これらの闘争の中心にいて再三逮捕されて豚箱に入る姿、シャバに戻ってからその後も終生公安にマークされ続けて送った短い人生を、どのように見守っていたのであろうか。

60年安保闘争とは何だったか

「安保闘争」とは、世界が冷戦の真っ最中だった1959年から1960年、そして1970年の2度にわたって日本で起こった、「日米安全保障条約」をめぐる大規模なデモ運動で、それぞれが「60年安保」「70年安保」と呼ばれる。


繰り返しになるが、最初の「60年安保」は、奥平が多感な中学生時代のこと。

5つほど年の離れたお兄さんお姉さんなどが大学生として参加した闘争であった。彼らの国家権力への反抗の顛末は、奥平が大学入学時に学生運動を否定していたことに、少なからぬ影響を与えた。

「安保闘争」の背景にあったのは、もちろん「日米安全保障条約」の存在である。

1951年9月8日、敗戦国日本はアメリカのサンフランシスコにて、「第二次世界大戦」で連合国側として参戦した49ヶ国と「サンフランシスコ平和条約」を締結。

この「サンフランシスコ平和条約」の第6条(a)項には、「連合国のすべての日本占領軍は本条約効力発生後90日以内に日本から撤退」とあった。

本来であれば、これにて日本に駐留していた占領軍は撤退するはずだったのだが、この規定には「日本を一方の当事者とする別途二国間協定または多国間協定により駐留・駐屯することを妨げるものではない」という条項が定められていたゆえ、これを根拠に「サンフランシスコ平和条約」と同時に「日米安全保障条約」が締結された。

これによって。

アメリカ軍は引き続き日本に駐留することが可能になったのである。

当時の日本の防衛体制は、非常に脆弱なものであった。

終戦にともない旧日本軍は解体されていて、1950年8月に警察予備隊を創設したものの、その定員数はわずか7万5000人にすぎなかった。

そんな中で、身近では「朝鮮戦争」があり、世界全体でも冷戦が激化していく。

日本政府は、「日米安全保障条約」を締結することで、戦争で破壊された国土を再建し防衛力を整えるまでの時間を稼ぐことができ、またアメリカが防衛費を負担すればその分を経済復興にまわすことができるとでも考えたのだろう。

一方アメリカにとっては、「朝鮮戦争」を戦う際の後方基地・補給拠点の確保として日本を活用できるうえ、日本が東側陣営に回って再び敵となることを防ぐことができるというメリットがあった。

1950年代中頃になると、日本経済は朝鮮特需や神武景気によって持ち直し、高度経済成長期へと移行していく。政治も、自由民主党と日本社会党という「55年体制」が構築され、安定していった。

しかし1957年に、アメリカ兵士のウィリアム・S・ジラードが日本人主婦を射殺する「ジラード事件」が発生。日本とアメリカの双方が裁判権を主張したことから、「日米安全保障条約」の不平等性が問題視されるようになる。

さらに同年、内閣総理大臣に就任した自由民主党の岸信介が「日米安全保障条約」の改定に乗り出すと、その内容に安保廃棄を掲げる日本社会党が猛然と抵抗する。

多くの市民にも、「改定によって日本が再び戦争に巻き込まれるのではないか」という漠然とした危機感が、日々リアルに募っていった。

こうして「60年安保闘争」は起こることになる。

新たな「日米安全保障条約」は、改定交渉のすえ、1960年1月19日にワシントンで締結された。

日本政府はアメリカのアイゼンハワー大統領の訪日予定日までに批准したいとし、衆議院の仕組みによって自然承認が成立するギリギリのタイミグとなる5月19日の会期延長強行採決に続いて翌20日、衆議院本会議で条約承認の採決を行った。

この採決に対し、反対する日本社会党の議員らは議長を監禁して抵抗した。

彼らは警察によって排除されるのだが、多数の議員が壇上に押し掛ける中マイクを握って強行採決をした議長の姿などがマスコミによって報道されると、大衆の心に火がつき、「安保闘争」はいよいよ激化していくことになったのだった。

では、闘争参加者は、具体的に何に反対したのか?

新しい「日米安全保障条約」では、日米共同防衛の明文化、内乱条項の削除、在日米軍の配置・装備に対する両国政府による事前協議制度の設置、条約の期限を10年とすることなどが定められていた。

「日米安全保障条約」に反対する人たちは、共同防衛によって、日本がアメリカの戦争に巻き込まれる可能性が高まるのではないかと疑念を抱くとともに、裁判管轄権が日本にないことを問題視したのだった。

日本社会党や日本共産党は構成員を動員して「反安保」のキャンペーンをおこない、総評は国鉄労働者を動員して「時限スト」を実施。全学連は「国会突入戦術」をとった。

4月26日の国会突入デモを先頭に立って率いた唐牛健太郎はその象徴である。

ちなみに、日本とアメリカを離したいソ連の対日工作によって、社会党、共産党、総評などの勢力には大きな援助があったとされる。

1960年5月20日に衆議院でおこなわれた強行採決は「民主主義の破壊である」と喧伝され、「安保闘争」は一般市民にも拡大していく。国会周辺は連日デモ隊が取り囲み、その動きは徐々に「反政府・反米闘争」へと変容していった。

これに対し岸信介首相は、右翼団体と、あろうことか暴力団関係者も用いて対抗したのである。

さらに6月10日には、来日したジェイムズ・ハガティ大統領報道官が、羽田空港周辺に押し寄せたデモ隊に包囲され、海兵隊のヘリコプターで救出される事件が発生。6月15日には国会内に突入したデモ隊と機動隊が衝突し、東京大学の学生・樺美智子の命が失われたほか、この日だけで負傷者は約400人、逮捕者約200人、警察側の負傷者約300人が発生するに至った。

結局「日米安全保障条約」は、参議院の議決がないまま6月19日に成立。岸信介首相は混乱を収拾しようと6月23日に総辞職し、池田勇人内閣が成立すると「60年安保」は急速に鎮静化していった。

60年安保以降の京大と奥平の入学

池田勇人内閣は、「所得倍増」のかけ声で経済政策を展開した。想定を上回るペースの経済成長が生まれ、耐久消費財の普及率が急上昇したほか、レジャーブームといった言葉が定着し、国民の多数が「中流」を自覚するようになった。

人手不足が省力化技術への設備投資を後押しし、経済成長が加速した反面、鉱業所での労使紛争や農山村からの労働力流出など、大きなひずみがみられた。

中学、高校時代の奥平は、こうした状況を故郷岡山から冷ややかに見ていたことだろう。

国外情勢への懸念もあるなか、日本は1964年に東京で五輪を開催した。

同年に開通した新幹線の勢いに乗るかのように、日本は経済大国への道を走りはじめる。

経済の活気は、京大新聞にも反映された。リクルート創業者・江副浩正が東大生時代に立ち上げた広告会社から得た多数の求人広告が、京大新聞の紙面にも所狭しと並ぶようになっていた。

一方、学生運動は、安保闘争以降、停滞期に入っていた。

1963年1月、アメリカが原子力潜水艦の寄港を日本に申し入れ、翌年8月には政府が原則同意した。

戦争協力を危惧する抗議運動が広がり、学生運動もにわかに勢いを持ったが、夏休みに入ると、京都府学連などが、安保闘争の挫折により分裂していた全学連の再建を画策したが失敗。9月には、京都府学連の一翼となっていた共産党系学生組織が分裂した。

さらに市電・市バスの値上げ審議中だった京都市議会場に府学連の学生約30名が乱入し、全員告訴されるという事件が起きたが、その程度であった。

1965年、ベトナム戦争による特需に支えられて、長らく戦後最長の好況とされた「イザナギ景気」が到来した。

カラーテレビ、クーラー、乗用車の「新・三種の神器」が急速に普及率を上げ始めた一方、四大公害訴訟が提起されるなど、経済成長の反面で公害対策や自然保護のあり方が問われた。

そんな時代を横目に、奥平剛士は京都大学を受験し、そして合格した。

大洋漁業のエリート社員である京大農学部出身の父と専業主婦の母とのあいだに山口県下関市で生まれ、県立下関西高校を経て父親の転勤で岡山市に移り住み、県立岡山朝日高校に転入。

岡山県内トップの進学校であった岡山朝日での成績はつねに五番以内にはいっており、担任からは東大へ行けとすすめられたが、「大学でまた勉強の虫みたいになるのはつまらんから、少しのんびりすることも考えろ」という父親の助言で京大にしたのだという。

そんな奥平剛士が京大工学部電子工学科に現役合格したのは、東京オリンピックが開催された一九六四年のことであった。

(第四話「ゲバラと奥平」につづく)