
輪島市中心部から海岸沿いを東に10キロ、日本海を望む斜面に1004枚の棚田が連なる国の名勝、白米千枚田(しろよねせんまいだ)がある。
出口弥祐(やすけ)さん(77)は、この千枚田の維持管理を行う地元有志団体「白米千枚田愛耕会」の発足時からのメンバー。彼らの地道な活動は18年を迎えようとしていた。料理が得意だった奥さん(当時74)は作業を終えた人たちにおにぎりやみそ汁を振る舞う優しい人だった。
2023年の大晦日、出口さんは自宅で奥さんと横浜市から帰省した長男(同49)と三人でお寿司を食べた。明日は京都から次男が帰省する、三人はそれを楽しみにして年を越した。
「お寿司は食べ切ってしまったから、また買ってきて」
「分かったよ」
2024年元日、出口さんは奥さんから頼まれごとをしたあと、一人で車に乗って次男を迎えに輪島市中心部のバス停へ向かった。
その帰り道だった。
それはどんでもない揺れだった。
出口さんは次男を乗せた車で、妻と長男の待つ自宅へ急いだ。

引き裂かれた家族
しかし土砂で寸断され、亀裂の入った道路。しばらくなんとか迂回、迂回を繰り返したが通行不可能となり、車を捨てて山道を歩いてようやくたどり着いた自宅は、崩れた裏山にのみ込まれて跡形もなかった。
“返事をしてくれ”。
緊急時のために奥さんが車に備えていた笛を、出口さんは祈るような思いで何度も吹き鳴らしたが、反応は無かった。
消防の救援活動が始まったのは数日後。出口さんは、車中泊しながら毎日現場に通った。しかし二人は見つからず、出口さんはやむなく金沢市へ避難する。
1月中旬になって、警察から「二人と思われる遺体が発見された」と連絡があった。
次男と二人で輪島市内の安置所に急いだ。
「遺体の損傷が激しく、見ても分からないかもしれない」と説明された。
二人は顔を見ることができず、線香を手向けた。
後日、DNA鑑定で正子さんと博文さんだと判明した。
棚田の甚大な被害

400年も前から先人が耕してきた棚田、何より出口さんにとっては妻と力を合わせて大切にしてきた棚田にも、無数の亀裂が走った。ひび割れが田やあぜを切り裂き、茶色い土がむき出しに。歩道はいたる所で陥没して段差がひどい。
平地の少ない奥能登で、少しの土地も無駄にしないよう、先人の執念で切り開かれた棚田は、出口さんたちにとって何にも代え難いものだが、およそ8割の田んぼに大きな被害を受けた。
出口さんは、稲作にいそしむ祖父と父の姿を見て育った。「くわ一丁で耕していた頃から、(祖父と父の)手伝いをしていた出口さんは、公務員を定年退職すると、棚田を保全する有志でつくる「白米千枚田愛耕会」に入った。一つ一つの田の面積が小さく、昔ながらの手作業での稲作は、非効率ながら、先祖代々伝えられてきた技術が生かされている。
白米千枚田は、2011年に「能登の里山里海」として世界農業遺産に登録されている。伝統的な農業技術と自然環境が共存していることを評価されたもので、千枚田は江戸時代から受け継がれてきた我が国の棚田文化の象徴。

稲が元気に育つ景色は日々刻々と変化する。

晴れた日の夕暮れ時には日本海に沈む夕日に棚田の水面が美しく輝いて幻想的な光景が広がり、息をのむような絶景とも称されてきた。

毎年10月中旬から3月中旬にかけては「あぜのきらめき」というイルミネーションイベントが開催され、ライトアップされた幻想的な夜の棚田を楽しむこともできた。


地震発生前の2023年は年間約45万人が訪れる能登を象徴する観光スポットとしても存在し続けてきた。出口さんも奥さんも「白米千枚田愛耕会」のメンバーも、みんな誇りを持って、この白米棚田を維持してきた。
豪雨の追い打ち
そんな棚田を大地震が襲い、そして被害から懸命な復旧に取り組んでいる最中、9月21日から23日にかけて、台風14号から温帯低気圧と秋雨前線による線状降水帯など複数の要因が重なって大規模豪雨が発生した。
泣きっ面に蜂どころではない、あまりに無慈悲な天の追い打ちだった。
この大雨によって、白米千枚田の斜面では土砂崩れが発生。畦道は流され、地震で弱った地盤が豪雨によってさらに浸食されて水が抜けてしまう田んぼも多かった。
地震から1年半、豪雨から9ヶ月。

二重の被害を受け、出口さんは心が折れそうになりつつも亡くなった妻子との日々を思い出すとやはり田んぼに足が向く。地元の仲間と共に日々懸命に復旧に向けて動き、今年は、下の写真のように昨年より少し広い範囲、全体の4分の一にあたる250枚ほどの田んぼに田植えを済ませた。残り4分の3、写真中央の大半の田んぼの復旧の道はまだ遠い。



斜面、そして一つ一つの田んぼは狭く、農機具などは入れない。
これまでに復旧された250枚の田んぼに、出口さんたちは苗を一つひとつ、手で植えた。
地震と豪雨で2度孤立した道の駅、再開の道は遠く


出口さんは、棚田に隣接する道の駅「千枚田ポケットパーク」の運営会社の社長でもある。
「白米の千枚田」の道の駅も、地震と豪雨で大きな被害を受けた。周辺住民の避難所として機能するも2度にわたって孤立状態となった報道を覚えていらっしゃる方もいるだろう。
震災後ずっと営業休止を余儀なくされていたが、およそ1年4か月ぶりに仮の水道をひき、大型連休にあわせて4月26日、一時的に営業を再開した。
営業再開に当たって出口さんは取引業者や生産者約80団体に商品の搬入を依頼すべく連絡したが、市外に避難したり、廃業したりした業者も多く、搬入できた商品は限られ、出口さんは売店に「千枚田」で作った米や輪島特産の漆塗りの箸を並べた。
いったん再開はしたものの、ここに来るまでの道路がまだまだ復旧の途中。

この日も私以外に訪れている人はバイクで来ていた2人の若者だけ。お米を買って帰りたかったが、道の駅は営業していなかった。


何せ広域避難している従業員もいて人手が足らない。
しばらくは道路の復旧の状況や来客などの様子を見ながらの不定期の営業となるようだ。
立ち上がれていないのは、ここだけではない。
1年半も経つのに、石川県の多くのまちはまだまだ復旧が遠い。
現在運転停止中の石川・志賀原発からも、関西に住む我々は多くの電力を享受してきた。
危険を押し付け、ずっと電力を送ってもらいながら。
ほぼ「見捨てた」に等しく被災地を「忘れ去り」、
被災しなかった人たちは、今日も万博に浮かれている。