
「そんなことまで書いてくれとは言ってないぞ!」
平尾さん。天からのお叱りに、お言葉を返します。
「第11話は、あなたが神に休することを許された翌日、4月9日に書きました。だから11日の通夜式、12日の葬儀、告別式については書けておりませんでしたので、それについてはお約束通り書こうと思いきや、それはあなたの愛弟子・中尾隆一郎くんがしっかり書いてくれました。
なので、私は独断で、ここにあなたが愛してやまないファミリーについて書かせていただくわけですが、理由は、3つあります。
一つ目は、平尾さんが、『仕事はできるがプライベートは無茶苦茶』『仕事をできれば人間性はどうでも良い』みたいな、そんな程度の人間と一緒にされては、はっきり言って弟子として我慢ならないからです。仕事ができる人はそこそこたくさんいます。しかし人間として素晴らしい人はそのうちのほんの一握りです。(仕事だけができる)前者は凡百にすぎず、後者こそが偉大なのです。
二つ目は6年前、あなたが、私のギクシャクしていた夫婦関係に怒って『何のための結婚生活か?』と叱ってくれたことがあったからです。あの時のあの叱責を、まさか忘れてはいませんよね(笑)。あなたは、部下だけを愛したのではなく、自らは39歳で離婚しつつもそれはそれ、私にど真剣に本音のアドバイスをくださり、そして離婚したからといって家庭を崩壊させたのではなく親も妻も子どもたちも生涯愛し抜き、愛され抜いた人だと、私は知っているからです。
最後三つ目は、あなたが望んだ以上のことが平尾ファミリーに起こったから。そのご報告です。
おそらく最大の心残り、お母様に自分の死に顔を見せるのは耐えられないことに関して、お兄様の隆司さまが施設からお母様を連れ出して、お通夜式にもご葬儀、告別式にも、そして骨揚げの場にもお兄様がお母様にしっかり寄り添って、平尾さんとのお別れをさせてあげたことが一つ。
そして、あなたは想像もしなかったでしょう。前の奥様であった敬子さんが、まさかあなたとの最後のお別れに、通夜式の前日・10日(金)に来られて涙を流されたことを、天国のあなたにお知らせせねばなりません。
この2人からのお別れは、さしものあなたの『計画』『想定』にも、なかったこと。
そう、あなたの人生は、プライベートも凄かったのです。
このことは、あなたの偉大さを語るとき、とても重要なことなのです。
てか、仕事だけできてあとはまるでダメな人間など、人間学、哲学、人相学を追求してやまない私が、ここまで尊敬するわけがないじゃないですか!」
第12話は、私の解釈を極力廃し、ドキュメンタリーを書くつもりで、あなたが愛したファミリーたちの「最後の12日間」を、ご家族の視点で描くものである。
※冒頭写真は3月に撮影された家族写真。左から妻・美沙登さん、平尾さん、長女・朋子さん、長男・宏司さん、愛犬・わく。
4月1日(水)
この日、平尾は、朝から妙にソワソワしていた。
もっとも尊敬する人物、関一郎とのテレビ会議を約束した時間が待ち遠しくて仕方がなかったのだ。
妻、美紗登は、夫が久しぶりに元気で、目が輝いていることがとても嬉しく、また、少年のように緊張し、心躍らせながらその時を待つ姿に愛おしさを覚えていた。
平尾はとてもシャイな男である。
いくら妻でも、緊張のあまり、いつもと違う、というか自分らしからぬ姿を見られたくない。
約束の時間が迫ってくるにつれ、そんなオーラを放ち始めていた。
美紗登は、ここのところなかった夫の良好な体調を確認できていたので、気を利かせる事にした。
「(愛犬)わくを散歩に連れていってくるね。関さんと水入らずで、どうぞごゆっくり!」
こうして、関一郎と平尾勇司とのテレビ会議は始まった。
平尾にとって、そして関にとっても、二人きりでの久しぶりの対話はとても素敵なものだったろう。
その内容はもちろん誰も知らないが、あとで紹介する関一郎の、あまりにも素晴らしい弔辞の中に、場所は離れていてもビデオ電話でたった二人だけでゆっくりと交流した4時間のことが書かれていて、弔辞の限られた文字数の中に書かれたほんの一節、それだけお聞きしても胸打たれる。この投稿の最後で、その弔辞全文を、紹介させていただくことにしよう。
「ただいま〜」
愛犬わくの散歩を敢えて長めにして気を利かせ、美沙登は帰ってきた。2時間以上経っていた。
「どうだった?」
「ああ、今、ちょうど終わったところ」
「え〜、2時間も?弔辞のお願いは、ちゃんとできた?」
「ああ、一応ね。したけど、まだ引き受けるとは言ってもらってない。最後の透析をする3日の翌日がきっと体調がいいから、その日にもう一回テレビ電話する事になった。」
「じゃあ、その時、しっかりクロージングしなくちゃね!」
注1)愛妻、美沙登は最北端旭川で頑張っていた
妻、美沙登は、平尾がホットペッパーのミラクルストーリーをリアルで描いていた真っ最中の2000年代前半に、北海道旭川で働いていた一人のメンバーである。
平尾は版元に出向いてのメンバー激励や打ち合わせ、状況把握をとても重要と考えていたが、旭川を訪ねるときは、必ず真冬、最も過酷な気象となる2月と決めていた。
「どれだけ過酷な環境でみんなが頑張っているのかを体感したい」
「快適な季節に行っても意味がない、旅行じゃないんだから」
ある旭川訪問の朝、大雪に見舞われた。
前日から営業所間近のホテルに入っていた平尾は朝一に出社。近くに住まう版元長もなんとか出社できたが、必ずしも旭川市内中心部に住んでいない大半のメンバーはなかなか出社できない。
雪に塗れながら、一人、二人、と会社に入ってくる。
私が平尾と一緒に仕事をした大阪のオフィスで遅刻なんてしようものなら、リーガルキックが炸裂したことだろう、しかし、平尾はその雪まみれで会社に到着する一人ひとりを労った。
「大丈夫だったか?」
「大変だったろう?」
注2)愛犬「わく」
平尾は、仕事を共にするメンバーも、家族も、同じスタンスで愛したが、動物もまるで同じスタンスで愛した。
「わく」という名は、関一郎の弔辞にも出てくる「ワクワク」という言葉、これは「平尾モデル」のキーワードで、大切で強烈なモチベーションの代表格とも言える言葉だが、その名を冠されたこの犬もまた、人と同じように、決して溺愛はされなかった。厳しい躾、失敗した時の叱責等々は、リクルート時代の部下、そして家族に対するそれと何ら変わらなかった。
平尾は寝室の扉を少しだけ開けて寝るのが常だった。なぜなら、朝、そのわずかの隙間を「わく」が鼻でこじ開けて部屋に入ってきて、顔中を舐めまわされるのが大好きで、それが楽しみだからこころ安らかに眠りにつける、というのが、マンションでの生活の日常だったからだ。
注3)リクルート第4代社長、柏木斉に鞄持ちをさせた男
リクルート第4代社長、柏木斉と、遠く離れた旭川で働いていた美沙登は、まだ平尾と上司・部下の関係でしかない時代にガチで語り合っているって、普通はありえないことだ。
それは、旭川はホットペッパー事業において日本最北端の版元、小さな小さな営業所だったにも関わらず、平尾はこの最北端の小さな営業所に、社長の柏木を一度ではない、二度も、連れて行っていたからに他ならない。
下写真後列中央で「大吟醸 男山」を持っているのが男気の塊、柏木社長。その横で柏木に密着してピースしているのが、20数年前の美沙登である。

リクルート第4代社長、柏木斉も、平尾の葬儀・告別式に駆けつけた。
柏木は、平尾の息子・宏司を見つけるや否や、お悔やみの言葉に添えて、宏司にこう言ったという。
「父上に、鞄持ちをさせられていた柏木です。怖い先輩でしたが、本当にお世話になったんですよ。」
さすが、「人財の宝庫」と言われる会社でトップに登り詰めるだけの人物は、やはり違う。
宏司が私に、このことを伝えてくれた時、私はこう言った。
「確かにお父さん(平尾)が1980年入社、柏木さんは一年後輩だから、そういう上下関係があったんだね。信長と秀吉みたいな。その後お父さんは2000年からホットペッパー事業で年間100億単位の利益を出すような大成功を収め、リクルートの巨額借金完全返済のラストスパートに大貢献したんだけど、その頃、社長になっていて、借金完済をやり切るだけでなく、リクルートの新時代の扉を開いたすごい人なんだよ、柏木さんは。」
柏木さんがお帰りになった後、そんな解説をぶっ込むと、宏司は目を輝かせてこう言った。
「そういえば、僕がまだ高校生ぐらいの頃だったか、父が『毎年1000億円ぐらい借金を返してるんや!』と言っていたことを思い出しました!」
注4)弔辞の依頼
平尾が、尊敬してやまない関一郎に弔辞を依頼したのは、9年前、2017年11月10日のことだった。彼のFBタイムラインを遡って、彼がその気持ちをぶちまけた投稿の全文を引用しておく。

「男は、生涯を通じて畏敬する上司に出会えるかどうかが自分の生き方をも決めると思う。特に人生の後半下り坂の生き方に。
組織図上の直属の上司部下の関係がなくなっても、『あの人はどう生きているにだろう?』と、会いたくなって、会うと、自分が行き詰まって苦しんでいることを、ちゃんとそ人は受け止めて、ブツブツ言いながらスッキリ超えている。
『やっぱ、俺がずっと尊敬してきただけの人だなぁ〜!』と、嬉しくなる。
僕にとってのその人は、関一郎である。
自分の葬式に、この人に弔辞を読んでもらいたい。『なんで俺がオメェのを読まないといけねぇんだ、順番が違う』と怒られそうだが……
俺がそう思うんだから仕方がない。
本人が嫌がるSNSに許可もなくこっそり引っ張り出す。
30年の時を経てもなお関一郎氏と一緒に席を同じくできる自分を自慢したい。
悔しいと嫉妬する奴がいっぱいいると思う。
ごめんなさい。
そして、言いたい、
関さん、上司であってくれて、ありがとうございます。
平尾勇司」
4月2日(木)
4月1日の、関一郎とのテレビ電話でも「いよいよ最後の透析だと思ったら嬉しいんです」と関に言っていたように。
最後の人工透析を翌日に控え、平尾の心はとても穏やかだったようだ。
美沙登は、愛犬ワクの散歩の時だけ、マンションから外に出た。
咲き誇っていた桜が、散り始めている。
美沙登の目から、涙がとめどなく流れ落ちた。
4月3日(金)
最後の人工透析。
妻、美沙登は、LINEメッセージで最後の人工透析を長男、宏司に報告した。
『勇司さん、「宏司、来るかな?」と今朝、言ってたよ。宏司君の仕事を心配して、「死んでから来たらいい」なんて言っていたけど、実は来ること望んでるじゃんって思ってたから、明後日、宏司君が来たららすごく喜ぶと思う。』
最後の透析を終えたら、4月6日には病院に入院することになっていたので、宏司は会社の上司に休暇願いを出し、入院前日の5日から広島入りして病院に乗り込むことにした。
4月4日(土)
関一郎との二度目のテレビ電話。
関一郎との二度目のテレビ電話も、前回と同じ、2時間に及んだ。
二人は、山のような思い出話、平尾の自慢話、そして『死生観』について、多くを語り合った。
『自分は天国とか地獄の話に興味がない』『輪廻などもピンと来ない』『自分は自殺(じし)ではない、ただ透析をやめただけだ、あと一回で終わると思うと嬉しいんですよ』等々と関に打ち明ける平尾に対して、関はひとつの和歌を紹介した。
それは関の母が晩年に詠んだもので、仏教講座の講師の僧侶から言われた言葉に基ずいた歌だった。
『師の僧は 隣の部屋に入るごと静かに死すべし 笑みて教えき』
平尾には、この歌がスッと受け入れられた
『これいいですね、もらいます、いいな。』と平尾は関に、何度もそう繰り返した。
こういうすばらしいことができるのが、関一郎という人の真骨頂だろう。
平尾は関に見せたいものがあった。
『昨日 納品になった仏壇見てくれますか』
そう言って、真新しいモダンな仏壇を、関に披露した。
それは閉じても少しだけ中の灯りがもれるようなつくりになっていたが、寂しがり屋の平尾がまるで『僕はここに居るよ』と語りかけているような、そんな仏壇だな、と関には感じられた。
そして、平尾の最後の頼み事である「弔辞」を関は引き受け、いよいよ別れの時。
平尾はニッコリ笑ってこう言ったという。
『関さん、いずれ隣の部屋で』
そして、互いに、いつものように手を振って、二人はパソコンのスイッチを切った。
テレビ電話を終えた関には、平尾が見せてくれたあの光がかすかにもれてくる仏壇が、『いずれ隣の部屋で』という約束の証のように思えたという。
4月5日(日)
4月5日、長男・宏司が、父・平尾に内緒で広島入り。
上幟町にある平尾のマンション(平尾が現在のマンションでの生活を始める前まで長く住んだマンション)に、一人泊まった。
宏司は、平尾と前回3月に会った時に『お前は、美沙登から、お父さんが死んだ連絡を受けてから来てくれればいい。仕事を長期間休むわけにはいかないだろうし、(宏司の妻の)里佳ちゃんを一人にさせておくわけにもいかないだろ。仕事をしなさい。』と言われていた。
宏司はその時、自分の意思とは裏腹な返答にはなるが、反抗してもどうにもならないのが父であることはわかり切っていて、だからその場では『うん、わかった』とだけ伝えていた。
ただその会話の時に、平尾は続けてこう言ったそうだ。
『…ちなみに、お前は4月は仕事は忙しいのか?』
そう聞かれた宏司は、こう答えた。
『いいや、ぜ〜んぜん忙しくないよ。新年度が始まったばかりだろうし、そもそも会社には”申し訳ございませんが私は4月は父を看取る必要あり、使い物になりません”と言っていて、上司たちも理解をしてくださっているから』
宏司のこの返事に、平尾は『そっか』とのみ言ったが、宏司にはなんだか少し嬉しそうに見えた。
だから宏司は、4月6日の平尾の入院に合わせて、前日に広島入りし、朝には病院に乗り込む計画としていたのだった。
4月6日(月)
平尾、入院。
緊急入院ではなく、計画通りの入院だが、本来なら人工透析で維持される臓器の機能が、それをやめることでどんどん悪化されることが想定されての入院である。
4月6日朝、長男・宏司、父・平尾勇司に、病室にて対面。
宏司が病院の病室に行くと、平尾は『おぉ、宏司、来たのか〜』と嬉しそうな笑顔を見せた。
そして、平尾の体調を気遣いながら、美沙登と宏司は、平尾の病室でともに過ごした。
『まだまだ先も長いだろうし、今日はみんな帰るね』
平尾の就寝時間になると、この日は病院の医療体制に任せ、この日だけはファミリー誰も泊まらずに、病室を後にした。
この時、美沙登は宏司にこう提案していた。
『お互い、最後に二人でゆっくり過ごす日も欲しいだろうから、明日4月7日は宏司君が一人で泊まって、翌4月8日は私が泊まるのはどう?』
4月7日(火)
4月7日の朝、美沙登は愛犬わくの散歩から帰り、マンション入り口側のポストからはみ出る画用紙を見つけた。
「なになに?と引っ張り出しそれが何か目に入った途端一気に涙が込み上げました。越生さんが来た!もしかして…と思い、居住人側のポストにまわり扉を開けるとはたし狀のような手紙。その場では手紙こそ読みませんでしたがこんなにも平尾さんを想って引き留めてくれる人がいることに一人ポストの前で号泣しました。 」
手紙は、意識が朦朧としつつも、長男・宏司が手渡す一枚、一枚を、ゆっくり、時に意識が遠のきながらも時間をかけて、すべてを読んでくれたという。
「平尾さんの堅い決断は揺らぐことがありませんでしたが、自分をこんなにも慕って思ってくれる越生さんに感謝し喜んでおりました。」
その後、平尾は長男・宏司に、「お昼は外食したい」と言った。
宏司は、病院の近くにあって、昔から父と通っていたラーメン屋さんに平尾を連れて行った。
ラーメンを食べた二人が病室に戻ると、平尾の兄である隆司と妻の弘子が訪ねてきた。
平尾は兄・隆司との時間を堪能した。
そして、時は過ぎ、夕方になった。
前日の美沙登の提案どおり、この日は宏司が一人で父の病室に泊まることとなったが、結果としてはこの夜が、平尾にとって最後の夜となる。
この期に及んで平尾は愛犬わくが、病院には入れないので車の中で過ごしていることに心を痛め、「わくが可哀想だ。ちゃんと面倒を見て、散歩にも連れて行ってくれよ!」と言っていたので、夕方には美沙登が病院を後にした。
宏司は、病室で一緒に夜ご飯を食べ、そして2人でソファに座って、宏司は、父と2人だけの夜、会話を噛み締めるように楽しんだ。
『薬の影響で眠くなってきたから、お父さんそろそろ寝るわ』
平尾は宏司にそう言って、21時50分にベッドに移動して寝始めた。
薬が効いたのか、よく眠ってはいるものの、痰が喉元に詰まって苦しそうに呼吸をしながら寝ていたという。
宏司は、2人きりで父と過ごすおそらくは最後の夜であること、そして、もしも自分一人の時に何かあってはいけないという想いから、平尾が寝ている間は彼の左手を握りしめながら、ずっと側にいて起きていた。
すると、夜中の1時に平尾が目が覚ました。
『痰が辛そうだし、痰を出そうか』
宏司が平尾に言った。
『自分で洗面所に出しに行くよ』
と平尾はそう言ったので、宏司は父の肩を担ぎながら、洗面所まで一緒に行った。
ベッドに戻って、平尾は言った。
『宏司、肩が痛いから揉んでくれ』
宏司は父の肩を揉みながら、またしばらく30〜40分程、二人で昔話を続けた。昔の仕事の話をしていると、『仕事…たのしかったな〜』と平尾はしみじみと呟いたという。
『冷蔵庫にあるバナナのスイーツとオレンジジュースを食べたいから取ってくれ』
平尾がそう言うと、宏司には平尾がカリウムの摂取をしようとしているとわかった。カリウム摂取は、平尾が生きるためには避けなければならないものであり、宏司は懸命に抵抗した。
『いいから、頼むから、持ってきてくれ!食べたいんだ』
平尾に懇願されて、宏司がバナナのスイーツとオレンジジュースを持って行くと、『あ〜おいしいな〜』と言いながら平尾はそれらをおいしそうに食べ、その後眠りについたという。
この夜、平尾が次に起きたのは3時頃だった。
看護師の方の巡回と重なったため、血圧を測ったところ、上が150で下が100だったので、薬を飲んで寝ることとなった。
その後は朝まで平尾は眠り、宏司は5時まではずっと起きていたが、さすがに疲れが出てきたため、それでもその後は10分おきに携帯のアラームを設定して携帯を握りしめて、アラームのバイブが鳴っては父がちゃんと寝れているか、息をしているかを確認しながら、朝まで過ごした。
注5)平尾の兄・隆司と、母・民子
隆司と平尾は昔から仲が良く、入院前には二人で会って、思い出話をしながら涙を流し合っていた。
隆司も、大事が弟が居なくなる日が日々近づいていることを、深く悲しんでいた。
この日は平尾も病室にあるソファに兄・隆司と一緒に腰掛けて、2時間程、昔話に花を咲かせた。
思い出話の間隙を見つけて、隆司は平尾に言った。
『お前が亡くなったら、お袋を葬儀に連れて行こうと思うんだじゃが、ええか?』
平尾の目の色が途端に変わり、兄・隆司の目を見据えてこう言った。
『やめてくれ。(火葬も含め)全てが終わった後で、兄貴の口から”勇司は死んだ”とだけ伝えてくれ。(葬儀でお袋が俺の亡くなった姿を見るのは)お袋にはインパクトが強すぎる。』
そばでこのやりとりを聞いていた宏司は、この時の会話をこう受け止めていた。
「隆司おじさんは納得はしてなさそうだったけれど、その場では『わかった』とのみ父に伝えた。おじさんもまた、自分の意思とは裏腹な返答にはなるが、反論してもどうにもならないのが弟であることはわかり切っていて、そう言ったものの、隆司おじちゃんはおばあちゃんを連れてきてくれそうだな、良かった、と僕は感じていました。 」
注6)絵を愛した平尾、そして最後の涙
宏司と二人きりの夜の会話の途中、平尾は宏司に、ある画家の話をした。
『宏司、上幟町のマンションのテレビの上にある絵は、昔取引先でお世話になった方が引退後に画家になって描かれたものだ。けど、その方はいつの間にか亡くなってしまっていて…。それを知ったお父さんはある日、その方の奥さん・娘さんが住んでいる家を訪ねて、”先日亡くなったことを知り、突然の訪問で申し訳ございませんが、お線香をあげさせてください”と言って訪問したんだ』
話している途中に、平尾は感極まって泣き出した。
泣きながら平尾は、宏司に言った。
『その時のことを思い出して涙が出てくる。
宏司、あの絵、大事にしてくれよな。』
宏司には、父の死がいよいよ迫っている感じがして、涙腺が決壊した。
父子は、一緒に泣いた。
注7)平尾宏司の、最後の一手!
私を含めて、弟子たちの誰もが、平尾の「計画」を覆さんと最後の最後まで諦めなかったが、その気持ちはご家族のそれに適うものでは当然ない。
平尾の愛息・宏司は、2月に、平尾の「計画」を9月末まで延期させるべく、最後の大勝負に出ていた。
平尾のこの「計画」が数年前からあったことを、宏司は感じていた。
彼が初めに平尾の「計画」を予感したのは、2022年に結婚した際だった。
平尾の一番弟子、小岸弘和が経営するディアーズ・ブレインの大阪は江坂の結婚式場での挙式を終え、平尾は宏司にこう言ったという。
「これで俺の使命は完遂した」
その頃から、宏司は、会うたびに痩せ、しんどそうに寝ている父の姿を目の当たりにし、「もう余り長くないかもしれない。」と思うようになっていた。
そして、今年2026年の2月。
宏司は最後の最後の大勝負に出た。
「お父さん。お父さんは人生に悔いが無いというけれど、あるとすればこれじゃないかな…」といって愛妻のお腹に宿った新しい命の証、エコー写真を平尾に見せたのだ。
平尾は、その瞬間、『宏司、良かった…おめでとう…』と言って、その場に泣き崩れたという。
しかし続けて宏司が、『9月30日が予定日だから、まずはそれまで頑張ってみるのはどう…?』と言うと、平尾は顔を上げてこう言った。
『宏司、それは…無理だよ。あと19回、あと18回と、残りの透析の回数を数えている日々なんだ。 お父さんの計画が変わることだけはないよ。』
注8)小岸弘和の、4年越しのリベンジ
2022年にとり行われた宏司の結婚式及び披露宴の会場「ミアヴィア」は、言わずもがな平尾の一番弟子・小岸弘和の会社「ディアーズ・ブレイン」が提供する、まさに最高の舞台であった。
私自身も友人の結婚式が行われた京都の施設「KOTOWA京都 八坂」で体験したが、「ディアーズ・ブレイン」は施設も、スタッフのホスピタリティも、ハード、ソフトともに本当に素晴らしい。
宏司と、愛妻・里佳も、振り返って「本当に最高でした」と口を揃える。
宏司の会社はグローバル企業であり、ある上司は母国語でのスピーチのほぼ同時翻訳をその場で要求するなどの無茶振りがあっても、小岸の会社はことごとく見事に対応。時間だって、新幹線の最終のギリギリまで対応。最高のおもてなしで参列者全てを満足させた。
しかし、平尾だけは、帰り際に「こうしたらもっと良くなる」と言う要望の箇条書きを小岸に渡したのだった。
妻の美沙登は、外食をするときなども、常にそのお店には満点を出さない、必ず更なる要望点を伝える平尾に、何でそこまでするのかと思うことがしばしばであった。
なぜでしょうねと問われて私は、こう答えていた。
「私などが言うのは、文句。クレームの範疇でしょう。しかし平尾さんは、本当にもっとこうしたらいい、というのを感じたまま、率直に伝えているのでしょう。おそらくそこには、愛があると思いますよ」と。
さて 小岸にしたら、これだけやって、更なる要望の箇条書きを置いていかれたらたまったものではない。しかし小岸がやはり並ではないのは、今年3月16日に、広島の自施設ザ・リバーサイドテラス広島ツリーズスクエアに弟子たちを集め、平尾をこれでもかともてなし、しっかりこのときの要望への答えを平尾に返したのだった。

美沙登さんが泣き崩れた「新郎新婦入場」の演出、歓談の贅沢な空間、料理、すべてがすごかった。



4年越しのリベンジ、さしもの平尾も「なんも言えねえ!」と涙。小岸弘和、恐るべし。さすが、平尾勇司の一番弟子である。
4月8日(水)
平尾がついに「計画」を全うした、つまり彼が言う「目標達成」を成し遂げたのは4月8日、18時25分のこと。
この最後の1日のことは、愛妻・美沙登の手記の形式をとってお伝えしよう。
「その日私は朝10時に病院に着きました。
前日は宏司くんと二人の時間を過ごして欲しいと思い宿泊は遠慮して、その日は私が宿泊して二人で過ごす約束でした。
病室に入ると『今日も生きちゃった』と平尾さんは言いました。
(平尾が早く楽になりたいと思いつつ地獄のような苦しみと戦っていることがわかるだけに)今日も生きて欲しいと言えない私は『今日の夜は二人で過ごすんだからね(だから今日は死んじゃダメだよ)』と、最後の言葉は口にできませんでした。
朝ごはんは、白米が変更したお粥に変わっておらず、少しのパンを食べたと言っていました。
呂律も昨日より乱れており、看護師さんが体重を計りにきた時には立ち上がりや歩行も支えがないといけない状態でした。確実に毒素が体中に回って筋肉や臓器の機能を破壊してきている、と感じました。
その後は、携帯に届いたメッセージを見せてもらったり、返信をするのを横で見ながら(指も動きずらく打つのも時間がかかります)過ごしていました。
宏司くんは『父とたくさん話ができました』と言っており、昨晩ほとんど寝ておらず、その時はソファで寝転んで休んでいました。
11時頃には薬が効いており、「眠たい」と言ってベットに横になりました。
心臓の動きが鈍いせいで「スィースィー」と一生懸命口から呼吸をしながら眠りにつきました。
それからソファに移動した私は、平尾さんの呼吸が通常ではないので、変化に注意しながら宏司くんと雑談していました。
何を話しても話せば話すほど涙が溢れました。
そばにいることしかできず、時間が流れその時が近づくのが怖くて仕方ありませんでした。
13時頃、それまで眠っていた平尾さんが目を覚ましたのでベットの隣に移動し起き上がるのを手伝いました。まだ薬でうつらうつらしています。それでも会話はできており、私は車に留守番させている(愛犬)わくの散歩に行くと伝えました。
平尾さんは『わくが長い時間(車の中に閉じ込められているのは)かわいそうだから(早く)連れてってやれ』と言い、会話は出来る状態でした。
そして『少し苦しいからお医者さんを呼んで』と言うので担当医の土井先生を呼ぶと、直ぐに病室へ来られました。
先生も来たし、この隙にわくの散歩へと駐車場の車からわくを出し、散歩を始めました。その時間もソワソワしてこの時間にもしかして…が心の中を占めていました。
その時電話が鳴ったのです。
宏司くんからでした。
『美沙登さん、早く戻ってきて、お父さんが!』
私はダメダメダメダメダメダメダメダメ…と何度も呟きながら、息も苦しくて、でも走る足を止めることができず必死に病院4階まで上がり一番奥の病室まで走りました。
涙目の宏司くんは『体が激しく痙攣しているお父さんに、ダメだよお父さん、今逝っちゃあ!まだダメだよ!と呼んだ。何度も呼んだら、何があったの?と言って父は戻ってきてくれた』と教えてくれました。
痙攣は2、3分の出来事だったのですが、本人は『2、3時間ボーっなっていて、みんなの声がするなと気がついたら目の前にみんながいた』と言い、続けてこう言ったのです。
『次また(体の痙攣が)きたらムービー撮っといてくれよ』と。
この時、心拍が停止していた時間があったと、先生からは言われました。
14時過ぎには長崎から駆けつけた娘のともちゃんが『お父さん来たよ!』と病室に駆け込んできました。
以前から、『入院したら誰とも会わない、美沙登だけが看取ってくれたらいい』と言っていたので、ともちゃんが来ることを伝えてはいませんでした。(宏司くんが来るのも伝えていませんでした)
夫は少し笑って言いました。
『これで準備万端だな』
私たちはそこからは一度も目を離しませんでした。
すると夫が「またきた、来る来る来る…」 と言った次の瞬間、歯を食いしばり、目を目一杯見開いたかと思うと、その後体がガタガタと震える痙攣が起こりました。
それでも夫は戻ってきました。
そして、少し呼吸が落ち着くと 小さな声でこう言ったのです。
『早く隣の部屋へ行きたい』
これは彼が尊敬する関一郎さんのお母様が読まれた歌の一つで、(4日前にテレビ電話で関さんから教えてもらって以来)大変気に入っていた歌『師の僧は、隣の部屋に入るごと、 静かに死すべし。笑みて教えき。』 の中に歌われた『隣の部屋』のことです。
私は、もう一時も夫から離れてはダメだと思い、わくのこともあったので夫の兄に連絡をしました。事前に、わくを預かってくれると申し出てくれていたからです。
16時過ぎには義兄夫婦が病室に到着しました。
その後は軽めの痙攣が2回、起き上がり嘔吐。
それでも夫は、必死で闘っていました。
そしてベットに横になる時、ついに夫は弱々しい声で言ったのです。
『気持ち悪い、苦しいので何もわからなくなっていいからモルヒネを打ってくれ』
その時、点滴をしてうとうとしている夫の隣で、宏司くんが今晩の薬投与の仕方の説明を先生より受けました。
『さっきも心肺停止の時間がありました。今日か明日が山です、さっきでもおかしくなかったです』
先生がそう言われ、義兄がわくを連れて散歩に行こうとした、その時でした。
『兄さん、行かないでくれ!』
そういう言葉にはならなかったけれど、夫は病室を出て行こうとする兄の歩を止めさせるためではないかと思うほど大きな声を出しました。
義兄はわくの散歩を妻の弘子さんに託し、病室に留まって、夫の左手は宏司くんが握り続けていたので、右手を握り締めてくれました。
鬼の形相で、歯を食いしばりながら、夫は宏司くんと義兄の手を、力強く握り続けました。
『お父さん、見える?』
『聞こえる?』
宏司くんが叫びのような声を夫に投げかけ続けます。
私も必死で声をかけました。
『私を見て!』
そう言うと、焦点の合っていない目を必死で戻そうしてくれます。
そして、息が止まるようになりました。
先生が来て、首元を押さえて、言いました。
『もう最期の時間なので、(お別れの)挨拶をしてください』
すると、止まっていた呼吸がまた小さく始まり、だんだん大きくなります。
呼吸が聞こえる、その時間は、30分続きました。
先生がまたやってきて、こう言いました。
『5分心臓が止まっていました。今後意識が戻るかどうかはわかりません』
痙攣するたびに、あまりの苦しさに立ちあがろうとする夫。
痙攣し、目の焦点が合わないようになるたびに、宏司くんが、叫びます。
『お父さん、みんないるよ!』
『きこえてる?』
『見えてる?』
『目をしっかり開けて! 』
夫は、(宏司くんの必死の呼びかけに)目を見開き、歯を食いしばりながらみんなの顔を一人ひとり見て、小さく、でも確実に頷きます。
左手を宏司くん、右手を義兄がしっかりと握っていましたが、すごい力で二人の手をぎゅっと握り返してきます。
そして。
すっと呼吸がゆっくりになって、そして浅くなっていきました。
18時25分。
医師から、死亡を告げられました。
4月9日(木)
遺族全員、通夜式、告別式の段取りに追われる。
4月10日(金)
元妻、敬子が、長崎から最期のお別れに駆けつけた。
平尾が敬子と別れたのは、平尾が39歳のとき。長女・朋子が13歳、長男・宏司が9歳の時だった。
家族4人の誰もに、辛く、苦しい日々があったことだろう。
平尾はこう言っていた。
「妻とは大人同士のこと。決断に責任を持っていくことはお互いのことだが、特に長女と疎遠になったことは辛かった」と。
死が近づくにつれその長女・朋子とのわだかまりが消えていくことが、平尾は何より嬉しかった。
3月に撮影された冒頭写真を見てほしい。
父の隣の朋子には、父と決別する13歳のときの、まるで少女のような笑顔が戻っていた。
元妻、敬子の、彼女にしか持ち得ない感情は、私などが想像するに失礼極まろう。しかし、彼女は、安らかで優しく微笑んでいるかのような平尾の顔を見て涙を流し、そして、長崎に帰って行ったという。
4月11日(土)4月12日(日)
通夜式、葬儀、告別式については、弟子の一人、中尾隆一郎くんが彼のFBのタイムラインでの報告を読んでほしい。そして、彼が式に間に合わせた渾身の一冊「平尾勇司さんのマネジメント技術と生き方」をお読みいただきたい。
弟子の一人として、私は、彼の素晴らしい師匠への恩返しに、改めて、心より敬意を表したい。
ただ、この2日間に、私が平尾勇司に差配されたとしか思えないような奇跡が二度あったので、そのことをお伝えしておこう。
一度目は、通夜式に向かう広島の路面電車の中。
長男・宏司との絆は深いものとなりつつあったが、まだ見ぬ長女・朋子のことを気にしつつ座席に座っている私に、中学生であるだろう長男と、まだ小学生だと思われる長女の二人の子供を連れた喪服の女性が私に近づいてきたかと思うと、声をかけてきたのだ。
「越生さんですか?私、父の娘の朋子です。」
私の投稿を見てだろう、私の顔を知っていてくれて声をかけてくれたのだった。
電車の中で会えたから、式の途中では忙殺されるご遺族とゆっくり話などできない、それが実現したのだ。
そして、奇跡は二度起こる。
翌日の葬儀、告別式、そして火葬、骨上げのすべてが終わり、私が喪服から着替えて流川で一人献杯をし、3軒目の場所を土橋に移すために路面電車に乗ったとき、皆私服に着替えた長男、長女を連れた朋子さんと再びバッタリ会ったのだ。
夕方、17時過ぎのこと。
「なんか、奇跡ですよね。」
「お父さんが引き合わせてくれているとしか思えませんね。」
注9)関一郎 弔辞全文
「平尾君、つい数日前 テレビ電話で笑ったり、泣いたりしながら語り合った君が、今 眼の前に 動かぬ写真となっています。
正直 とまどっていますが、君からの最期の頼みごとですから、少しの時間 頑張って話してみます。聞いてください。
平尾君、君と知り合って四十三年間、私はある時まで、スゴ腕の営業マン、好敵手、頼りになる部下 などと思っていました。
しかし私が君より一足先にリクルートを去るころ、君のあの大仕事、すなわち、つぶれかかっていた事業『サンロクマル』の再建を眼(ま)のあたりにしました。あの『狭域モデル』の創造です。
これは単に一事業の債権などと言うものではなく、江副さんがリクルートブックを作ったことに匹敵する、いわば『第二の創業』と言ってもいい次元のものだったと思います。
その昔、大艦巨砲主義の成功に酔いしれていた日本海軍の中で『海軍は空にあり』の名言で航空機の重要性を説いた山本五十六を彷彿とさせるものです。
その後 海軍はダメでしたが、リクルートはその『平尾モデル』が大輪の花を咲かせ、今もリクルートの中に脈々と息づいています。
そして、それどころか、誰もが知っている、あのペイペイ(PayPay)もJTの電子タバコも『平尾モデル』なくしては今がなかったことを知りました。
そしてこのモデルが成功した数多の要因の中で最も特筆すべきことは『人間』に重きを置いたことでしょう。
君がまとめた『事業リーダーの仕事とは何か』という論文の目次には、『満足感』『メンバーの成長』『わくわくドキドキ』『エンジョイ』などという言葉があふれています。凡百(ぼんびゃく)の経営指南書にはほとんど出てこない言葉だと思います。
その『平尾モデル』の最大の成果を私はここ最近目にしました。
君が親しい人に自分が透析をやめることを話してから大勢の弟子が集まり、君をとり囲んでワイワイ話している写真を沢山見ました。
彼等は君によって『人生が変わった』と言っている人達です。その表情には君に対する愛惜の情、敬慕の情、深い感謝、その全てが出ています。
彼等は生涯 君のことをけっして忘れることはないでしょう。君の遺した最高の遺産です。
さて違う話をもう少し話させてください。
四月一日、四日と合わせて四時間、君と二人きりでテレビ電話で話しました。
山のような思い出話や君の自慢話もありましたが、『死生観』についても多くを語り合いました。
君はこう言いました。
『自分は天国とか地獄の話に興味がない』『輪廻などもピンと来ない』『自分は自殺(じし)ではない、ただ透析をやめただけだ、あと一回で終わると思うと嬉しいんですよ』等々です。
そこで私はひとつの和歌を紹介しました。
それは私の母が晩年に詠んだ歌で、仏教講座の講師の僧侶から言われた言葉に基ずいています。それは次のような歌です。
『師の僧は 隣の部屋に入るごと静かに死すべし 笑みて教えき』
君はこれがスッと受け入れられたようで、『これいいですね、もらいます、いいな。』と何度も言っていました。
私も日々老化していく自分にとまどうことも多くなってきて、この歌を思い出すことが多くなってきたところでした。
君に受け入れてもらって又ひとつ共有するものができた喜びがありました。
そして、そのあと『昨日 納品になった仏壇見てくれますか」と言い、真新しいモダンな仏壇を見せてくれました。
それは閉じても少しだけ中の灯りがもれるようなつくりになっていました。まるで『僕はここに居るよ』と語りかけているようでした。
そして時も経ち、いよいよ別れの時 平尾、君はニッコリ笑ってこう言いましたね。
『関さん、いずれ隣の部屋で』
そして、互いに、いつものように手を振って、スイッチを切りました。
私には、あの光がかすかにもれてくる仏壇が、その約束の証のように思えるのです。
私は今、君と出会ったことに本当に感謝しています。君の素朴さが好きでした。君の正直さが好きでした。内面に満ち満ちた品格が好きでした。そして君の知恵に敬服していました。
本当にありがとう。君とつきあって面白かったなあ。しばしの別れです。いずれとなりの部屋で会おう。我が友よ!さようなら。
令和八年四月十二日
平尾勇司君へ
関一郎」
注10)平尾宏司「お礼の言葉」全文
「長男の平尾宏司です。 生前、父より『お前からも話して欲しい』と言われており、少しお時間を頂ければと思います。
私よりも長く、濃い時間を過ごされた方々も多くいらっしゃいますが、息子として見てきた父の姿も、お話できればと思います。
先程の映像の通り、父は10年間に渡る病との決着を決断し、家族全員に見守られながら、最後、亡くなる数秒前に『がんばれよ!』と言わんばかりに力強く私の手を握り、そして、息を引き取りました。
4月3日に透析をやめ、6日に入院、8日に旅立ち、みんなが来やすい週末に通夜と告別式。夏は暑いし、冬だと寒い。秋だとなんかさみしい。春の暖かく、桜があるうちに見送られたいな〜と、ここまで全て父の計画通りで、段取りを大事にしていた父らしい、立派な最期でした。
父のこの計画は数年前からあり、初めに予感したのは、2022年に私が結婚した際、『これで俺の使命は完遂した』と言われた時でした。
その頃から、会うたびに痩せ、しんどそうに寝ている父の姿を目の当たりにし、「もう余り長くないかもしれない。」と思ったのを覚えています。
昔から『宏司、できるかできないかじゃないんだよ、やるかやらないかなんだよ!』が口癖の父でしたが、この4~5年の父は、日に日にできないことが増え、そのたびに、『ちくしょう』と声を漏らすようになり、やろうと思ってもやれないことに対する父の悔しさ・辛さ・心の葛藤を感じる日々でした。
しかし父は常々、『武士は30代までに事を成して死んでいた。長くても50歳。つまり、50歳以降の生活はオマケの人生だ。』と申しており、来月は70歳でしたので、身体がしんどい中、こんなにも透析を頑張り、長生きしてくれた父には感謝しかございません。
ここ数ヶ月、父と親交のある方々が、最後の時を過ごす機会を、何度か設けてくださいました。その度に父が涙を流していたため、その涙の意味を聞いた時、『わからない。』と答えていましたが、後日、私に電話をしてきて『宏司、こみあげてくる涙がなぜだかわかった。 みんながこんな風に自分のことを思ってくれていたのか。嬉しいな~という涙、つまり、感謝の涙やったんや』と言いました。
それを聞き私は、『あぁ、長生きしてくれた裏には、こんなにも深い皆様との関わり・相互の愛情があったんだなぁ。』と感じました。
家庭でも父は常に全力でした。
幼稚園の頃、私が何か悪いことをすると『そこで正座しとけ!』と、2~3時間させることは日常茶飯事。途中足が連れて正座を崩すものなら、『誰がやめていいと言ったんだ!野球中継が終わるまでや!』と怒られ、試合が延長戦に突入すれば、『まだやからな!』と言われ、泣きながら正座をしていたのを覚えています。
それでも、ひとたび正座が終わると優しい父に戻り、週末は一緒に自転車で海に行ったり、公園でサッカーをしたりと、仕事で忙しい中でもたくさんの思い出を残してくれました。
別々に暮らしてからも、私が帰る新幹線のホームで、出発のベルが響き渡ると、決まって父は泣き始め、ゆっくりと進む新幹線と一緒に歩きながら、いつまでも手を振ってくれました。
中学、高校、大学でも、人生の節目節目で『男とは、ビジネスマンとはこうあるべきだ』と、時に厳しく叱りながら、人生の正しい道・進むべき道を示してくれました。
愛情は言葉で示し、行動で伝えることの大切さを学びました。
今回、良き父であり、人生の師でもある大きな存在を失った私にとって、この悲しみを乗り越えることができるのか、正直今の私にはわかりません。
しかし、父から『宏司、できるかできないかではない、やるかやらないかだ!』と天国から怒られないよう前を向き、けど時には寂しがり屋な父を思い出しながら、精一杯生きていきたいと思います。
長くなりましたが、これを持ちまして、息子としての挨拶の言葉に代えさせて頂きます。
本日は誠にありがとうございました。」