震災から1年半。「傷深し」と思い知った「和倉温泉」と道の駅「あなみず」での車中泊ボランティア(トイレ○仮眠◎休憩○景観△食事◎設備△立地△) 

和倉温泉と穴水町で微力ながらの車中泊ボランティアを1週間続けいよいよ明日からは場所を移して輪島だ。

軍手をしていても豆が潰れるほど頑張ったし、酒でも飲むか、穴水町最後の夜は酒場で人と交流しようかと。

(翌日の輪島のボランティアでまさか顔に怪我をするとは思わなかったが)

穴水町には今やほぼなくなった「酒場」だが、かろうじて残っていた小料理屋を1軒見つけた。

のれんが上がっていなかったが戸が空いていたので入ってみると、客は誰もいない。

すいませ〜ん、と声を張ると、奥の方から女将さんが出てこられた。
「やってはりますか?」
「いいですよ、どうぞ」
「メニュー、ありますか?」
「今日あるものだけ出しているので、メニューはないんです」

とりあえず、美味しそうなおでんに火が入っていたので、適当に盛っていただいた。

なんでも女将さんは2007年の震度6強の地震で店を失ったが、苦労して穴水町の駅前で新しい店を再開したという。
そう、ここ穴水町は、18年前にも大きなダメージを受け、ようやく復興を果たしたところで今回の大地震で「息の根を止められた(商店街会長談)」感が否めない。

今回の大地震で商店街が壊滅する中で、女将さんが再開した店はなんとか全壊を免れたということで、本日私とご縁をいただくことになったのだ。

女将さんもビールなら飲めるということで、しばらく二人で飲んでいると、そこに70歳と45歳ぐらいと思しき男性が二人入ってきて、カウンター席の私の隣に座った。

神も仏もあるものか(涙)

カウンターの隣席なので、どうしたって二人の話し声は聞こえる。
「今日はありがとうな、娘も喜んどるわいね」と70歳。
「滅多に来れんで、すまんことです」と45歳。
今回の大地震で娘さんを亡くした父と、その娘さんの旦那さんがちょうど1年半経っての墓参りに大阪から穴水町に久しぶりに帰ってきて。

つまりは娘婿と義理の父が、墓参り後に一緒に飲みにきたらしい。

娘を失った父はひとり仮設住宅に暮らし、妻を失った男は仕事を求めて穴水を出て、大阪で働いているようだ。
二人にとって最愛の人だったろう、杯を重ねながら今は亡き人の思い出話をしているうちに、二人は抱き合うようにして号泣した。

隣にいて、もらい泣きしない人間などいるだろうか。

二人は泣きながら店を出て、その後に1組、明らかに復興関連業者のグループが入ってきた。
どうやら近くにもう一軒だけスナック?があるということで、私もその店へ。

グループは楽しそうにカラオケに興じていたので、ママ?は私の相手をしてくれた。
私が和倉温泉でボランティアをしてきたことを話すと、ママは和倉温泉で働いていて、この度の震災で仕事を失ったという。

和倉温泉復活の日は来るのか?

かつて何度もお世話になった北陸随一の温泉街・和倉温泉(石川県七尾市)の復興が遅れている。

和倉温泉は平安時代初頭の開湯から1200年以上の歴史を持ち、毎年約80万人もの人が訪れていた能登観光の中心地。地震が襲ったのは、新型コロナウイルス禍による観光客の激減から立ち直りつつある最中のこと。ここも穴水町同様、「トドメを刺された感じ、なんとか再開に漕ぎつけた温泉宿もお客さんは9割減(和倉温泉旅館協同組合長談)」。

断っておくが、上の写真は震災直後の写真ではない。
全て2025年6月、すなわち震災から1年半も経ってからボランティアに訪れた私が目の当たりにした和倉温泉の光景だ。

七尾湾に面した風光明媚な「奥座敷」の宿泊施設20軒超が、地震で全て休業に追い込まれてから1年半。営業を再開できている旅館は、たったの5軒にとどまっている。というか、はっきり言って、これらの光景は、震災直後のものでしかないと感じる。

これほどの復興の遅れはもちろん地盤の沈下、建物の全壊もしくは大きく傾くなどの甚大な被害によるのだが、温泉街を海の波から守る護岸が全長3・5キロにわたって崩落したことが大きい。20軒超のホテルや旅館のうち約半数は護岸近くに並んでいる。
1年経ってようやく護岸の復旧工事が始まったが、2年はかかるという。
ちなみに護岸沿いで休館している旅館のうち、通常のサービスは到底できないが災害復旧業者様や自治体応援職員様・災害ボランティアなどの宿泊のみを受け入れている旅館がいくつかあって、今回の私のボランティアはここでの宿泊と、穴水町駅前での車中泊だった。

道の駅「あなみず」

道の駅「あなみず」は、鉄道の穴水駅前にあって、トイレなども共有している。
なので朝起きてボランティアに出かける前、そして帰ってきてからも鉄道の駅を覗くが、とにかく通勤・通学のために駅に立つ人がいない。

2007年、そして2025年。

2度の大地震が容赦無く叩き潰した街に見切りをつけて離れていく人は増え、高齢者だけが仮設住宅に取り残されていくのか。

「希望をつくろう」
見捨てられたかのような現実とあまりに乖離した言葉が、あまりにも悲しい。