鎌倉幕府軍が「楠木正成」に迫った道のり、途中道の駅「かなん」で休憩(トイレ○仮眠△休憩○景観△食事△設備△立地○) 

今は、特殊詐欺の悪党が蔓延る世の中ですが、鎌倉時代末期の日本は、モンゴル帝国から侵攻を受けて鎌倉幕府が弱体化。幕府の衰えにつけこんで「悪党」と呼ばれる武士たちが台頭し始めていました。そんな1318年(文保2年)、後醍醐天皇が即位。幕府と自分の境遇に不満を募らせていた後醍醐天皇は、鎌倉幕府から政治の実権を奪おうと倒幕計画を画策。「無礼講」という飲み会を開き、裏金づくりならぬ「仲間づくり」を進めます。

ところが計画は事前に発覚してしまい、1324年(元亨4年)の「正中の変」により協力した側近が処罰されてしまいます。天皇にいけしゃあしゃあと言ってはなりませんが、後醍醐天皇は「記憶にございません」と言ったかどうか、これに無関係であると釈明しことなきを得て、懲りることなくまた裏金づくりもとい倒幕計画を進めました。しかし今度は、後醍醐天皇の側近・吉田定房の密告によって再び陰謀が発覚。首謀者として報告された日野俊基が処刑されてしまいます。

ばっくれ上手の後醍醐天皇も、さすがに今度は身の危険を感じ、「尊良親王」と「尊雲法親王」の2皇子と密かに京を脱出。笠置山で鎌倉幕府との全面対決の構えを見せるに至ります。一方、後醍醐天皇が逃げ出したことを知った幕府側は、笠置山に75,000の軍を派遣。ここに「笠置山の戦い」が起こったのでした。(写真は紅葉が美しい笠置山)

笠置山の戦いは幕府軍が勝利

笠置山に押し寄せた鎌倉幕府側75,000の軍勢に対し、山上に陣取る後醍醐天皇側はわずかに3,000。数では圧倒的に不利な状況だったが、幸い笠置山は険しい崖に阻まれた天然の要塞である。北は木津川に面し断崖絶壁、西から南にかけては打滝川、東にも谷がある。後醍醐天皇軍はその利を活かして懸命に応戦した。この戦いの中、鎌倉幕府に不満を持っていた楠木正成や桜山茲俊が後醍醐天皇の倒幕運動に呼応して挙兵。予想外の苦戦を強いられた幕府軍はここに本腰を入れ、鎌倉から今度はなんと20万もの大軍を送り込んできた。

頑張っていた後醍醐天皇軍もさすがに敗走。笠置山からかろうじて逃げ出したが、逃亡中に幕府軍に捕まってしまう。後醍醐天皇は廃帝となり、1331年(元徳3年/元弘元年)、持明院統の「光厳天皇」が即位し、後醍醐天皇は隠岐島へ流された。これによって、後醍醐天皇の倒幕計画はもはやこれまで、失敗に終わったかに見えたが、この倒幕運動をきっかけとした反幕府の武将の挙兵は続き、倒幕への流れが止まることはなかった。

楠木正成の「糞尿爆弾」と「死んだふり」作戦

後醍醐天皇がいた笠置山攻略を果たした幕府軍は、楠木正成のいる「赤坂城」の攻略へと向かう。楠木正成は下赤坂城を前衛の城、上赤坂城を本城、千早城を詰城とし、幕府軍を迎え討つ。といっても幕府軍30万に対し、楠木軍の兵はわずか500。どこに勝ち目があろう。

正成は、崖に囲まれた道を通る場所に弓兵200を待ち伏せさせ、幕府軍が通った瞬間、櫓から一気に弓矢を放った。幕府軍が休んでいたところには東西2手に分かれて奇襲。あらかじめ設置しておいた「二重塀」の仕掛けで城壁をよじ登ってくる兵を落下させ、落下した兵に上から大木や岩、熱湯や糞尿を浴びせた。顔に泥を塗られるというが、顔に糞尿をかけられたら武士の屈辱いかばかりか。楠木正成は手段を選ばず、奇策の限りを尽くした結果、幕府軍1,000人を討ち取った。多くの兵を失った幕府軍は力攻めを断念。兵糧攻めに戦術転換するのだった。

もはやこれまで。普通の武将なら自害するところだ。しかし楠木正成は普通の武将ではなかった。自ら城に火を点け、敵の亡骸を使って自分が自害したように見せかけて密かに逃亡するという「死んだふり作戦」を実行に移すのであった。楠木正成が亡くなったなら幕府軍の勝ち。当然兵を引く。その後に、隙を狙って再度戦いを挑もうと考えたのだ。

わずかな人数の楠木軍は、城内に大きな穴を掘って幕府軍の屍を埋め、その上に炭や薪を置き、幕府軍に分かりづらい風雨が強い日を狙って城を脱出。そして最後っ屁よろしく赤坂城に火を放った。燃えている赤坂城を見た幕府軍は、ここぞとばかりに攻め込むと、城はもぬけの殻。しかしそこには、たくさんの焼けた屍が残っていた。幕府軍はてっきり正成たちが自害したのだと勘違い。勝利の雄叫びをあげて鎌倉へと戻っていったのである。

3ヶ月もの長期戦を制したのは楠木正成

「死んだふり作戦」成功のあと、しばらく楠木正成は姿を隠していたが、当初の計画通り、1332年(正慶元年/元弘2年)に再び挙兵。まず下赤坂城を奪還し、上赤坂城と千早城を利用しながら再び幕府軍を迎え撃たんとし、まず東、西、北の三方が谷に囲まれている上赤坂城に300の兵を配して幕府軍を待った。1332(元弘2/正慶1)年、幕府軍は上赤坂城に攻め入って翌年これを落城させ、正成が立て籠もる千早城へと進軍。最後の戦いの舞台となった千早城は、四方の殆どを深い谷に囲まれた天然の要塞。正成の「最後の砦」つまり「詰め城」だ。

千早城のある山頂付近は、崖のような谷にへばりつくように木々が生い茂っている。ちゃんとした道があっても急坂を登るのはキツく、ましてや崖をよじ登るなどそれだけで疲れ切るだろう、というか登れない。

攻め込んでくる鎌倉幕府軍の数については諸説あるが、「太平記」には20万~100万、楠木軍は総勢たった1,000人だったと記述されている。「死んだふり」で九死に一生を得た赤坂城の戦いのときと同様、兵力だけ見れば楠木正成に勝ち目はない。案の定、数にモノを言わせて幕府軍が攻め込む。その力攻めに対して楠木軍は、櫓から落石攻撃と弓矢で反撃。幕府軍は一旦退却し、態勢立て直しを余儀なくされる。千早城は山頂にあることから、楠木軍は山の麓で水を補給しているだろうと考えた幕府軍は水の補給路を断つ。しかし、正成はそれを見越していた。湧き水の場所を確保した上、雨水が溜まるような工夫もするなどして、水の貯蔵は十分だった。

人間は水と睡眠さえしっかりとっていれば、たとえ食べものがなかったとしても2〜3週間は生きていられる。 しかし水を一滴も取れなければ、せいぜい4〜5日で命を落としてしまう。そろそろ水の補給に来るだろうと待ち構えていた幕府軍だが、誰も補給に来ない。困惑していたところに楠木軍は夜襲。持ち帰った幕府軍の旗を城の上で振って幕府軍を挑発した。我慢ならぬと幕府軍が一斉攻撃を仕掛けてきたところに崖から大木や石などを落とし、幕府軍の戦力を削いでいく。

正成にやられ放題の幕府軍は、再び千早城を囲んで、今度は兵糧攻めに転じようとしたが、正成は、今度は夜のうちに城の麓に盾と鎧をかぶせた数十体のわら人形をセット。夜が明けると、そのわら人形を楠木軍だと思い込んだ幕府軍は慌てて動き、城にまんまとおびき寄せられ、再び崖の上から岩石などを落とされて戦力を奪われていく。正成は、千早城の外敵が攻め込みにくい急斜面地形を利して幕府軍を疲弊させていったのだ。幕府軍は次第に打つ手がなくなり、戦の継続を放棄してついに撤退。3ヵ月におよぶ長期戦だったが、20万~100万の幕府軍に対し1,000の楠木軍が勝利するという奇跡は起こった。

「100日戦争」と呼ばれるこの戦で幕府軍を千早城に釘づけにしている間に討幕の機運は一気に高まりを見せ、わずか千人の兵で幕府の大軍を退けた正成の奮闘が諸国に伝わると、地方の豪族たちの蜂起はさらに加速。伊予国、長門国、肥後国など西国の各地で倒幕運動が起こり、幕府側に付いていた足利尊氏や新田義貞も謀反。すっかり手薄になった鎌倉は新田義貞に攻め入られ、鎌倉幕府はついに滅亡する。かたや後醍醐天皇は「名和長年」の協力を得て隠岐からしぶとく脱出。ここに後醍醐天皇による「建武の新政」は始まったのであった。めでたしめでたし?

「笠置山」→道の駅「かなん」→「下赤坂城」「上赤坂城」「千早城」

鎌倉幕府軍が、笠置山の戦いから楠木正成を打倒すべく攻めていった道を辿る旅。笠置山から車を走らせ、「下赤坂城」「上赤坂城」「千早城」と南下するその起点にちょうど良い道の駅「かなん」で休憩した。

道の駅「かなん」は、南阪奈自動車道の羽曳野ICから大阪外環状線(国道170号線)と国道309号線を通り南に約8キロ、 大阪府南東部の河南町にあるがのだが、私は京都府相楽郡の笠置山から向かったので、国道369号から奈良市内を経由する地道ルートで向かった。

小さくて地味なのに人が集まってくるのはなぜ?

道の駅「かなん」は、物産館と農作物直売所に小さな喫茶スペースがあるだけの、少々小ぶりな道の駅だった。 ところが、年間80万人の来場者がある人気駅だという。

週末は約50台の駐車スペースが完全に埋まってしまうくらいに多くの人でごった返すというから驚きだ。 理由の一つはもちろん交通の便だろう。大阪市、堺市などから約1時間、私も奈良市を抜けるとすぐに着くことができた。

でも、他の理由もきっとあるはずだ、ということで、トイレと小休憩目的での立ち寄りだったが、ざっと施設内を回ってみた。トイレはごく普通。

休憩用のベンチも、なんか素朴でいい感じ。

見たことも無い「なにわ野菜」を販売

人気の理由の二つ目がいきなり見つかった。農作物直売所で販売されている「なにわの伝統野菜」、これが人気に違いない。 毛馬胡瓜、鳥飼茄子、勝間南瓜、玉造黒門越瓜、黒皮大根、紅芯大根、ルッコラなどがあるというのだが、私など見たことも聞いたことのでどれがどれやら何が何やらさっぱりわからない。

紅芯大根

紅芯大根、黒皮大根は見たまんまなのでわかったがw

黒皮大根

ルッコラってハーブだと初めて知った。

その他にも珍しい野菜が販売されている。 一つは「黒皮大根」でその名の通り皮が真黒な大根。皮を剥げば白い大根が現れる。 もう一つは「紅芯大根(こうしんだいこん)」。こちらは皮は白くて中が真っ赤な大根。甘い大根でサラダにお勧めだそうだ。 「谷川養鶏の赤たまご」もスペシャル感たっぷり。

もちろん普通の野菜も。水菜、ほうれん草、カブラ、茄子、レタス、大根、にんじん、ジャガイモ、さつまいもなどスーパーで見かける野菜は揃っている。

物産館では入り口付近に「竹炭」が結構なスペースをとって販売されていた。竹炭は、空気清浄や食品の鮮度保持、床に敷いては調湿効果、炊飯器に入れてはご飯をふっくら、 風呂に入れてはアトピー防止等々、様々な効果があるという。

米粉パンを使ったスパゲッティ、カレーパン、ラスク、明太子ピザ、昔ながらの餅菓子「よもぎ餅」「よもぎ団子」「黒豆大福」「古代米ねこ餅」、奈良県特産の「かき餅」「奈良漬け」、こんにゃく製品もたくさんあった。

ガーデニングが趣味の人たちで賑わう

物産館の奥と駐車場脇の2箇所では花販売が行われており、墓花、仏花からシクラメン、バラ、ポインセチア等の観賞用の花まで、とてもたくさんの草木、花々が販売されている。

これがとても充実していて、賑わってもいる。人気の秘密の三つ目はきっとこれ。ガーデニングが趣味の人たちの拠点となっているようだ。

楠木正成は火と人形で幕府軍をおびき寄せたが、道の駅「かなん」は野菜と草花で人を寄せている。なかなかやるもんだ(笑)