
成人映画館、あるいはポルノ映画館、かつては大人の娯楽の殿堂だったが、今や絶滅危惧種、日本各地で風前の灯火となっています。四国で頑張っていた「貞光劇場」も、ついに力尽きて2011年に閉館しました。貞光劇場は1932年に建てられ、のちに映画館に転じて、徳島県最古の現役の映画館として活躍しました。窓やエントランスなど凝った造りで、閉館して13年が経ちますが、今でも廃墟マニアが訪れているようです。
私は歴史大好き人間ですが、「専門分野を3つ挙げろ」と言われれば、一つは縄文時代、二つ目は戦国時代、そして3つ目は、戦後日本のサブカルチャーだと答えてきました。お堅い歴史好きの人には、花街など、人間の欲望を避けて通ろうとする向きがあります。私にすれば、綺麗事もいい加減にしろ、です。「欲望発散の場」のない都市など、日本にも世界にも、歴史上一つとして存在しないのですから。
というわけで、きょうは徳島県「貞光町」に来ています。貞光町の娯楽の殿堂でもあり、ポルノ映画上映の聖地でもあった映画館「貞光劇場」の閉館から13年。年々廃墟化が進む92年前の建物はいつ取り壊されても不思議ではありません。最後に一目見ておきたくなりました。
徳島県最古の映画館は、成人映画館となり2011年に閉館
どの街にも成人映画の上映館はあったろう。私が住む明石市大久保町にも、「大久保劇場」という小さな成人映画館が頑張っていたが、1988年、バブル絶頂の頃に地上げにあって閉館した。ありし日の「大久保劇場」にはよくお世話になったが、ここで最後に成人映画を観たのは、京都の大学に行くため下宿を探したその帰り、あれは1978年の3月初旬だったと思う。ガラガラというか、客は私だけでびっくりしたことが忘れられない。この1978年の映画館名簿では、経営者・支配人ともに古川高久、木造2階、590席、邦画・洋画を上映とある。それが1988年の映画館名簿では経営者・支配人ともに古川美千代となっているからご主人は亡くなって奥様に代わっていたのだろうが、この年に閉館となった。跡地は「大久保駅前保育所」となり、利用者は大人から子どもへと変わったw
さて 貞光劇場は、徳島自動車道の美馬ICから国道438号線→国道192号線を通って南東に3km、 徳島県北部の旧貞光町(現つるぎ町貞光)にある。劇場が建ったのは昭和7年。できたときは芝居小屋で、2階に桟敷があったようだ。1階は平場だったのを映画館の椅子に改装し、「徳島県最古の映画館」として歴史を刻んでいく。



切符売り場。閉館前の入場料は1,000円均一だった。「切符」を買って入館したつもりになって、徳島県最古の映画館で上映されてきた成人映画の歴史を振り返ってみよう。
貞光劇場で上映されてきた成人映画の歴史
昨今はアダルトビデオ、Vシネやエロ漫画が主流だが、それ以前、1960年代から80年代にかけてまだ家庭用「ビデオデッキ」なるものが普及する以前は、日本中の映画館でピンク映画が上映されていた。
まず敗戦後の日本で、戦時中の国策映画とは全く異なる自由な表現が登場した端緒は、黒澤明監督の「わが青春に悔なし」(1946年東宝)だった。それまで清純派で売っていた原節子の乳首まで透けて見えるシーンは、戦中には全く考えられなかったことだった。
当時はまだ作家だった石原慎太郎・元東京都知事原作の「太陽の季節」が1956年に日活より公開されると、その奔放な若者の描写が問題視された一方、酒、タバコ、そしてセックスに溺れていく若者の姿は一定の支持を得、「太陽の季節」に続いて製作された「狂った果実」(1956 日活)、「処刑の部屋」(1956年 大映)といった「太陽族映画」は一部の映画館で自主規制され、現在の映像倫理委員会(映倫)が作られるきっかけとなった。
大島渚から始まった松竹ヌーヴェルヴァーグ
1960年になると、日本映画の「ニューウェーブ(仏語でヌーヴェルヴァーグ)」って今や死語だが、当時そう言われた映画が生まれる。まず大島渚が「青春残酷物語」(1960年松竹)を発表。太陽族映画が比較的裕福な中産階級の家庭の若者だったのに対し、大島の作品は低所得層の若者をテーマにした。
それまでの映画と違ったのは、オールロケ・同時録音・即効演出によるリアリズムへの追求だ。その後大島は「太陽の墓場」(1960年松竹)で、大阪・釜ヶ崎にるおけ売血、売春、戸籍売買など日本の最底辺の人々の生活を描いた。

これはタイトルからも明らかなように「太陽族映画」を揶揄するものであったろう。
映画斜陽の時代に迎えた「ピンク映画」の最盛期
また、60年代に入ると、大映・松竹・東宝・東映・日活の大手五社だけでなく、大蔵、国映といった、独立系プロダクションにおいて性と暴力の表現はより過激に、政治的・社会的メッセージはよりの強いものが低予算・少人数で製作された。そして「ピンク映画」の総興行収入は、1964年がたったの1億円だったのに翌年には5億円と5倍増。急成長を遂げていく。
ただ、家庭用テレビの普及と娯楽の多様化で、映画業界全体としては冬の時代に突入する。シネマコンプレックスなど現在の映画施設ができる以前、映画館には「封切館」という大手5社の新作映画を上映するものと、それらを何週間も遅れて上映する「二番館」「三番館」があった。「ピンク映画」はもちろん二番館・三番館で上映され、割安な値段で二本立て、三本立ての上映で映画館の閉館を防いだ。この貞光劇場が持ち堪えてきたのも、「ピンク映画」あってのことだった。
この冬の時代に、全国の封切館は1960年の7450館から1969年には3600館と半数以下となり、1960年に日本国内で製作された総映画数は、奇しくも封切館数とほぼ同数の7457本もあったが、1970年にはこれも半減してしまったが、なんとその半数は「ピンク映画」が占めていた(笑)。
「ピンク映画界の黒澤明」登場、そして大映の倒産
若松孝二監督はピンク映画のカリスマ。「ピンク映画界の黒澤明」と呼ばれた人だ。1963年に「甘い罠」でデビューし、1965年に撮った「壁の中の秘事」(若松プロダクション)を、その年のベルリン国際映画祭に、大手5社の映画を差し置いて出展し、「国辱」と罵られた。同じ1965年に発表された武智鉄二監督の「黒い雪」(日活)は、横須賀の米軍基地の隣にある米軍向けの売春宿を舞台とし、猥褻物として起訴されたが、武智監督は「反米映画の民主的な映画」と主張し、第二審で無罪を獲得した。
1960年代後半には、ピンク映画の勢いは大手5社を脅かすようになる。ヤクザものや時代劇で知られる東映がピンク映画の真似事を始める。しかし東映所属の女優はあまり脱いでくれなかった為、当時の岡田茂プロデューサーはピンク映画経験者を積極的に登用し、1968年に「徳川女系図」を発表。「東映ポルノ」の新路線を開拓する。その後東映は「エログロ」をエスカレートさせていく。
日活も試験的に「女浮世風呂」(1968年 井田探監督)を発表。後の日活ロマンポルノへの布石となる。 大手5社の中で、東映・東宝・松竹は大映・日活に比べて比較的規模が大きかった。東映の専門は時代劇とヤクザ映画、東宝は「ゴジラ」に代表されるような特撮、松竹は歌舞伎の興行を独占していたので経営に余裕があった。しかし大映と日活はピンク映画の影響を直に受け、ダイニチ映配という会社を設立したが長くは続かなかった。そして1971年に大映は倒産する。
「日活ロマンポルノ」の誕生と衰退
1950年代に「太陽族映画」で一斉を風靡した日活は、20年後の1971年からピンク映画一本に路線を変更した。これが「日活ロマンポルノ」である。「日活ロマンポルノ」は、当時予算300万円でピンク映画を撮っていた独立系プロダクションとの差別化を図り、1本当たりの製作費を倍以上の750万円とした。さらに自社スタジオや衣装を既に持っていたため、制作者にとってクオリティの高い環境を用意できた。映画の尺を70分とし、10分に一回の濡れ場を固定ルールとした。それさえ守ればどんな映画でも作る事ができたので、たちまち若手監督の登竜門になっていく。
その後日活ロマンポルノは1988年にブレイクするアダルトビデオに息の根を止められる。ピンク映画は今でも製作はされてはいるが、やはりより過激化したアダルトビデオの勢いには比べるべくもない。ちなみに日活ロマンポルノは2016年にリブート(再始動)プロジェクトで蘇り、園子温・中田秀夫・行定勲・白石和彌・塩田明彦という監督陣が日活ロマンポルノを製作した。
貞光町の本来の見どころは「うだつの街並み」
貞光町には、商家が並ぶ古い町並みが残されている。貞光町としては、こちらが「表の観光対象」にあたる。「裏の観光対象」である貞光劇場のある国道192号の旧道沿いではなく、往年の商家は剣山方面へ続く国道438号の旧道沿いに並んでいる。ちなみにこの国道438号は、「ヨサク国道」こと国道439号線とともに四国山地の神髄を堪能できる道であり、地元の方曰く、ここを走破せずして四国は理解できないということだ。

今年、同じ県西の商都、脇町の街並みも見て歩いたが、吉野川の舟運を基盤として繁栄したのに対して、貞光町のそれは、の徳島の「サンブン」地方への入口として発展した。徳島県を大きく分けると、「キタガタ」と「ミナミガタ」と「サンブン」の3エリアがある。キタガタは吉野川の作った平野部分、ミナミガタはそれより南の海沿いの地域。それ以外は四国山地の山深い場所で「サンブン」という。

貞光町は、その剣山地方からの林産物の集積地として、また、剣山地方への物資の流通基地として、大いに繁栄した町なのだ。町並みの特徴は、この写真の商家にも見られる「うだつ」だ。

「うだつ」は漢字で「卯建」あるいは「梲」または「棁」と書くが、商家の屋根の上に作られる土塀のことである。延焼を防ぐための防火壁という実用性が言われているが、どちらかといえば富の象徴の意味合いのほうが強いらしい。

卯建を屋根に設置することを「ウダツを上げる」という。逆に「ウダツが上がらない」とよく言うが、これは「商才がなくて成功しない」と言う意味って、私のことやないか〜い。
町並みの姿はどんなところであれ、歴史的、経済的な必然の結晶だ。どの街並を訪れても、そこにあるものは異なる産業基盤、異なる価値観、異なる生活の現在地だ。それを観光地化しようとすると、違和感のある土産物屋などができて景観を邪魔するものだが、この貞光町の街並みにはそうした邪魔がまだなく、「表貞光」には静かに発展してきたままを、「裏貞光」には住民たちの娯楽の殿堂を閉館後も残していて、その歴史をリアルに感じることができる。

街中にある道の駅「貞光ゆうゆう館」
この場所には道の駅「貞光ゆうゆう館」もある。

旧貞光町の人口密度は東京23区の100分の1以下だが、 人口の殆どは、吉野川と貞光川に沿ったこの狭い平野部分に集中しているので、貞光館も娯楽の殿堂として長く生きながらえてきたし、道の駅もおそらく地元客をあてにしてオープンしたのだと思う。

駐車場は、国道側はこんな感じ。かなりの台数を停めることができる。



施設の裏側にも、駐車場がある。ここにもそこそこ止められるが、たぶん地元の人で住宅街に住む人たちはこちらの方が便利な人も多いだろう。



南方にそびえる剣山に向かうバスもこの駐車場から出ている。

私は、施設裏のトイレを使わせていただいた。



休憩スペースも、施設裏の駐車場前が、静かで落ち着ける。



さて、つるぎ町が誇る特産品と言えば「半田手延べそうめん」だ。 四国山脈から吹き降ろす冷たい風、吉野川の澄んだ水という、この土地の風土の特徴を生かした素麺は200年の歴史を持つ。全国乾麺グランプリでは2年連続のグランプリを受賞するなど、全国から幅広い支持を集めている商品である。
観光客には半田そうめん、地元の人には農産物


「半田そうめん」はつるぎ町半田地区で生産されている素麺の総称であって、メーカーはカネマル製麺、吉田屋、北室白扇、前田製麺など、およそ10のメーカーの半田そうめんが物産館で販売されている。 各メーカーごとに「極太」「手延べ」「麺美人」など、様々な製品がある。カップ麺まであるので、 観光客はどれにしようか、選ぶのも大変だが楽しいだろう。
その中で、「ふしめん」に注目される方は通である。「ふしめん」とは、麺を竿で引き延ばした時、竿にかかって折れ曲がってしまった部分だ。 正規品としては出荷できない、いわゆる「不適合品」と扱われていたが、 素麺を作る時に一番力がかかっている部分で、一番おいしい部分でもある。 以前は関係者の間のみで食べられていたが、 口コミによって人気が上昇。 現在では本駅を始め幾つかの直売所で購入できるようになっている。 コシが強くてとても美味しいのに値段は正規品と比べて3割程度安い。
阿波尾鶏や半田そうめんを味わう
「食」の施設としては、地元の食材を使った地産地消の道の駅レストランと、「そうめん館」の2つがある。
レストランでは徳島県のブランド鶏肉「阿波尾鶏」を使った定番料理の「阿波尾鶏鉄板焼き」「阿波尾鶏唐揚げ定食」「阿波尾鶏カレー」などが人気。「ハンバーグ定食」「ナポリタン」などの洋食定番もある。「ゆうゆう御膳」は値が張るが、阿波尾鶏鉄板焼き、アメゴの塩焼き、半田そうめん、自家製豆腐など、つるぎ町の自慢の料理を一度に味わうことができる。

「そうめん館」は半田そうめんの専門店。「冷やしそうめん」「冷やしぶっかけそうめん」「釜揚げそうめん」「釜玉そうめん」の4種類の素麺をワンコインで味わうことができる。 そうめん館は本駅の建物の3階にあるので眺望も抜群。貞光の街並み、吉野川や四国の山々を見ながら食事を楽しむことができるが冬期は休業となる。