道の駅「空の夢もみの木パーク」にて。二宮忠八の空への想いに感動!(トイレ○仮眠○休憩◎景観○食事○設備△立地○) 

飛行機の祖、二宮忠八の記念館を併設

高松自動車道の善通寺ICから国道319号線(途中から国道32号線併用区間)を南に12キロ、 香川県西部のまんのう町に本駅「空の夢もみの木パーク」はある。 この国道32号線は、もみの木の群生から「もみの木峠」と名付けられたその峠沿いにある道の駅なので、「空の夢もみの木パーク」と名付けられたそうです。

でも、なぜロマンチックな「空の夢」という言葉が「もみの木」にくっついているのでしょうか?

実は、飛行機発明の祖と呼ばれる二宮忠八という人物が「空の夢」の由来です。「もみの木峠」は、二宮忠八さんが世界で初めて飛行機の原理を着想した場所。 その後、彼は世界初の有人飛行を目指し、「玉虫型飛行器」の完成に向けて日夜研究をしていたのですが、あと一歩のところでライト兄弟に越されてしまいます。

と言うことで、この道の駅には二宮忠八記念館が併設され、つくば科学万博にも出品された翼長8メートルの玉虫型飛行器など貴重な資料が多数展示されています。

毎週水・木曜日が定休なので、平日に二宮忠八記念館を利用される方は、月、火、金のいずれかの日に向かってください。

駐車場、トイレは?

施設横の飛行神社側から見ると向こうにモニュメントがまさに飛び立つように見えるが、駐車場はその滑走路のように長い。

ごく普通のトイレで気持ちよく使わせていただいたが、車を停める位置によっては遠くなる場合がある。

二宮忠八記念館以外は農作物直売が中心

道の駅の施設は、二宮忠八記念館以外には、物産館、農作物直売所、レストラン。 中でも物産館建物内の約8割のスペースを占める農作物直売所は、地産の農作物がたくさん。

干し柿は人気なのか、最後の一つ以外、売れてしまっていた。

農産物以外の特産品も多彩

近隣の丸亀市のご当地グルメ「骨付き鶏カルパス」、地元企業の味源が開発したパクチーミックスナッツ、パクチーチップス、パクチー柿の種、パクチーポテトサラダなどのパクチー関連商品、ひまわり油、ガーリック入りオリーブオイルなども特産品として販売されていた。 おかき、煎餅など、昔風の菓子類は実にいろいろなものが販売されている。

レストランでは麺類メニューが中心

道の駅「空の夢もみの木パーク」のレストランでは、ワンコイン予算で済む「しっぽくそば/うどん」がオススメ。里芋、大根、人参、ゴボウ、マコモ、椎茸、鶏肉、油揚げが入った具沢山のメニューでコスパ抜群だ。地産の牛肉を用いた「肉そば/うどん」もほぼワンコイン。「かけそば/うどん」「きつねそば/うどん」はさらに安い。麺類メニューにおにぎり、小鉢、果物が付いた「定食セット」もあるので、麺類が好きな人は満足できると思う。

すぐ隣には飛行神社が

道の駅の施設ではないが、隣の敷地は飛行神社だ。この神社を創建したのは二宮忠八。世界がいよいよ飛行機の時代へと動き、飛行機による犠牲者が多く出始めてようになっていったが、忠八は飛行機の開発を志した人間としてこれを見すごすことはできないと、飛行機事故犠牲者の霊を慰めるために大正4年に八幡(現在地)の自邸内に私財を投じて飛行神社を創建。航空安全と航空事業の発展を祈願したのが当神社の起こりだ。現在の社殿、拝殿、資料館は、平成元年飛行原理発見100周年を記念して、二宮忠八翁の次男二宮顕次郎によって建てられたものである。

二宮忠八の業績と人生から学ぶ「夢のパワー」

慶応2年(1866年)6月、二宮忠八は海産物を商う二宮家の四男として生を受けた。少年時代、忠八はおとな並の考えをしばしば述べて、変りものとみられていた。12歳のとき父がこの世を去り、忠八は若くして働くこととなる。忠八が初めて空に何かを飛ばしたのは明治13年のこと。伯父の薬種商の手伝いをするうち、物理や化学に深い興味を持ち、また測量技師の手伝いをするなど働きながら独学で得た知識を生かして、独創的で奇抜な凧を作って飛ばしたのだが、これは人々の関心を呼んで「忠八凧」と呼ばれた。

その後忠八は、明治20年(1887)12月、丸亀の歩兵第12聯隊付の看護卒として入隊する。明治22年11月、四国山岳地帯で行なわれた秋季機動演習中に、現在道の駅「空の夢もみの木パーク」となっている香川県仲南町樅ノ木峠の地で昼食をとっていると、烏が4~50羽残飯を求めて谷を横切り、翼を広げ固定翼で滑空しているその姿、そして残飯を狙うカラスが滑空して舞い降りる様子から、航空力学の原理に気づいた。カラスは翼を広げ、羽ばたくことなくすべるように舞い降りてくる。飛び立つときには何度か大きく羽をあおって、すぐに谷底からの上昇気流に乗って舞い上がっていく。その様子を見ながら忠八は、向かってくる風を翼で受け止め、その空気抵抗を利用すれば翼を羽ばたかなくても空を飛ぶことができるのではないか、と考えた。それが、のちに忠八が空を飛ぶ機械(飛行機)を発明する大ヒント(飛行原理の発見)となった。忠八の生涯を描いた吉村昭の小説「虹の翼」(文春文庫)にも、「 カラスの両翼が、わずかではあったが空気をうけとめるように上むきに曲げられていたことに忠八が着目した」とある。

その後、研究を重ねた忠八は、聴診器のゴムを動力にした「烏型模型飛行器」を作り、36メートルの飛行を成功させた。さらに研究を進め、今度はタマムシが飛ぶ様子からヒントを得て約2メートルの「玉虫型飛行器」の模型を完成させたが、動力の問題から実物を完成させることはできなかった。忠八は、次に人の乗れる玉虫型飛行器を考案し、明治26年設計を完了したが試作実験に入る矢先、日清戦争が起って出兵を余儀なくされる。忠八は戦場の様子を見て、自分の考えている飛行器を軍に供用すれば、便利であろうと考え軍用機としての開発を設計図を上申書に添えて願い出たが、却下された。その後再度上申するも、ついに認められることはなかった。

忠八は、もはや独力で作るしかないと決意して軍を除隊。日頃より信仰の強かった讃岐の金刀比羅宮に参詣して、飛行機の独力完成を祈願した。これが明治31年忠八33歳のときである。資金を稼ぐために大阪の製薬会社に勤務。京都府八幡市に居を構え、30歳代半ばに飛行機の制作をようやく再開。しかし、完成を見る前に、ライト兄弟が飛行に成功したことを知ると男泣きに泣き、作りかけていた飛行機をハンマーでたたき壊したという。自分が飛行機を作ったとしても「欧米追従の飛行機」「ライト兄弟の眞似をしたと」いう評価しか受けないだろうと、飛行機の開発から身を引いてしまう。

忠八の功績は、有人飛行機を飛ばすには至らなかったが、ライト兄弟が成功する14年も前に飛行原理に着想していたこと。また、忠八が研究に費やした時代背景として、まだ日本に電気はなく、動力もままならない時代でもあったにもかかわらず、夢の実現に向けて研究に没頭したこと。その人生、生き様から「日本の航空機の父」または「飛行機の真の発明者」と称されるようになった。

忠八は昭和11年、70歳でその人生を終えたが、人生でただ一度だけ飛行機に乗ったことがある。この時飛行機で飛んだ気持ちについて、「若いころ毎晩夢で見ていた飛行機に乗る気持ちと全く変わらなかった」と語ったという。忠八を飛行器の開発に駆り立てていたのは、きっと少年の日に胸にあった空への大きな夢だったに違いない。

私の少年時代にも夢はあった。エリッククラプトンが白人ながら独自のスタイルのブルースを見出したように、日本人である私も独自のスタイルを持つブルースミュージシャンになりたいと。今も音楽は続けているが、生きている以上、私も夢は追いかけていこう。二宮忠八さんの人生を学んで、改めてそう思った。