道の駅「熊野・板谷九兵衛の里」から「丸山千枚田」「赤木城跡」「布引の滝」へ!(トイレ○仮眠○休憩◎景観○食事○設備△立地○) 

お彼岸といえばお墓参りですね。その「お墓参りをすると御利益あり」と伝えられているのが、熊野市紀和町の板屋九郎兵衛の墓と、その妻・お菊の墓です。写真は本物のお墓ではなく「レプリカ?」ですが、本物の九郎兵衛の墓に触ると願いが叶い、これまた本物のお菊の墓に参るとあらゆる勝負ごとに御利益があるとして、根強い信仰を集めています。

伝説によると、道の駅の名前の由来ともなった板屋(玉置)九郎兵衛(くろべえ)さんは、江戸時代に妻のお菊さんと仲睦まじく暮らしていた実在の人物です。板屋の里は当時、全国から荒くれ者が集まる鉱山の土地で、毎夜博打やケンカが繰り返されていました。九郎兵衛さんはその博打の胴元であると同時に義理人情に厚い人柄から庄屋も務めていました。

しかしある日、不在だったお菊さんを、他人の噂から『駆け落ちした』と勘違い。薄暗い中の布団で幼子と一緒に寝ていたお菊さんを見つけると、鉄砲で撃ってしまったといいます。ひどく後悔した九郎兵衛さんは頭を丸め、懺悔のため入定(即身仏になること)することにしたが、入定の間際に「つらい時は頼みに来いよ。一度は必ずかなえてやるぞ」と、村人に言い残したといいます。

また、九郎兵衛さんは博打場へ出かける際に必ずお菊さんの肩を軽く叩き、そうすることで必ず博打に勝っていたのだと。このような事から、九郎兵衛さんのお墓に触ると「一度は願い事が叶う」と伝えられ、お菊さんの墓にお参りすると「競馬やパチンコなどの勝負事に勝つ」と伝えられていて、今も二人の墓は板屋の人たちの手で守られているのです。

ギャンブラーの聖地

実際に「願いが叶った」「競馬に勝った」という手紙も多数寄せられており、その噂を聞いた人たちが市内外から参拝に訪れているとのこと。

九郎兵衛さんの「本物のお墓」は国道311号沿い市営住宅第3所山団地裏手。団地敷地内に駐車場が確保されており、案内看板や階段への手すりも設置されている。

一方のお菊さんの「本物のお墓」は道の駅から板屋川を挟んだ川向う。山道の入り口までは車で侵入でき、駐車場やトイレもある。案内看板が設置されているが、手すり等はなく、天候の良い日がおすすめ。

熊野の山中に佇む「超」がつくほどのパワースポットで、「勝運伝説」にあやかれると言うが、これを信じすぎるのはいかがなものかと思わなくもない。信心するのは自由だが、くれぐれもほどほどになさるのがよろしいかと(笑)。

道の駅「熊野・板屋 九郎兵衛の里」

さて 道の駅「熊野・板屋 九郎兵衛の里」は、三重県南西端の旧紀和町(現熊野市紀和町)にある。平成30年4月7日にオープンした比較的新しい道の駅だ。紀和町は、熊野市の山あいにある美しい町で、近くには日本一美しい棚田美と云われる丸山千枚田や築城の名手藤堂高虎が築いた赤木城跡、布引の滝などがある。

私も、これらの名所を訪ねるためにこの道の駅に立ち寄ったのだが、この立て看板を読んで、思わず二人の「墓のレプリカ?」にタッチしてしまった。あとで邪念ありすぎを猛省した次第。

すぐそばに、木製の大砲が置いてあってこちらも目を引くが、これは九郎兵衛さんとは無関係。かつて天誅組に対抗すべく、自生の松をくり抜き、竹を巻いて作った「北山砲」と呼ばれる大砲である。

道の駅「熊野・板屋 九郎兵衛の里」駅は、物産館とフードコーナーからなる比較的小さな道の駅で、 木造の建物の入り口付近に物産館、少し奥にフードコーナーがある。 場所的にも、施設規模的にも、訪れる客は少ないように思う。

じゃばらV.S.新姫、どちらがセンターに立つ?

「AKB」や「けやき坂」などアイドルグループのセンター争いは熾烈だが(笑)、「物産館のセンター争い」、つまり入り口正面付近の最も目立つ商品陳列棚にどの商品を置いてあるかということでその道の駅の看板商品がわかるというもの。現在この物産館のセンターに置かれているのは、県境を跨いだ隣村、「北山村」の特産品「じゃばら」である。

「じゃばら」は柚子、紀州みかん等が自然交配した柑橘系果物で、近年花粉症に効果があることが報じられ、全国的に大ブームが起きている商品。しかし、あくまで隣村の商品である。

野球で言うなら、4番バッターをFAやトレードで獲得した「外様」に任せるのか、それとも最初から自前で育成した「生え抜き」が務めるのかと言うこと。本来ならば、熊野市の特産、紀和町の特産品がセンターに立つべきではないか。と言うことで、虎視眈々とセンターを狙っている候補が「新姫(にいひめ)」というこれまた柑橘系の果物だ。 こちらは癌の予防や血糖値の上昇を抑える効果があると強調して、花粉症に効果ありでブームとなった「じゃばら」に対抗しようとしている。

しかし現時点では、売れ行きは「じゃばら」が明らかに優っているため、新姫関連商品はじゃばら関連商品の奥の棚に置かれ、奥歯でハンカチを噛みしめながら?「センター」を羨ましげに?見ているように感じた(あくまで個人的な感想です)。私にはそんなふうに見えた「新姫」の関連商品は、「新姫サイダー」「新姫ドレッシング」「新姫塩ポン酢」「新姫葛餅」など。 「じゃばら」と言う強烈なインパクトがあるネーミングに比べると「新姫(にいひめ)」はいかにもお上品。

道の駅 | 熊野・板屋九郎兵衛の里 | 新姫ドリンクと新姫キャンディー

さて、「新姫」は実力でセンターを奪うことができるだろうか。

フードコーナー

フードコーナーのイチオシは、新姫が入った「新姫うどん・そば」。これは本駅ならではのメニューだ。 そして、「熊野地鶏」を使ったメニューとしてNo.1のメニューは「熊野地鶏ラーメン」。 白湯スープをベースにじっくりと仕込んだスープと柔らかい熊野地鶏が絶品とのこと。 同じく熊野地鶏を使ったメニューとしては「熊野地鶏の親子丼」がある。 「気まぐれ牛カレー」「豚生姜焼き丼」も美味しそうだ。

駐車場での仮眠、トイレ、休憩場所としてはどうか?

駐車場は決して広いわけではないが、失礼ながら訪れる人の数を考えると十分なのだと思われる。

トイレも、位置も大きさも、そして清潔さも、まったく問題ない。

休憩場所もこれだけあればいいと思う。

丸山千枚田、赤木城跡、布引の滝へ

車で15分以内の場所に「丸山千枚田」と「赤木城跡」がある。布引の滝もそれらより少し離れていて、しかも道がうねうねしてはいるが、それでも車で30分もあれば着く。

まずは熊野市の丸山地区の丸山千枚田。日本の棚田百選にも選ばれているが、その際立った景観は、日本一の棚田景観とも言われている。「一枚足りないと思ったら笠の下にかくれていた」といわれる位、小さな田が幾重にもかさなり合っていて、その数はなんと約1340枚ほどもある。まさに千枚田だ。

この棚田がいつ頃造成されたかは不明だが、西暦1601年(慶長6年)には2,240枚の田があったという記録が残っている。しかし昭和40年代半ばから始まった稲作転換対策による杉の植林や昭和50年代以降の過疎・高齢化による耕作放棄地の増加によって、平成初期には530枚までに減少。地元住民たちはこれに危機感を募らせ、「自分達の代でこの貴重な文化遺産を無くすわけにはいかない」「素晴らしい景観と農耕文化を後世に残し伝えていかなければならない」と立ち上がって、平成5年に丸山地区住民全員による丸山千枚田保存会を結成。丸山千枚田の復元と保全活動が始まった。

丸山千枚田

次に、赤木城跡。赤木城は、天正17(1589)年頃、反対勢力を抑える目的で藤堂高虎によって中世と近世の築城法を併用して築城されたといわれる平山城で、近世城郭の萌芽ともいうべき城郭機能が中世の城郭に見事に加えられた名城だった。具体的には、尾根を利用した郭配置は中世山城の様相を引き継ぐもの。その一方で、高く積まれた石垣や発達した虎口などに近世城郭の要素も見受けられるのである。主郭には桜が多く、桜の名所としても知られているが、朝もやに浮かぶ城跡は幻想的で、兵庫県の竹田城跡と並び称される「天空の城」でもある。

藤堂高虎は、天正13年(1585)の紀州攻めの際に北山入りし、文禄4年(1595)、四国伊予三郡を与えられるまでの11年間、北山付近に在居した。この間、天正15年(1587)の北山一揆で一揆方を成敗したり、北山材の切り出しを行ったりしており、この頃に城郭を整備したものと考えられている。近くにある田平子峠刑場跡は、豊臣、徳川両政権の重鎮であった藤堂高虎らの新領主に農民一揆で抵抗した北山の人々が処刑された刑場の跡。こうした新領主に対し、在地の旧来勢力が抵抗を繰り返しながらも鎮圧されていく過程を示す重要な遺跡となっている。

最後に、日本の滝百選にも選ばれている「布引の滝」。長い年月をかけて熊野花崗岩の岩盤を削り取ってできた滝である。滝は四段からなり、一段目は12m、二段目は3.5m、三段目は7.7m、そして四段目は29.1mの落差をもって、滝壺にその流れを落としている。

その名称は、水の流れが大巾の布地を垂らしたように音もなく、飛沫もたてずに流れ落ちる様に由来。清水の落下する光景には大巾の白布を垂らした如くの独特の風情があり、秋の紅葉期にはひときわ美しい景色が楽しめる。付近の森一帯は「きらずの森」として守られていて、「八丁大滝」「松山滝」「荒滝」などもあり、滝めぐりを楽しむこともできる。

布引の滝