道の駅「瀬戸大橋記念公園」にて、二人の「聖通寺城主」の明暗を考える(トイレ○仮眠△休憩○景観◎食事△設備○立地◎)

仕事で大失敗し、惨めな思いをした人はたくさんいるでしょう。私ももちろんその一人です。失敗から学べと人は言いますが、それが「大失態」となると、昔なら改易(かいえき=罪科や不祥事などによって官職や身分、領地などが没収される刑罰)、今なら懲戒解雇や大降格人事みたいな処分を食らうわけですが、こうなると同じ会社で挽回することは難しいということはありますよね。

香川県と岡山県を結ぶ瀬戸大橋の、香川県側の最後の乗り口となる坂出北ICの場所にはかつて「聖通寺城」が立っていました。戦国末期に城主が奈良氏→長宗我部元親→仙石秀久→尾藤知宜→生駒親正と入れ替わり、天正18年(1590)年に高松城が完成するとあえなく廃城となってしまった城ですが、長宗我部元親の後目まぐるしい城主交代は、仙石秀久と尾藤知宜の相次ぐ大失態によって起こったものです。

さて、仙石秀久と尾藤知宣。2人はともに豊臣秀吉の側近として出世し、聖通寺城主の時代に九州征伐の軍監に任命され、これまたともに失態を犯して没落しました。しかしその後の二人は全く異なる人生でした。挽回した仙石秀久と、そのまま沈んだ尾藤知宣。何が二人の人生の明暗を分けたのでしょうか。二人がともにわずかの期間ながらも城主として君臨した「聖通寺城」の跡地を訪れた後、道の駅「瀬戸大橋記念公園」で考え込んでしまいました。

仙石秀久の大失態とは

聖通寺城の築城時期については定かではないが、一般には応仁年間(1467~69)、奈良元安によって築かれたとされ、代々奈良氏の居城となっていた。奈良氏は天正10年(1582)7月、長曾我部元親の讃岐侵入によって城を落ち、阿波の十河存保を頼って身を寄せたあと、中富川の合戦(同年8月)で当主の討死によって滅ぶ。その後、長曾我部元親の時代をはさんで天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国攻めによって開城となり、秀吉子飼いの仙石秀久へ讃岐10万石の所領とともに与えられる。しかし仙石は、軍監として出陣した戸次川の戦いでの大失態によって改易、追放されてしまう。その顛末はこうだ。

かねて大友宗麟は島津義久・義弘兄弟と交戦していたが、劣勢になったので豊臣秀吉を頼った。秀吉は島津兄弟に停戦を求め、国分案を提示したが、島津兄弟はこれを拒否。こうして天正14年(1586)にはじまったのが九州征伐である。同年、秀吉は仙石秀久に総大将を命じ、九州征伐を敢行した。秀久に従ったのは、虎丸城(香川県東かがわ市)主の十河存保、岡豊城(高知県南国市)主の長宗我部元親と子の信親であった。

秀久の率いる軍勢は、四国勢を含めて約6,000で、これに大友勢が加わって総勢およそ20,000だったといわれている。数は多かったが、秀久率いる連合軍には致命的な問題があった。そもそも四国において、秀久は存保とともに豊臣軍の一員として、四国征伐で元親と交戦していた(四国征伐)。その結果、秀久らは勝利したが、やられた元親親子にはその時の怨念があったのだ。

そんな秀久軍には豊臣軍の本隊が駆け付ける予定だったが、なかなか到着しなかった。元親は豊臣軍の本隊を待とうと意見したが、一刻も早く島津勢を叩こうと考えた秀久は、元親の意見を退けて決戦に臨む。この判断が大間違いだった。秀久勢は島津勢を攻めるも(戸次川の戦い)大敗北を喫したうえに、信親と存保を戦死させてしまう。元親は伊予へ敗走し難を逃れたが、小倉城(福岡県北九州市)に撤退した秀久は秀吉から敗北の責任を厳しく問われ、改易されて高野山(和歌山県高野町)に追放されたのである。この大失態から学べることは、「俺が俺が」と功に卑しいことの危険、約束を守らないことの罪、そして「急いては事を仕損じる」ということだろうか。

もともと器として問題があった千石秀久

秀久が聖通寺城を与えられたのが天正13年8月、改易が天正14年12月なので、彼が城主だったのはわずか1年4か月。しかも後半は九州征伐(天正14年7月~)への従軍期間と重なるので、城に居たのは1年に満たないだろう。しかしそのたった1年の間に、秀久は苛酷な徴税と、聖通寺山麓において100名余りもの百姓を処刑するという、武将にあるまじきことをしている。聖通寺城主としての仙石は、慈悲も容赦もない支配者像を残している。

秀久追放の後に聖通寺城主となった尾藤知宣の大失態とは

仙石秀久が改易、追放された後、聖通寺城の主となったのは尾藤知宣だ。尾藤は豊臣秀吉がまだ「木下藤吉郎」だった頃からの古い家臣で、かつては神子田正治、宮田光次、戸田勝隆と並び称された中でも最も軍事に通じ、草創期の秀吉を支えた「羽柴四天王」などと呼ばれることもある有力者だった。

仙石の後任として九州征伐軍の軍監となった彼は、すでに宛がわれていた讃岐丸亀5万石に加え、仙石の旧領を与えられた。その尾藤も、天正15年(1587)の根白坂の戦いで苦戦する味方を救援せず、逃げる敵を追撃しなかったという大失態を犯して改易、追放となる。尾藤が聖通寺城主だったのはわずか4ヶ月ほどだったが急ぎ九州へ出動していたので、おそらく実際に聖通寺城に入城することはなかったかもしれない。尾藤が改易されたあとの聖通寺城には天正15年8月、生駒親正が入城。しかし生駒は天正16年(1588)から高松城を築きはじめてそちらへ移り、城が完成した天正18年(1590)以降讃岐の中心地は高松に移ったため、聖通寺城は廃城となったのである。

秀吉という人間を見抜けなかった尾藤とうまく媚びた千石

追放された二人だが、仙石は高野山で蟄居、尾藤は放浪のすえ小田原の北条家に仕えたが、2人が再び秀吉の前に現れたのは天正18年(1590)の小田原征伐のとき。それぞれ正反対の立場で姿を見せている。

仙石は小田原征伐を聞きつけると牢人を集め、自らは糟尾(半白)の兜と白練りに日の丸を描き出した陣羽織を着用し、徳川家の陣を借りて従軍。そして、山中城攻めや小田原城攻めで大手柄をあげたのを秀吉に認められ、罪を許されたうえ信州小諸5万石を拝領し、なんと大名に復活したのである。過去の失敗に学んだのか、その後は豊臣から徳川へと渡る政情もうまく乗り切って、慶長19年(1614)に64歳でこの世を去った。のちに大ヒット漫画の主人公となり、「最も失敗し最も挽回した男」と呼ばれる人生だった。

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一方、尾藤はといえば。天正18年(1590)7月、小田原征伐によって仕えていた北条家が滅亡。秀吉が奥州仕置のため宇都宮から会津に向かう途上、野州那須野(栃木県)において路傍にうずくまる大坊主の姿があったという。

「あれは何者か」

秀吉の問いに、事前に尾藤から付け届けを受けていた馬廻りが答えた。

「あれなるは先年ご改易なされた尾藤甚右衛門と見えまする。あのような姿となってお許しを願い出たものかと…」

しかし秀吉には通じなかった。

「尾藤は我に弓引いた逆臣、それが何の手柄もなく、落城のあとになって罷り出るとは言語道断…」

秀吉は尾藤を引き立ててこさせ、なんとその場で手討ちにしたのだった。

尾藤の過去の失態は仙石に比べると軽いものだったし、「仙石も許されたのだから」と考えたかも知れない。しかし、敵方の北条氏についたことを含め、尾藤は秀吉という人物を完全に読み違えたのだ。

かたや仙石は徳川家に陣借りをして必死の活躍をした。つまり秀吉から見れば間に徳川家康という仲介者が挟まった、ある意味安全な状態を確保した上で、精一杯の媚を売った。仙石は逆に秀吉という人物をよく知っていたのかもしれない。

道の駅「瀬戸大橋記念公園」

たった一つの小さな石標だけしかなくあまりに寂しいものだった「聖通寺城跡」から、北方面に少し下ってあまりに巨大な橋脚が聳える道の駅「瀬戸大橋記念公園」に着くと、二人の人生の明暗だけでなく、430年という歳月を考えても人間というもののあまりにドラスティックな変化について考え込んでしまった。

駅名の通り、本駅は瀬戸大橋の袂にある公園付きの道の駅である。 1988年に完成した瀬戸大橋に関する展示を行う瀬戸大橋記念館を中心に、その規模と充実した施設に圧倒される。有名な道の駅なので、私の拙い紹介は省き、写真のみ残しておくことにする。