
源平合戦の古戦場として知られる「屋島」は、高松市街から東に進んだところにあります。遠くからみると、島にそびえ立つ山がまっ平らな屋根みたいになっていることから、「屋島」という名前がついたそうです。ここは溶岩台地で、山上からは波穏やかな瀬戸の海と一体となった高松市街や瀬戸内の多島美が一望できます。山上には四国霊場第84番札所の「屋島寺」や世界的にも珍しい山頂の水族館「新屋島水族館」などがあり、屋島スカイウェイからの眺望も好評です。ちなみに映画「化石の荒野」「ロード88」「めおん」のロケ地にもなっています。
今から約800年前に源平合戦が繰り広げられた檀ノ浦周辺には、平家が軍船を隠した「船隠し」や、那須与一が扇の的の矢の命中を祈った「祈り岩」など合戦の逸話を伝える史跡が数多く残っていますが、それらも山上から見渡せます。現在の屋島は、浅瀬が埋めたてられたために半島になっていますが、源平合戦の頃は島になっていたそうです。
元暦2年(1185)、源義経率いる源氏軍の攻撃を受け、激しい攻防戦を繰り広げた後に、平氏は敗れ屋島は陥落しました。屋島を失ったことで、源平合戦の趨勢は大きく源氏に傾き、屋島陥落後間もなく、壇ノ浦の戦いで平氏は滅ぶのでした。屋島は平氏の滅亡を決定付けた、歴史的に極めて重要な場所となったのです。
これより前、平家が安徳天皇を奉じて六万寺を行在所としていた頃、海辺の防衛に備えて守り門を築きました。「総門」です。神櫛王墓の北約200メートル、旧庵治街道の傍らにあり、屋島の行宮(内裏)ができるまでは六萬寺を行在所とした平氏ですが、ここに門を構えて海辺の防御に備え、また上陸の拠点としたのです。総門はその遺跡です。やがて源義経が平氏軍を急襲した際、ここはたちまち源氏軍の占領するところとなり、故に里人はここを源氏の総門と言うようになりました。現在に残る衡門は、合戦の遺構を後世に伝えようと初代の高松藩主・松平頼重が再建したものです。

屋島の戦いに至るまで
平安時代後期になると、平氏、源氏をはじめとする武家が台頭し始めた。京都で相次いで発生した「保元の乱」「平治の乱」で勝利した平氏の棟梁・平清盛は、政権で大きな発言権を得るようになる。清盛は1167年(仁安2年)には武士として初めて「太政大臣」の地位に上りつめ、日宋貿易を再開させ、皇族と平氏の間に血縁関係をつくるなどしたが、この増長ぶりに危機感を抱いた後白河法皇をはじめとする院政の勢力は、清盛を失脚させようと画策する。
この策略は見破られ、後白河法皇は平氏によって幽閉。代わりに、平清盛は自身の血を引く安徳天皇を擁立し、平氏の地位を揺るぎのないものへと変えた。1180年(治承4年)、後白河法皇の第3皇子・以仁王は、父と自らの処遇に怒り、ついに平氏討伐の令旨を発布。これにより源頼朝率いる源氏一門が挙兵し、源平合戦へと発展していくのであった。
源平合戦の展開
はじめは優勢であった平氏軍だったが、1180年(治承4年)の「富士川の戦い」を境に、徐々に形勢が反転していく。1181年(養和元年)に平清盛が病没すると、平清盛の三男・平宗盛が平氏棟梁となるが、1183年(寿永2年)の倶利伽羅峠の戦いで木曾義仲に大敗。大軍を失った平家一門は、幼い安徳天皇を連れて西国へと都落ちする。平氏は都落ちをする際、安徳天皇と共に天皇家の宝物である三種の神器を奉じて逃れたため、後白河法皇は平氏追討の院宣を発布した。
平氏は、日宋貿易における拠点となっていた瀬戸内海で体制を整え、勢力を再び拡大したが、1184年(寿永3年)、一ノ谷の戦いにおいて源義経に敗退し、讃岐国の屋島へと逃れてきたのである。
義経は類稀な行動力で屋島を舞台にした戦いへ
平氏軍は屋島に内裏を設置し、長門国彦島(現在の山口県下関市彦島)を拠点に有力な水軍を擁して瀬戸内海の制海権を依然掌握していた。源氏軍は勢いに乗って屋島へ攻め込もうとしたが、本格的な水軍を持たなかったためここで足止めを食らってしまう。1185年(文治元年)、一ノ谷の戦いののち京の護衛に任命されていた源義経は、源氏軍の苦境を知ると西国へと出立する。
『平家物語』によると、元暦2年(1185) 2月、摂津国渡辺(現在の大阪城のあたり)に招集した軍船に「櫓」をつけるか否かで、源義経と梶原景時の間で論争になったとある。景時は「船尾、舳先に櫓を付け、さらに脇舵も付けて、どちらにも回しやすい様にすべき」と主張したが、義経は「初めから逃げ支度など、縁起でもない」と反対。二人は仲が良いとはいえない関係だった。このやり取りの後、義経は郎党はじめごく一部の武士を率いて、200余艘の軍船のうち5艘だけを使い、2月17日の夜、暴風雨の中に船を漕ぎ出したのである。翌2月18日の朝、義経一行は暴風雨を乗り越え、阿波国勝浦に上陸した。早速、現地の源氏方勢力を集めると、平氏に味方する桜間介能遠(さくらばのすけよしとお)の城を攻め落とす。義経の軍事行動は常に速く、休息もそこそこに屋島に向かって軍勢を進め、通常なら2日の道のりをわずか一晩で進んで、2月19日、状況の変化が平氏本陣に伝わらないうちに、屋島の背後まで進出したのだった。
屋島の戦いは義経の奇襲で始まり、そして休戦へ
「屋島(やしま)の戦い」は、平安時代末期の元暦2年/寿永4年(1185) 2月19日、讃岐国屋島(現高松市)で行われた、源義経が四国に逃れ勢力を挽回しようとしていた平家を急襲し破った戦いのことを言う。
当時、屋島は独立した島であったため、平氏は海上からの攻撃を想定しており、平氏の屋島の守りは海側に集中していた。義経はまず周囲の民家に火を放ち、さも大軍が押し寄せたかのように演出して攻撃を開始。まさか逆の背後から襲ってきた源義経の奇襲に平氏は狼狽。大軍に見せかけた義経の狙いは功を奏し、平氏の軍勢は船に乗って海に逃げ出し始める。しかし落ち着いてよく見ていた兵士もいて、攻めて来た源氏軍はごくわずかなものであると確認した平氏の勇猛な武者たちは反撃に移ったのである。
始まった弓矢の射撃戦で活躍した武将は、平家一門中で一番の猛将と評判を受けていた平教経、当時26歳だ。源氏軍大将の源義経を狙い、教経は強弓を用いて次から次へと源氏武者を射抜く。主君である義経の危機を感じた佐藤嗣信は、義経をかばって教経の矢に射抜かれてしまうが、この時のことは『平家物語』には、嗣信の遺言をこう記している。「主君の命に代わって討たれたと、末代までも語り伝えられることは、弓矢をとる身として今生の名目。冥土の思い出です」と。この言葉はまさに郎党の鑑。嗣信の遺言は、これぞ武士の献身道徳であると、私も子どもの頃聞かされた。
かくして戦いは膠着状態となり、両軍に疲労が見えたため、一時休戦となったのである。
休戦の膠着を打ち破った那須与一
陸を占拠したものの、船がないためにそれ以上攻め込めない源氏軍。かたやなかなか屋島奪回に動こうとしない平氏軍。両軍の戦いは膠着状態となっていた。
そんな中、平氏の軍船の中から一隻、舳先に扇を掲げた船が前に出てきた。これは、「この扇を射抜ける人はいるかな?」という戦中の座興だった。さて、弓の腕を問われた源氏軍。これに応えられなければ、平氏から笑い者にされてしまう。義経に選ばれたのは、下野国の武士・那須与一宗高(なすのよいちむねたか)だった。
那須与一は、失敗すれば自害を覚悟したうえで馬を海中に進め、足場の良い岩で馬を止めた。そして、波で船と共に揺れる扇に狙いを定め、見事に扇を撃ち抜いたのだった。見事な与一の腕前に、源氏平氏の両軍からは歓声が上がる。すると平氏軍から3人の武者が渚に降り立ち、大きな盾を浜について源氏を挑発した。この中の一人が、平氏を代表する猛者の一人・平景清(悪七兵衛景清)だった。景清ら3名の平氏武者を討ち取ろうと、源氏軍からは5名の武者が飛び出す。先頭に躍り出た三保谷十郎は、馬が矢を受けて倒れてしまい、逃げようとする十郎と捕まえようとする景清の力比べとなったが十郎の兜の錣が引きちぎれ、十郎は逃げることができた。
景清は引きちぎった錣をブンブン振って、「我こそは悪七兵衛景清」と名乗りを上げ、自分の武勇を誇り、さらに源氏軍を挑発した。これを機に、再び激しい戦闘が繰り広げられる。源氏武者は馬で海に突入し、平氏武者は船上から熊手や長刀で防戦。既に夕暮れ、夕日に血が照らされた渚の戦いはさぞ壮絶だったことだろう。一進一退の激戦は、日暮れとともに終わった。
盛者必衰、平家滅亡への道
翌日、平氏軍は屋島奪還のために、東の志度浦に上陸しようと試みたが、源氏軍に阻まれてしまい、屋島を捨てて西に向かった。一方、義経の軍には新たなる危機が迫っていた。阿波民部重能の嫡男・田内左衛門教能が、伊予から3000騎を率いて屋島に帰ってくるという報が入ったのだ。この数は少数の義経軍にとって脅威的。この危機に対応したのは義経の知恵袋・伊勢義盛。義盛は白装束、丸腰の16騎を率いて教能の軍を待ち受け、教能に面会すると、「屋島は陥落」「安徳天皇は入水」「父の重能は捕虜となった」と虚報を伝える。義盛の言葉を信じた教能は、戦わずして源氏に降伏。教能は捕虜となり、教能が率いていた3000騎の軍は説得されて源氏についてしまったのだった。
2月21日、源氏方の梶原景時が200余艘の水軍を率いて屋島に到着したときは、平氏軍は屋島奪還を諦めて、西に落ち延びていた。この頃は、源範頼によって太宰府も奪われていたため、平氏が落ち延びる場所は、平知盛が守る長門の彦島しか残っていなかった。屋島の陥落により、源氏と平氏との戦いの趨勢は大きく源氏に傾いた。日和見を決め込んでいた各地の武士のほとんどは源氏に味方し、また熊野水軍をはじめとした瀬戸内の水軍衆の多くも源氏に味方することを決める。平氏の運命は、もはや風前の灯だった。そして、彦島に孤立させられることとなった平氏は、壇ノ浦の戦いにおいてついに滅亡する。
道の駅「源平の里むれ」の駐車場、トイレ、休憩環境は?
道の駅「源平の里むれ」は、「総門」跡から東にたった3km。駅名に「源平の里」とうたうだけのことはある最高の立地だ。車で向かう場合は、高松自動車道の志度ICから県道141号線→国道11号線を通って北西に5km。香川県北東部の旧牟礼町(現高松市牟礼町)に所在する。














町内では五剣山の花崗岩を用いた石材業が盛ん。 花崗岩を使ったモニュメントと、ごっついベンチがある。
道の駅「源平の里むれ」の那須与一は、謎の中年男「和男」だった?


道の駅には、駐車場、トイレは当たり前として、物産館、農作物直売所、レストランのほか真念堂と呼ばれる小さな多目的室、芝生が気持ちいい房前公園がある。
まず、道の駅「源平の里むれ」では、中年「和男」を探してほしい。「和男」とは誰なのか、ウォーリーを探せ、もとい「和男」を探せである。
店内の商品はすべて「和男」の解説付き
「和男」は、農産物直売所にいきなりいた。



あらゆる商品に添えられている段ボール片に書かれたコメント、その主が、下の写真の中央やや上に顔のイラストが写っている、それが「和男」である。


物産館は、県内の道の駅では最大級と言える品揃えである。 その商品にいちいち解説を加えているのが中年「和男」だった。
全部ではないが、店内の多くの商品は「和男」の解説付だ。 一言、二言程度の簡易な説明だが、商品購入の際の参考にはなるだろう。 商品説明のパネルで自ら「和男」と記しているので、ここでも敬称無しで「和男」と書いているが、 実は実在の人物で、店長に次いで2番目に偉い方らしい。一部では推し活の対象となっていて、店内で販売されている「和男グッズ」もまあまあの売れ行きだという。






レストランではやっぱり海鮮料理やろ
レストラン「海鮮食堂じゃこや」は瀬戸内海で獲れた旬の味覚をセルフ方式で味わう店だ。 県の魚「はまち」をはじめ「たこ」「えび」「あじ」「牡蠣」「鯛」「イワシ」「サバ」を使った料理は、どれも美味しそう。

「はまちのづけ丼」「天丼五剣山」が人気の双璧。「たこ飯」「地エビのかき揚げ」「ハマチのそぼろ丼」なども絶対うまいだろう!