
月山富田城は標高190mの月山を中心に、飯梨川に向かって馬蹄形に伸びる広大な山城です。一見しただけでは、山の頂に点々と石垣と土塁が残るだけのシンプルな景観。ですが実は、歴史好きの間で日本随一とも評される山城。周囲は断崖絶壁が多く、防衛上、軍政統治上も欠くことのできない立地条件を備えてもいて、中国地方における中世城郭の代表的な城跡とされています。
山頂に主郭部を設け、尾根上に大小多数の曲輪を配した複郭式山城であり、菅谷口、御子守口、塩谷口の3方面からしか攻められず、城内郭の下段が落ちても中段の山中御殿で防ぎ、そこが落ちても主山の月山に登って防ぎ、頂上には堀を築いて鉄壁の守りを固めました。城を毛利3万の大群に囲まれても1年7ヶ月に渡って尼子氏は耐え抜き、一度も落城しなかった難攻不落の城なのです。
戦国大名尼子氏が山陰地方統治の拠点とし、尼子氏の後には毛利氏、吉川氏、堀尾氏と城主が変わり、戦国時代から江戸時代初めまで山陰の政治経済の中心地でした。吉川氏が城主となってからは主要な箇所に石垣を築き、瓦葺きの櫓や土塀を建てるなど、中世城郭から近代城郭へと大きく変貌し、その後に城主となった堀尾氏が松江城を築城して本拠を移すまで、出雲国の中心として繁栄しました。
昭和9年には、その歴史的価値が認められ国の史跡に指定され、平成18年に日本100名城、平成30年に日本遺産「出雲國たたら風土記」の構成文化財にも選定されています。
日本随一の山城との呼び声が高い四つの理由

日本随一と称される理由は大きく4つ。まず一つ目は、その大きさである。山全体を活用した城の面積は約70万平方メートルにもおよび、これは東京ドームおよそ15個分に相当。銀山と港を支配し、古式製法「たたら製鉄」で財をなした歴代城主、尼子(あまご)氏の豊かな財政力をうかがい知ることができる。

二つ目には、中世から近世の時代の変化が表れていること。戦国・室町の中世時代は、土を用いた防御機能が多かったのに対し、近世の安土桃山・江戸時代になると、石垣をはじめとする石の城づくりに変化。「土の中世」から「石の近世」までの時代の変化が、点在する遺構に記されている。

3つ目のポイントは、圧倒的な防御能力の高さである。飯梨川右岸の月山を中心にして築かれた山城には、西方の飯梨川と東方の急峻な山々によって大軍は容易に近づくことができない。実際に登ってみると、およそ大軍は近づき難いことが実感できる。道の駅のすぐ横に登り口がある。

細い上り坂を進んでいくと、この城の守りの要として機能した「山中御殿」に辿り着くが、そのあとも大変。「七曲り」と呼ばれる九十九折の急勾配の登城路、階段をひたすら登って「三の丸」「二の丸」、そしてようやく「本丸」に到着する。

この三ノ丸、二ノ丸、本丸から成る山頂部の曲輪群が詰めの城にあたるのだが、ここに至る手前で麓からの登城路が集まるところに存在した山中御殿、そこから延びて尾根沿いに連なる花ノ壇や太鼓壇、千畳平などの広大な曲輪群が、城の防御機能を究極のものとしていたのかと感心する。
山陰支配の要であった「月山富田城」は、周防の国(現山口県)の守護大名・大内氏、中国地方の覇者・毛利氏からも狙われ続けた。そこで歴代の城主は、急峻な地形を活かして防御拠点を各所に設置。敵を誘い込む仕掛けなど、侵攻を受ける度にアップデートしてきた。その堅牢さゆえに「難攻不落の山城」と称されるのである。

最後に、歴史のターニングポイントとなる戦いの舞台となったことが挙げられる。周防をはじめ4か国の守護・大内義隆は尼子氏に敗れたことで滅亡。山陽方面で覇権を握っていた毛利元就は、長い兵糧攻めの末に尼子氏を倒し、その後、毛利氏は山陰を平定して名実ともに中国地方の覇者となる。いずれも山陰地方の支配者を決める重要な節目であり、相対する大名にとって命運を握る戦いばかりだった。
毛利3万の大群に包囲され1年7ヶ月落城しなかった尼子
尼子晴久は石見銀山守りの要として山吹城を造り、銀山防衛を期した。弘治2年(1556年)、毛利の名将・吉川元春が山吹城攻略の兵を挙げる。城を守っていたのは尼子方の武将刺鹿長信。急を聞き援軍を差し向けた尼子晴久だったが時既に遅し、山吹城は毛利方の手によって落城する。
ここからの10年におよぶ毛利と尼子の戦いは凄まじい。毛利氏の支配も2年と続かず、永禄元年(1558年)には再び尼子氏が山吹城と銀山を奪還。この時の戦いは、大田の新原(現在の大田市水上町)での尼子と毛利両軍あわせて2万の兵による決戦だった。激しい戦いの後、毛利軍は総崩れとなり、元就は影武者7騎の犠牲をもってからくも安芸に逃れ、捲土重来を期すのだった。
戦いに敗れた元就であったが、得意の諜略によって尼子方の属将を次々と味方に引き入れて石見を制圧、銀山を手中に収めると同時に温泉津を水軍の拠点として整備し、いよいよ尼子との雌雄を決する戦いに挑む。屈辱の大敗から7年後の永禄8年(1565年)、毛利3万の大軍が、尼子氏の本拠・広瀬の富田城を包囲した。
晴久の跡を継いでいた尼子義久は難攻不落の城に籠って戦うことなんと1年と7ヶ月。持ち堪えたがあまりに長い兵糧攻めに尼子義久は万策尽きてついに城を開城、毛利の軍門に降ったのである。一時は中国地方11ヵ国を制した戦乱の雄・尼子一族は、ここに滅亡。以降、毛利氏は中国地方最大の大名として、慶長5年(1600年)関が原の戦いまで覇を唱えることになった。


「尼子氏の時代」の3傑
尼子、毛利、吉川、堀尾の各氏が月山富田城の歴代城主となっているが、 この城が最も栄耀栄華をきわめたのは中国地方屈指の戦国大名となった尼子氏の時代であろう。独断と偏見ではあるが、「尼子氏の時代」を創った三人を選んで偉業を讃えたい。まず3傑の一人目は、下剋上で尼子氏繁栄の礎を築いた尼子経久(あまごつねひさ)だ。

出雲守護代尼子清貞の嫡男として家督を継承した後、室町幕府と主君である京極氏に反したために守護代を解任されたが、その後守護代に復帰すると勢力を拡大して戦国大名へと成長した。知略と武勇双方に優れた武将であったといわれている。
二人目は経久の孫、尼子晴久(あまごはるひさ)である。幼くして父の政久を失った晴久は、祖父の後見を受けて尼子家当主として力をつけ、周防の大内氏、安芸の毛利氏と中国地方の覇権を争ったのち石見銀山を手中に収める。さらに出雲・隠岐のほか、因幡・伯耆など中国地方八か国の守護に補任され、尼子氏の全盛期を築き上げた。

内政的には一族である尼子国久ら新宮党を粛清するなど強力に権力の一元化を進めていったが、永禄3年12月に47歳で急死。跡を継いだ義久は毛利元就に破れ、尼子氏の時代は終わる。
そして三人目は、尼子氏衰退から再興を期した山中鹿介幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)だ。

彼なくして尼子氏は語れない、尼子最強の家臣である。尼子義久、勝久に仕え、永禄9(1566)年に義久が毛利氏に降伏した後、幸盛らは尼子一族の勝久を擁立。毛利氏に対抗する勢力を集めて尼子氏再興の兵を挙げた。出雲、伯耆、美作、因幡、播磨へと転戦し、ついには織田信長と連携するに至ったが、天正6(1578)年、播磨国上月城の戦いに敗れて捕虜となり、護送中に備中国高梁川の阿井の渡しで殺害された。武勇に優れ「山陰の麒麟児」の異名を取り、尼子十勇士筆頭に挙げられる。彼はまた「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と尼子家再興を三日月に祈ったと伝えられ、江戸時代以降「忠勇の鏡」として称えられてきた。昭和11(1936)年には小学国語読本に鹿介を主人公とする「三日月の影」が収録され、昭和20年まで全国で使用された。安来市では戦前から命日に月山富田城に登りその功績を称え供養する「幸盛祭」が行われるなど、地域の人々により顕彰活動が続けられている。
物産館が「ほぼ」ない道の駅「広瀬・富田城」

道の駅「広瀬・富田城」には物産館は存在しない。あるのは「広瀬絣(かすり)センター」と書かれた建物と、隣接施設の歴史資料館。


藍染め体験が可能な広瀬絣センター内。


僅かながら広瀬絣や広瀬和紙などの特産品の販売が行われているが、 商品数はそれほど多くない。



だから、「選びやすい」という言い方もできるが。食堂は建物内にちゃんとある。

駐車場は仮眠しやすそう。トイレ、休憩スペースもコンパクトでいい感じ








