
わが国最初の仮名日記として著名な『土佐日記』。今から1,100年近く前、承平4年(934年)12月21日に紀貫之が土佐から都に戻るため55日間にもおよぶ旅に出流のですが、その旅路を彼が日記にしたためたものです。ちょうど今日12月27日は、貫行らの旅の一行が冬の海に漕ぎ出した、まさにその日です。
「男もすなる日記(にき)といふものを、女もしてみむとてするなり(男の人が書くという日記というものを、女である私も書いてみようと思う…)」というあまりにも有名な書き出しは、言葉というものがはっきりと性別や教養などを表す身分証明書のようなものだった平安時代において、「革命」という概念を通り越してぶっ飛んでいたに違いありません。何と言っても、この日記の作者は男性だったのですから。まずその「設定」が、イケすぎています。
作者・紀貫之は言わずと知れた古今和歌集の編纂にもあたった、平安時代を代表する宮廷歌人の一人です。国司の任期を終えて帰京する紀貫之は本来の姿をくらまし、女性として筆を走らせます。そこには「オトコ言葉」「オンナ言葉」「親父ギャグ」「駄洒落」などの原形が散見されます。
自分の内面や感情など、男性官人が日記のなかで書けなかったことを書くために、作者の紀貫之は架空の女性に仮託しなければならなかったのだと解釈されていますが、私にはそんな切迫感など微塵も感じられなくて、逆に厳しい規則があればそれを破りたくなる「人間の性」というものを強く感じます。土佐日記には、当時の言葉のルールを破りまくる「言葉のイノベーション」の嵐が吹き荒れているのです。
人情あふれ奔放な土佐人との別れ
『土佐日記』は、貫之が赴任していた土佐国(現・高知県)から、4年の任期を終えて都に帰り着くまでを綴った旅日記である。日記は、地方の役人が家族らとともに土佐の屋敷を発つ場面から始まっている。「住む館(たち)より出でて、船に乗るべきところへわたる。かれこれ、知る知らぬ、送りす。年ごろよくくらべつる人々なむ、別れがたく思ひて、日しきりにとかくしつつ、ののしるうちに夜更けぬ(屋敷を出た一行をたくさんの人たちが盛大に見送る。慣れ親しんだ人たちとの別れ難い思いを感じながら一日が過ぎていった)」。
5年ぶりに都へ戻る一行の前には、幾多の困難や危険が待ちかまえていた。最大の危険は船。当時の船は木造の簡素なもので、雨や風が強ければ簡単に転覆してしまう。海上の治安は最悪で、海賊に襲われ財産だけならまだしも命を奪われることも珍しくなかったのだ。貫行の船旅は、常に危険と隣り合わせの旅だったのだ。
命懸けで海に漕ぎ出す前に、宴が盛大に開かれている。宴は、距離的にも文化的レベルにも都から遠く離れている土地柄、集いに集まった者たちは身分や立場、本来守らないといけないエチケットなどすっかり忘れての乱痴気騒ぎとなった。「ありとある上下童まで醉ひしれて、一文字をだに知らぬものしが、足は十文字に踏みてぞ遊ぶ(身分が高い人も低い人も子供まで酔いつぶれて、「一」という字も書けない人たちなのに、千鳥足で「十」の字を踏んでいるかのようにぐでんぐでんだった)」。身分のわきまえが厳しい平安の世、いくら奔放な土佐といえども上下の身分どころか童までもが酒を飲んで大人と交えて轟沈などと、非常識を極めた光景が「足は十文字に踏みてぞ」などの描写から見事に浮かんでくる。
動けなくなった室戸の荒海で過ぎゆく日数を指折り数える
屋敷を出て6日後の12月27日、一行の船はようやく海に向かって漕ぎ出した。しかし、風が強く波が荒い室戸岬周辺で、一行は10日近くも足止めされる。
「十八日。なほ、同じところにあり。海荒ければ、船出ださず。十九日。日悪しければ、船出ださず。二十日。昨日のやうなれば、船出ださず。みな人々憂へ嘆く。苦しく心もとなければ、ただ、日の経ぬる数を、今日幾日、二十日、三十日とかぞふれば、指もそこなはれぬべし。いとわびし(過ぎゆく日数を指折り数えるため、指も痛んでしまいそうだ)」。
早く帰りたいと思っても何もできない一行の、歯がゆさやつらさが伝わってくる。
紀貫之は土佐の国府を出発した後、まず、京都へと船が出る室津(室戸市)を目指した。承平5年1月10日・【十日。今日はこの奈半の泊にとまりぬ】とあり、紀貫之は現在の奈半利町に到着したことがわかる。貫之は奈半利町に2泊したが、奈半利橋の東には「土佐日記那波泊」と記された大きな石碑が残っている。そして、貫之は現在の室戸市羽根町に到着。土佐日記では、幼い子どもがこの地名を聞いて「まことにて名に聞くところ羽根ならば飛ぶがごとくに都へもがな(本当に名に聞くとおり羽であるならば飛ぶように都へ帰りたいものだ)」と詠んだとあるが、子どもがこのような歌を読めたとは考えにくく、紀貫之が土佐で亡くした幼い娘のことを詠んだものと思われるのだが。室戸市の羽根岬には、この歌を刻んだ歌碑がある。

心の機微を文章で表すことへのこだわりと革命
貫之がこだわったのは、旅の途中で感じた心の機微を文章で表すことだった。女性のふりをして、仮名文字を使って日記を書いたのもその手段の一つだろう。平安時代、日記といえば、男性が行事や業務の記録を漢文で書いたものであり、仮名文字を使うことでその「殻」を打ち破って、これまでの記録的な日記では表現できなかった個人的な感情や、旅の情景を描こうとしたのだ。
たとえばある人が、出航間際、土佐で亡くなった子を思う場面には、深い親の悲しみが描かれる。「京にて生まれたりし女子(をむなご)、国にてにはかに亡せにしかば、このごろの出で立ちいそぎを見れど、何ごともいはず。京へ帰るに、女子のなきのみぞ悲しび恋ふる(人々は楽しそうに出発準備をしているが、何も言う気が起こらない。子どもを連れて帰れないことばかりを悲しんでいる)」。
さらに貫之は、心の動きを表すために、得意の和歌を効果的に取り入れている。「寄する波 うちも寄せなむ わが恋ふる 人忘れ貝 下りて拾はむ(寄せる波よ、どうか浜辺に打ち寄せておくれ、恋しく思う人を忘れることができるという忘れ貝を。そうしたら、船を下りて拾うから)」。これは、天気のいい日、美しい風景を見たときに、亡き子を思い出して詠んだ歌だが、その歌に返して、「忘れ貝 拾ひしもせじ 白玉を 恋ふるをだにも かたみと思はむ(亡き子を忘れてしまう忘れ貝なら拾いたいとは思わない。白玉のような子を恋しがることだけで、あの子のかたみと思いましょう)」とも詠んだ。なんと美しい心の描写であろうか。
旅の終わりと、日記の結び
出発してから55日。2月16日の夜に貫行たちはようやく都のわが家に到着する。しかし、月明かりのなかで目にしたのは、荒れ果てたわが家だった。「聞きしよりもまして、いふかひなくぞ、こぼれ破れたる。家にあづけたりつる人の心も、荒れたるなりけり。中垣こそあれ、一つ家のやうなれば、望みてあづかれるなり(家はどうしようもないほど傷んでいた。預けた人の心がすさんでしまったのだろう。隣の家とのあいだには中垣があっても、ひとつ屋敷のように暮らしていたから、隣の人は自ら望んで預かってくれたのに)」。
子どもたちの飲酒、宴の無礼講、船の上では船を操るものが上に立っての身分の逆転現象など、貫行の一行は55日間、不思議な非日常的な空間に放り出された。「土佐日記」には、(当時の)常識に全く反した世界観が、女性のふりをした男によって描き出されている。旅を終えた貫之は、最後にこう締めくくっている。「忘れがたく、口惜しきこと多かれど、え尽さず。とまれかうまれ、とく破(や)りてむ(忘れがたく、心残りはたくさんあるのだが、とても書きつくすことはできない。こんなものははやく破ってしまおう)」。女性に扮して書くなど日記の意図すべてをケムに巻く、おしゃれでカッコ良すぎる「締めくくり」だと思う。
古今和歌集の和歌32首にちなんだ草木と曲水の流れが配された庭
奈良時代から平安時代にかけての数百年にわたって、現在の比江には国衙(こくが)が置かれていた。延長8年(930年)土佐守を任じられ、第48代土佐国司として赴任したのが、古今和歌集の選者も務めた王朝屈指の歌人・紀貫之だ。

国府小学校の東300mのところに、48代目の国司、紀貫之邸跡があり、邸跡には高浜虚子の句碑等もあって、この邸跡の南一帯が土佐の国衙(こくが)跡となっている。

古今和歌集の和歌32首にちなんだ草木と曲水の流れが配され、平安朝を想わせる名所となっている。




その北わずか1kmのところには、今回私の旅の寄り道先となった道の駅「南国風良里」があって、私はそこに車を置いて歩いてここに着いた。
道の駅「南国風良里」
車をとりに再び道の駅に歩いて戻ったが、駐車させていただいたお礼に、何か買って帰ることにした。道の駅「南国風良里」の位置だが、紀貫之邸跡、国衙跡からは北に徒歩圏内だが、高知自動車道の南国ICからアクセスする場合は、国道32号線を南に500mの場所である。道の駅が位置する南国市は、県内では高知市に次いで2番目に人口の多い市町村。 ただ、市南部の後免地区に人口が集中しているらしく、道の駅駅が位置する市北部は田畑が広がる長閑な風景が広がっている。
この道の駅、高知県内では珍しく(失礼)、独立採算が可能となっている優良な道の駅だという。確かに今日も、平日にしては駐車場の車の台数も多く感じる。


トイレも、駐車場からすぐ見えて分かりやすいし、気持ちよく使用させていただいた。




ただ、このトイレ、一体どういう需要があるのだろう、子どもと一緒に?あるいは友達と?とても気になるw
休憩スペースも綺麗で、何も飲食せずにただ休憩するだけでも十分くつろげる。



施設としては、物産館、農作物直売所、レストラン。各々の規模もそこそこだ。
特に農作物直売所とレストランは、地元客を中心に大盛況。 農産物の販売とレストランが地元の人に支持されているということは、鮮度や味もよく、価格もリーズナブルということだ。
オリジナル商品の「パプリカソース」が登場
とても素晴らしい道の駅なのだが、問題があるとすれば、「南国市オリジナルの商品が少ない」ことぐらいか。管理元の南国市もそのことは自覚しているようで、南国市産のパプリカを使ったオリジナル商品を開発。「南国びじん」シリーズとして「パプリカソース」「パプリカプリン」「パプリカナッツ」を打ち出したが、可愛い紙袋が25円で売られているなど、評判は上々のようだ。


「ぼくらはみんないきている」と「アンパンマン」で誰もが知っているやなせたかしさんは、この地のご出身。彼にちなんで、「ぼくらはみんないきている」シリーズも商品化された。


「芋ケンピ」「かつおなまり」「トロ焼きかつお」「かつお味噌」など、高知らしい特産品はたくさん。 軍鶏入りの「竜馬カレー」「土佐あかうしカレー」「土佐鯨カレー」「土佐ジローカレー」などのカレー類もとても充実している。



南国市は、伝統的な鋳造技術によってつくられる「土佐打刃物」で有名。 本駅でも「包丁」を始めとした和式刃物が数多く販売されている。

別棟にある農作物直売所では、地元の野菜・果物を販売。 お客様はいかにも地元の人とわかる感じで、いいものは売り切れてしまっている。地産地消がうまく回っているようだ。


総菜コーナーも充実しており、美味しそうなフライものや弁当各種が格安で販売されている。地元の方々が納得する価格なので、安心して買える。

農作物直売所内にも特産品販売スペースがあって、乾物類が充実。「土佐の深層水カステラ」なども販売されていた。


地元客比率が高いのは、草花の販売所の充実ぶりを見ると1発でわかる。旅行客が、ガーデニング商品を買うわけないもの。


道の駅レストランでは、やはり「鰹のタタキ」が人気



レストランは、「カフェレスト風良里」と「農家レストランまほろば畑」の2つ。 どちらも本駅の建物の2階だ。 正確には2つのレストランの場所は同じで、 定休日の火曜日以外は「カフェレスト風良里」が営業、 14日~20日までの間の火曜日のみ「農家レストランまほろば畑」が営業するので、ほとんどの日は「カフェレスト風良里」での食事となる。


「カフェレスト風良里」は「土佐味わい御膳」と「鰹のタタキ御膳」が人気。 どちらも高知名物「鰹のタタキ」が味わえるから当然だろう。坂本龍馬が好んだという軍鶏肉を使ったメニューとしては「シャモ南蛮丼」「シャモ鍋御膳」「シャモすき焼き御膳」がある。
毎月14日~20日までの間の火曜日のみ営業する「農家レストランまほろば畑」の存在理由は、地元食材をふんだんに使ったバイキング。これを目当てに地元の人が殺到するのだと思われる。


ユニフォームをまとった「働く人たち」のランチ、休憩場所としての人気が高いようだ。立地もいいし。



結局私は、この日あまり帰宅を遅くしたくなかったので、パンとコーヒー牛乳を買い込んで車で食べながら家路に着くことにした。