道の駅「匹見峡」は、表と裏と前の「匹見」と「奥匹見」との分かれ道(トイレ○仮眠◎休憩○景観◎食事△設備○立地◎)

日本の各地で「過疎」が進行していますが、日本で最初に「過疎」が始まったのはいつ頃で、それはどこからだったかをご存知でしょうか?

日本で「過疎」という言葉が生まれたのは昭和38年で、島根県の山間部「匹見町」から始まったと言われています。「匹見町」は、現在は益田市と合併していますが、それまでは山間でのわさび栽培や林業、木工などを生業とする数多くの小集落が分散して存在する小さな町でした。

そんな「匹見町」は、もともとはたいへん古くから拓けた地区で、人が定住し始めたのは2万3000年ほども前のこと。それがわかるのは、縄文時代を中心とした遺跡が約40カ所もあって、「縄文銀座」と呼ばれているほどだからです。戦後もしばらくは林業で栄えましたが、山仕事以外の産業に乏しく、豪雪にも見舞われて、高度経済成長期になると一家を挙げて都市部へ移住する「挙家(きよか)離村」が相次いできました。

このため1960年には約7200人あった人口は、今や1000人にまで減少。1970年に「過疎法」が制定された時、当時の町長が全国の先頭を切って立法に向けた運動を展開したことから「過疎発祥の地」と言われているのです。

「三八豪雪」を機に集落まるごと移転も

1963年(昭和38年)の冬、匹見町は大豪雪にみまわれた。俗に言う「三八豪雪」だ。年末より降り続いた雪は、山も道も田畑も埋めつくし、多いところでは積雪が4メートルを超え、毎日雪下ろしを行ってもきりがなく、頑丈な合掌造りの家さえも雪の重みで構造材が折れて、崩れた。いくつもの集落が身動きが取れなくなって孤立。自衛隊のヘリが出動して住民を救出した。完全に雪が消えたのはなんと7月半ばのことだった。

かつてない打撃と恐怖がもたらしたのは、「集落挙げての移転」つまり離れた山間にある集落の全世帯を匹見町内の中心部に移そうというものだった。さみだれ式の離村では、人間関係が崩れるうえ、長く築いた文化も雲散霧消する。むしろ集落がまとまって移転する方が余力を残せるという判断だった。島根県は「過疎」地からの積極的な撤退と位置付け、匹見町も、集落再編計画を立て、広見、虫ケ谷の小虫・小平の3集落の移転を決めた。住居は、主に県営住宅などを当て、仕事は、通いで元からのわさび田や山に通うことになった。

私がこの「匹見町」を知ったのは12年前

「三八豪雪」があったのは私が5歳の時、まだ小学校にも上がっていなかったので当然ながら全く記憶がない。知ることができたのは、大学の先輩「尼子さん」がこの地のご出身だったから。尼子家は彼の父上まで代々医師であり、この地で町民たちの健康を支えてきた。父上も過疎地医療に踏みとどまっていたが、家族のことを思いついに大阪への挙家離村という苦渋の決断に至ったという。

その話を聞いた私は、先輩・尼子さんに連れられて匹見町を訪ねた。それが12年前、東日本大震災の翌年のことだった。その際の印象はやはり「過疎」そして「空き家」である。「集落挙げての移転」によって昭和40年代に住人たちが集まっていた「町」からも人が減り、空き家が目立っていたが、その空き家に東京から引っ越してきた堀田さんと中村さんに会うことができ、話を聞いたことがある。二人とも「放射能から家族を守るために」移住してきたのだった。二人の話が残されたUIターン情報誌が手元に残っていたので、転載させていただく。

ミュージシャンの堀田さんとカメラマンの中村さん。コロナ禍で今や普通となった「リモートワーク」の先駆者だ。

現島根県益田市「匹見町」は、典型的な過疎県である島根県においても、人口減少、拳家離村等々の面で最も典型的な過疎自治体としてマスコミが全国に紹介、中央省庁等の視察、調査も相次いだ。そして、社会科の教科書等でも、匹見町は過疎の代名詞の扱いを受けるようになった。

しかし、その匹見町は、その過疎減少が典型的であるがゆえに全国的に有名になっただけでない。過疎対策樹立と施策展開において、日本で最初に取り組みが行われ、典型的な舞台となったことも見逃してはならない。また、堀田さんや中村さんのように、東京から実際に移住して新しい「家族の生き方」を実践している人たちもいるということにも目を向けたい。

「過疎化」「少子化」に警鐘鳴らす匹見に何を学ぶか

匹見町の集落移転の判断は高度経済成長が続いていた時期に下されたものであり、日本全体では人口も右肩上がりだった。そんな時代に「過疎」が起こってなお長らくこの国に本当の危機感はなかった。しかし今や、日本列島全体で人口は減少しているのだ。このままだと30年後には、現在の自治体の半分くらいは消滅するだろう。周辺自治体が衰退すれば大都会ももたない。日本全体が衰退に向かってまっしぐらだ。

おそらく否応なく、都市部を含めて集落の再編成が課題となるはずだ。放置すれば現在のような「さみだれ式離村」が続き、集落には老人ばかり、それも独居状態で残されていく。長く続いた村の行事も消え、人間関係も弱まっていく。行政側のコストも馬鹿にならない。石破総理が国会で地方創生を力説しようが、地方は元気を取り戻すことなく衰退していく。

現在の匹見町は、町全体の人口減少が進み、かつて集落移転した地域ですら衰退が続いている。町も合併して、かつての自治体としては消えた。匹見町が警鐘を鳴らし始めて、60年が経とうとしている。

日本一の清流だからこそできる日本一のわさび

島根県西部を流れる高津川は、国土交通省の調査で7度の“水質日本一”に選ばれた日本屈指の清流だ。 その高津川のより上流からより澄んだ水を注ぎ込むの匹見川で、その匹見川の最上流、そこは中国山地の広葉樹の森に囲まれた源流域だが、ここで栽培されているのが匹見産のワサビである。

常に清流の流れる斜面で、野生に近い環境で育てられる。

道の駅「匹見峡」の守り神は「日出来屋商店」のおばあさん

匹見峡とひとことで言っても、「前匹見峡」「表匹見峡」「裏匹見峡」「奥匹見峡」の4つがある。まず、「前匹見峡」は、道の駅がある国道191号線ではなく、匹見川中流域の国道488号線沿いに約1kmにわたって続く渓谷で、ここでは天狗岩などといった奇岩を見ることができる。

道の駅「匹見峡」は、おそらくもっともポピュラーな「表匹見峡」までは南に約8km、最上流の秘境「裏匹見峡」まで約15km、そして道の駅に戻って「奥匹見峡」までは東方向に約3km。表および裏と、奥との分岐点にあって、ということはすべての匹見峡に行く「拠点」となり得る場所である。

実は、ここに道の駅ができるずっと前から、「日出来屋商店」「出合いの里みちかわ」が地域の人々の買い物場所として存在し、おばあさん(昔はお姉さん)と看板猫「のりこさん」が二人?でずっと店を守り、地域の特産品販売などを行なってきた。そこに案内所やトイレなどを整備し、高速バスの停留所も移設してスタートしたのが道の駅「匹見峡」なのである。

駐車場とトイレ、そして情報館?は道の駅の施設だ。駐車場から空を見上げれば青空だったが、駐車場横手の紅葉樹もかなり散っている。

おそらく紅葉が早い匹見峡のこと、紅葉よりは清流・匹見川を堪能する旅路になるだろう。

石見神楽関連の施設?この前にも車は停められるが、もちろんわざわざここに停めるまでもない。道の駅の駐車場には十分すぎる余裕があるのだから(笑)。

下の写真はバス停の待合所。

おばあさんは、前回私が訪れた12年前からかなり耳がちょっと遠くなっていた。店に入っても、テレビを観ていて気づかない。「すいません」と声をかけると振り向いてくれた。とても元気そうだ。

「あの〜、ワサビはありますでしょうか?」と私。

「ワサビは今(の季節は)ないね。今年は(異常気象で)とれんみたい」

おばあさんは、少し寂しそうに返事を返してくれた。

道の駅もとい「出合いの里みちかわ」は、修繕工事をしていたが少々老朽化した2階建ての建物で、実は建物自体はそれ程小さくないのだが、売り場として使用しているのはおばあさん一人で仕切ることができる1階部分のみである。

おばあさんが座っている場所は、農作物販売スペースと特産品販売スペースの、その真ん中だ。下写真の左上に昔の屋号「和洋酒ビール食料品 日出来屋商店」の屋号が見える。

農作物販売スペースでは地産の大根、トマト、キャベツ等、約10種類の野菜を販売(奥のテレビを観ているのが店主のおばあさん)。

おばあさんに確認はしなかったが、12年前は販売しておられたワサビも、春には販売されると思う(というか、そうあって欲しい)。

扱っている商品は、一目で地域の人たちのための日用品や野菜が主体だとわかるが、匹見町の特産品も多くはないがちゃんとある。

地元の「匹見峡萩の会」が提供する「ブルーベリージャム」、 同じく地元「高津川漁業協同組合」が提供する「鮎うるか」、「漁師のまかない海苔」、 最近はクマに盗られて損害が大きい匹見町産の「はちみつ」は、間違いなくこの地域の特産品である。

匹見峡と匹見川の美しさを堪能

私は道の駅から、まず表匹見峡に向かい、そして裏匹見と前匹見を回って、そこから再び道の駅に戻ってパンとコーヒーを買い、おばあさんに「元気でね」と挨拶してから奥匹見へと向かった。

まず、「表匹見峡」である。道の駅「匹見峡」の前で分岐している道の、「波佐匹見線(307号線)」を南下するのだが、くれぐれも注意したいのはトンネル(表匹見峡トンネル)に入ってしまっては表匹見峡を見ることができないということ。トンネルの入り口手前に入り口?がある恐ろしく狭い道に進めば、蛇行しながら表匹見峡の絶景に遭遇することができる。そして葛折の狭い道を抜ければ307号線に戻って、裏匹見峡へと向かうことができる。裏匹見峡に向かうその道中も、猿が出るわ霧が出るわクマもいるわでまったく飽きない。

このあたりは縄文時代の古墳が多数残るあたりだが、たくさんのサルがいた。お墓の供物を狙っている不届なやつも目撃。ハチミツを狙うクマもよく現れるらしい。

匹見峡は、表、裏、前、奥の四つ。

さて 表匹見峡は、匹見川の上流の県道波佐匹見線に沿って約4kmにわたって広がる渓谷である。

滝や深淵が連なり、巨岩怪石が多く、「魚飛」をはじめとする20有余の奇景が連続して現れる。

両岸には多数のキシツツジが群生している。

表匹見峡は、圧倒的清流を含めて匹見峡を代表する景観であり、西中国山地国定公園に指定されている。四つすべての匹見峡を回る時間がない場合は、まずここを選ぶのが間違いない。

裏匹見峡は、表匹見峡を見た後に到着する匹見町中心地から方向を東にとって向かう。とりあえず保矢ケ原を目指すのだが、そこには車で5分で着く。

しかし落石による通行止めで、そこからは林道を歩いて行くほかない。ちなみに復旧時期は未定である(笑)。私的には、もう復旧しなくていいんじゃないかと思う。

ここ「裏匹見峡」は、匹見川のさらに上流となる支流広見川の中流部から源流への道。車を捨てた?保矢ケ原からおよそ4kmにわたって、表匹見峡よりさらに狭い峡谷となっている。

「裏匹見峡」は、渓流に沿って自然探勝路が整備されているが、探勝路の終点にある鈴ケ嶽付近は壮絶な断崖絶壁が連続している。表匹見峡と比較すると「秘境」色がより強い。

そして、いよいよ最後の「奥匹見峡」。道川の元組から2kmの「三の谷」の一帯である。絶壁の岩陰には苔の群落やホンシャクナゲが群生。「奥」と名付けられたことに納得できるほど谷幅が狭く、滝が連続していて、最も奥部には落差が50mを超える大竜頭(だいりゅうず)の三の滝がある。