道の駅「三野」から、信長に先んじた天下人「三好長慶」生誕の地へ(トイレ○仮眠◎休憩◎景観○食事◎設備△立地○) 

「三好長慶」(みよしながよし)は、1522年(大永2年)から1564年(永禄7年)まで43年間を生きた戦国武将です。短い人生でしたが、織田信長よりも先に、「天下人」に近づきました。畿内(大阪・京都・奈良を中心とする関西地域)全域の実権を手中に収め、管領(将軍の補佐役)であった細川晴元と室町幕府第13代将軍・足利義輝を京都から追放するという鮮烈な下剋上をやってのけ、実質上の最高権力者へと登り詰めたのです。

戦国時代に織田信長よりも最初に「天下人」になったのは三好長慶だというのは、信長が道半ばであっても最初の天下人となったという解釈のもとに成り立ちます。信長も長慶も、ともに将軍を追放したとはいえ彼が覇権を握ったのは京都を中心に東方、西方の違いはあれ全国統一にはまだ道半ば。「天下人」とするのは、あまりに「京都中心」の見方に過ぎないと私は思います。三好長慶は病、織田信長は本能寺での光秀の謀反によって、ともに天下統一の「道半ば」で倒れたのです。

ただ、茶の湯・キリスト教・鉄砲といった新たな文化・技術が普及し始め、後の桃山文化へとつながる母体が形成されていくなど文化史の変革期にも位置付けられる時代に、長慶自らも茶道や連歌の分野に長じ、教養人としての側面を持ち合わせていたこと、一時期とはいえ彼が京都で最高権力を有したこと、それが織田信長や豊臣秀吉に先駆けて足利将軍中心の室町幕府体制から脱却した「中央政権」だったことなどは紛れもない事実です。

私は織田信長より三好長慶が好きですが、それは、慌てず騒がず「父の仇」を順次果たしていった、そのためには仇にも仕えて雌伏のときを過ごした、その生き方への共感です。彼が生まれた芝生(しぼう)には、『三好長慶公生誕之地』の碑が立ち、すぐ近くには三好代々100年間の居城となった芝生城があります。写真は、彼が生まれたあたりの現在の風景です。

幼年にして「父の仇を討つ」という十字架を背負った長慶

三好長慶の父である元長は、畿内で政権を握る細川晴元の有力な家臣で、晴元と敵対していた細川高国を攻め滅ぼすなど大きな働きをする。阿波国のみならず畿内の山城国にも勢力を拡大する勢いを見せていた。

そんな家臣を持つことが恐ろしくなったのだろうか、細川晴元は三好政長、木澤長政、そして一向一揆の衆徒と手を組んで、三好元長を殺害してしまう。

このとき三好長慶はまだ10歳。父が殺害された時、堺にいた長慶は急遽、母と共に阿波国へ逃亡した。こうして長慶は、幼年にして「父の仇を討つ」という十字架を背負うことになったのだった。

父の仇たちと、じっと我慢の融和

三好長慶は、父が殺されてから、堺から生まれ故郷の芝生城に逃げてきた。

三好長慶公生誕之地碑

そして翌1533年(天文2年)、11歳で元服し、引き続き芝生城に潜伏していた。機内では、細川晴元が、長慶の父・三好元長暗殺に手を貸してくれた一向一揆の衆徒達の増長を抑えきれなくなり、手を焼いていた。元長を追い落とした木沢長政も、自身が扇動した一向一揆を抑制するために法華一揆に目を付けたものの、今度はその法華一揆に手を焼くようになっていた。

そもそも木沢長政が三好元長を一向一揆の標的に仕向けたのは、三好氏が法華宗の庇護者であったためだった。長政は今度は、長慶の細川家臣復帰を仲介することで、一向宗や法華宗をうまく抑え込もうと考えたのだった。どこまで卑怯なやつだろうか。彼はのちに長慶に攻められて水死するが、こうした卑劣な人間の末路として溺死はまさに相応しい。

長慶は、父の仇の一人である木沢長政の仲介に応じて再び畿内に戻り、父の仇である細川晴元の配下に飛び込んだ。目の前にいるのは父の仇、二人。しかし長慶はただちに討つことを静かに我慢。自分がまず力をつけることを優先し、じっと「その時」を待つという道を選択した。

長慶は、長政と晴元の期待どおり、両者を和睦に導くという重大な働きをした。11歳や12歳で本当に仲介などできたのかは眉唾物だが、側近に有能な協力者がいたと考えられている。

次第に力をつけ「その時」を待った三好長慶

こうして細川晴元の傘下に戻った三好長慶は、同じ天文二年(1533)に越水城を攻め落とすなど麒麟児の頭角を現した。以後、長慶は畿内を活動の中心とするしつつ、表向きの居城はなおも本貫の芝生城とする賢い処世を続ける。

天文八年(1539)に、長慶は幕府に河内十七箇所の代官職を要求するが、同職は父・元長が任命されていたものを一族でありながら政敵でもある父の仇・三好政長に奪われていたものであった。要求は容れられなかったが、三好政長との対立姿勢を露わにしたのは、仇討ちに向けて意図した行動だったのではないだろうか。

このように、長慶は畿内における細川政権の確立に大いに貢献したが、心から忠誠を誓っていたわけではなかった。いつかは父の仇を。じっと「その時」を待って力を付けるための雌伏のときを過ごしていた長慶に、遂に父の仇を討つ「その時」がやってきた。

父の仇の一人、三好政長を討つ

1549年(天文18年)、父・三好元長の殺害に、細川晴元の側近で同じ三好家の政敵・三好政長がかかわっていたことがはっきりする。三好長慶は、三好一族の和を乱す三好政長の討伐許可を主君・細川晴元に要請した。しかし、細川晴元はこれを拒否したため、長慶はいよいよ「その時」は今だと判断。

細川晴元と対立していた細川氏綱と敢えて手を組み、三好政長討伐の兵を挙げた。三好政長は本拠地であった榎並城を出て江口城に籠った。6月12日に「江口の戦い」が始まると、24日、長慶は総攻撃をかけて父の仇の一人、政長を追い詰める。政長は城から逃げ出し、淀川を南へ下って榎並城に避難しようとしたが淀川で水死。政長軍は平井新左衛門、田井源介、波々伯部左衛門尉など、あわせて800人ほどが討死した。

江口の戦いの後、榎並城にいた政長の子・政勝は逃れ、細川晴元も摂津から逃亡。丹波経由で京に逃れた後、支援していた室町幕府第12代将軍・足利義晴とその息子である足利義輝を連れ、近江国(現在の滋賀県)滋賀郡坂本(現在の滋賀県大津市)へと落ちていった。

もう一人の父の仇、細川晴元にも引導を渡す

将軍だけでなく、将軍に次ぐ実力者である細川家もいなくなった畿内で、三好長慶は京都支配を強める。三好長慶は細川晴元に代わる主君として細川氏綱を擁立し入京。細川氏綱を京に残して自身は摂津へ戻り、晴元派の伊丹親興が籠城する伊丹城を攻めて遊佐長教の仲介で開城させ摂津国を平定した。これにより細川政権は事実上崩壊。新たに三好政権が誕生することとなった。

1553年(天文22年)には、細川晴元を味方に付けた室町幕府第13代将軍・足利義輝との戦いも制し、義輝を近江国滋賀郡朽木(現在の滋賀県高島市)に追放。同年、芥川山城に入城し、飯盛山城に本拠を移した1560年(永禄7年)までの約7年間ここに在城する。

芥川山城
芥川山城

失地回復を図る足利将軍家や細川晴元との抗争は続いたが、長慶はここを拠点に手堅く勝利を続け、ついに細川晴元を「普門寺城」(大阪府高槻市)に幽閉する。そして幽閉からおよそ2年後の1563年(永禄6年)。細川晴元は50歳で死去し、ここに三好長慶の「仇討ち」は見事に完遂された。そして寺社勢力や天皇家との結びつきをさらに強めた長慶は、畿内を完全に掌握するのである。

三好長慶の全盛と落日

三好長慶は、領地を畿内に留めず、越前や中国地方にも積極的に討って出た。全盛期の勢力は、摂津を中心に山城・大和・摂津・河内・和泉の五畿内、そして阿波・淡路・讃岐・丹波・丹後・播磨東部にまで及んだ。1560年(永禄3年)には、大阪から京都までを一望できる生駒山地の北西支脈の飯盛山に築かれた河内の飯盛山城に居城を定め、芥川山城から移った。三好長慶は、43歳で急逝するまでの4年間をこの飯盛山城に過ごしたが、この地からは大阪や堺はもちろん、京都方面まで見下ろすことが可能だった。

飯盛山夜景
飯盛山山頂
飯盛山

反対に、標高の低い大阪や京都からは仰ぎ見る格好となったことは、三好長慶と旧来勢力の関係が逆転したことの象徴となった。

飯盛山の写真

しかし、快進撃が続いた三好政権もここまで。落日はたちまち訪れる。1561年(永禄4年)、弟の十河一存が急死し、1563年(永禄6年)には、養子で嫡子の三好義興が22歳の若さで急逝。呪いがかかったように相次ぐ親族の死に三好家はぐらつき、三好長慶自身もショックのあまり病に倒れた。

徳島県立博物館所蔵

政権の後ろ盾であった細川氏綱までもが死に至ると三好長慶の病はさらに重くなり、1564年(永禄7年)飯盛山城で死没。43歳という若さだった。三好家当主は、養子に入った十河一存の息子・三好義継が継承し、家宰の松永久秀と、「三好三人衆」と呼ばれる三好家の実力者が後見役に据えられたが、やがて松永久秀も三好三人衆も、織田信長に滅ぼされて、三好政権もまた息絶えたのだった。

三好長慶は、ほんのわずかでも天下人だったのか

三好長慶は、戦国の世の中で、最初に「天下人」となったとも評される。「織田信長のやったことを先取りしていた」という評価もある。確かに、全盛時代の三好長慶は、天下人と評されてもおかしくないほど隆盛を極めていた。のちに豊臣秀吉や徳川家康が天下人になったことには誰も異論を唱えまい。しかし織田信長は、天下人になる直前に明智光秀に討たれたが、事実上彼が最初の天下人だったかどうかは微妙だ。同じく三好長慶がそれより早く天下人になっていたかどうかも。織田信長と三好長慶を比較してみよう。

東海地方を中心に勢力を伸張した織田信長は、室町幕府第15代将軍・足利義昭を擁して京に上り、その足利義昭を追放し、織田信長の京都支配は成った。実力で足利将軍を追放した織田信長は、室町幕府や将軍家といった旧来の秩序を壊して天下に覇を唱え、また、元号を「元亀」から「天正」に改元したとき、織田信長は、正親町天皇と相談して一緒に決定しており、これは天皇が将軍家に代わる武家のトップは織田信長であると認めたことを意味する。

しかし、これらのことはすべて、三好長慶が織田信長に先駆けて実行していた。京都に進出した三好長慶は足利義輝との抗争に打ち勝ち、将軍家を京都から追放した。織田信長ですら一時は足利将軍家を擁して京都支配に乗り出したのだが三好長慶はそれすらもせず、将軍家と真っ向からぶつかって追い出している。また、正親町天皇も「弘治」から「永禄」に改元する際、その相談を三好長慶にしていた。足利義輝が京都にいなかったとはいえ、将軍家を飛び越して細川家の一家臣に過ぎなかった三好長慶に改元の相談をしたのは、前代未聞の出来事だった。これは天皇家が三好長慶こそ「武家のトップ」という認識を持っていたからとしか考えられない。

とすれば、一瞬とはいえ織田信長が天下人であったとすれば、同じく一瞬とは言え三好長慶もそれより先に天下人となっていたとしない理由は、ともに道半ばで倒れた二人の比較において他には存在しない。

三好長慶が生まれた場所に行ってみた

芝生は、阿波三好一族の発祥の地だ。芝生城は寛正年間(1460~1466年)、小笠原義長が築き、ここに本拠を構えて三好と名を改めた。これが三好氏のはじまりとされる。初代の三好義長から数えて2代長之、3代之長、4代長秀、5代元長と続き、6代目の三好長慶もまたここで大永二年(1522)に生まれた。生母は妊娠を覚ると吉野川で水垢離を行い、英傑を授かるように祈願したと伝わる。

三好長慶が生まれた芝生城は、長慶病没までの少なくともおよそ100年間にわたって三好一族の拠城であった。芝生城は、吉野川と河内谷川の合流点に臨む、河岸の角を利用した城で、城下は芝生上の河岸段丘全域に広がる約100ヘクタールにも及び、周辺を断崖と空堀に囲まれた城跡はおよそ2ヘクタールある。場所は徳島自動車道の吉野川スマートICから県道12号線を東に8km、 または同じく徳島自動車道の美馬ICから県道12号線を西に10kmの地点にある。

県道12号線にさえ出れば、あとは吉野川沿いの道路を一直線だ。

着くと、その城址は「兵ものどもが夢のあと」。「天下人にまで昇り詰めた三好長慶の出世の地」との説明板と石碑とが建てられているが、いまは往時のよすがはまったく伺い知ることができない。江戸時代後期の文化文政(1802~1827年)に開削導水された「三村用水」によって、黄金の稲穂が波打つ田園地帯へとすっかり変貌しているのだ。

三好市の飛び地で「下剋上」の夢を見る道の駅「三野」

ここからわずか3kmほど西に、道の駅「三野」がある。

駅施設は小さく、訪れる客も少ないが、三好長慶の下剋上の原点の地なので、そんなに派手は施設はかえって下剋上のイメージを損なう。地味上等だ(笑)。 駐車場も、トイレも、休憩スペースもこぢんまりしていて、まさに下剋上の原点という感じ。これが、なかなかいい。

駅からの景色は、三好長慶生誕の地・芝生となんら変わらない。

産直市はこぢんまりとして味がある。また、農作物直売コーナーでは、みかん、すだち等をメインとして様々な農産物が販売されている。

小さな軽食堂もある。 ただ、この軽食堂、規模の割にはメニューが豊富で、50種類もの料理を提供しているからすごい。

1,000円以上のメニューもあるが、「そば/うどん」「ナポリタン」とかはワンコイン以下。「徳島ラーメン」「牛丼」「から揚げ定食」「ビーフカレー」は流石に500円とはいかないが、それでも全て1000円未満である。下剋上の原点に相応しい!