
毛利元就は、互いに対立していた大内氏と尼子氏の双方に仕えながら、多くの戦いを経験しました。元就の時代は、まだ鉄砲の普及が無かった時代です。また、複雑な地形を利用した山城が多く、どれも攻略が難しいものばかりでした。元就の戦いでは、「調略」を用いて多くの戦いに勝利しています。人は、元就のことを「謀神」と呼ぶくらい、謀略に長けた武将でした。籠城戦でも、10倍の兵の尼子氏の大軍を打ち負かした戦いもありました。
毛利元就と言えば、「謀略」と言われる程、巧みな謀略・調略で多くの戦いを有利にしてきました。謀略に関して、手本となったと言われるのが、「尼子経久」といわれています。尼子経久は、「謀聖」と言われ、大変謀略が得意と言われた武将です。また、孫子の兵法には、「謀攻編」という調略に関する記述があります。調略を用いると、「戦わずして勝つ」事も容易であり、兵を動かさないメリットは国力の温存にあります。また無理な戦いを避ける事が出来るため、戦死のリスクも低くなります。
この時期の城は山城が主であり、攻め込むには困難を極めます。中国地方の山城は堅牢な城が多く、実際元就も攻略には苦労していました。そこで、元就はどのように城攻めを行ったかというと、やはり調略でした。城の内部で疑心暗鬼によって内部崩壊を起こさせたり、敵方の家臣に謀反を起こさせたりしています。また、兵糧攻めも利用して、降伏を促す戦略を取っています。豊臣秀吉も、中国地方では城攻めを多く行っており、兵糧攻めや水攻めを多用していました。
元就の戦いが他の武将と際立って異なったのは、水軍の活用です。元々小早川家は自前の水軍を持っていました。この小早川水軍は南北朝時代から主に瀬戸内海で活躍。一方村上水軍は、能島村上家、因島村上家、来島村上家の三家の総称で、その内の因島村上家は毛利家に臣従していました。

小早川家に元就の息子が養子として入り、当主を継いだことから、元就の水軍は一気に強化されます。こうした毛利の水軍が大活躍したの、「厳島の戦い」でした。村上水軍の内、毛利に臣従していなかった来島村上水軍や能島村上水軍もこの戦では毛利の味方となり、陶晴賢を打ち負かす原動力となりました。
毛利元就が中国地方の覇者となるまでの九つの戦
下表は、毛利元就「戦いの一覧」とその勝敗表である。
年代 | 合戦名 | 対戦相手 | 勝敗 |
---|---|---|---|
1517 | 有田中井手の戦い | 武田元繁 | 勝 |
1521 | 鏡山城の戦い | 蔵田房信 | 勝 |
1524 | 船山城の戦い | 相合元綱 | 勝 |
1524 | 第一次佐東銀山城の戦い | 大内義隆 | 勝 |
1540 | 吉田郡山城の戦い | 尼子詮久 | 勝 |
1542 | 第一次月山富田城の戦い | 尼子晴久 | 負 |
1555 | 厳島の戦い | 陶晴賢 | 勝 |
1559 | 降露坂の戦い | 尼子晴久 | 負 |
1565 | 第二次月山富田城の戦い | 尼子義久 | 勝 |
デビュー戦から5連勝
1517年の元就の初陣は、言わずと知れた「有田中井手の戦い」である。これについては、戦いの舞台となったのが現在道の駅「舞ロードIC千代田」がある場所なので、その道の駅を訪ねた時の記録としてこのブログ内に詳細を書いている。
4年後1521年の「鏡山城の戦い」についてはまだ触れていないのでここに書く。
鏡山城跡から北方向を望む(写真上)と西方向の展望(下)
このとき元就は、尼子勢として従軍していた。鏡山城は大内義興の勢力下にあった城で、蔵田房信とその叔父の蔵田直信が鏡山城に入って守っていた。1523年、毛利・吉川連合軍は4000の兵で鏡山城を攻めるが堅牢な鏡山城は近づくのも困難で、戦況は膠着状態。そこで元就は蔵田直信に「蔵田家の家督を継がせと持ちかけ調略して寝返らせのである。もちろんこの調略の為に蔵田家の内情をつぶさに調べ上げていた。直信に手引きされた毛利兵が攻め込のはたやすく、鏡山城は落城あえなく落城。この戦いを境に、安芸地方は尼子勢力下に置かれたのだった。
毛利元就が家督を継いだ時、尼子氏の介入があった。尼子重臣・亀井秀綱は、元就家督継承に反対する家臣を唆し、異母弟の相合元綱を立てて反乱を起こすが、反乱首謀者の坂氏・渡辺氏の「元就暗殺計画」は元就の放った忍びによって情報が洩れ、首謀者である坂氏・渡辺氏は暗殺計画実施日の前夜に元就によって殺害された。そして、残った相合元綱と戦ったのが「船山城の戦い」だ。相合元綱を討ち取ったもののこの事件が大きなきっかけとなって尼子氏に不信感を抱いた元就は、一時は尼子詮久と義兄弟の契りをも結んでいた関係を断ち、反対勢力の大内氏の傘下に入ることになる。
尼子氏から離れた元就は、1540年に元就の居城である吉田郡山城を舞台に尼子氏と戦うことになる。
尼子詮久は兵3万を率い吉田郡山を攻めた。対する元就は吉田郡山城での籠城戦を選択、精鋭部隊2400を含む3千の兵で迎え撃つ。この「吉田郡山城の戦い」については、このブログ内で道の駅「北の関宿安芸高田」を訪ねたときに詳述している。
初めての敗北を生かして
吉田郡山の戦いのあと、尼子氏に対して不満や反感が湧き出し、大内氏に着く者が続出する。安芸を中心に国人が尼子退治の連判状を大内義隆に出したことで、義隆は出雲出兵を決意。大内義隆を総大将に、月山富田城を攻めたのである。城攻めが難航し長引く中、大内氏に寝返っていた三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経などの国人衆が再び尼子氏へと寝返るなど、戦いは裏切りと混乱を極め、結果としては大内氏は劣勢となり、大内義隆は撤退を余儀なくされた。この時元就は死を覚悟するまで追い詰められたが、元就を守ったのが家臣の渡辺通。元就の甲冑を着て敵に突進していき、元就の身代わりとして討死したのである。この犠牲によって元就は命からがら逃げかえるが、この教訓は第二次月山富田上の戦いに生かされることになった。
1551年の大寧寺の変で、大内義隆は陶晴賢の謀反によって追い詰められ、自害した。陶晴賢と元就の関係は良好なものだったが、安芸・備後での尼子氏撤退後の戦後処理をめぐって元就と陶晴賢の間に不和が生じ、結果として元就と大内・陶は断行することとなる。元就は、陶氏との対戦のため、水軍の強化を図る。この時村上水軍三家の中で、因島村上氏は毛利家に臣従していた。あと二つ、能島村上家、来島村上家は、陶氏と毛利家両方から勧誘を受けていたが、最終的には両家も毛利氏に味方した。
そして元就は、陶氏に数々の調略を仕掛ける。陶氏重臣の江良房栄に対し内応の打診をおこなっておいて、房栄が見返りに上乗せを要求した事を今度はわざと陶氏に知らせ、江良房栄を討ち取らせている。
また、他にも元就に内通するものを調略していくが、「厳島の戦い」については道の駅「三矢の里あきたかた」を訪れた際の投稿で詳述している。結果として、相手の陶晴賢は自害し、厳島の戦いは元就の大勝利に終わる。そしてその後、陶晴賢の傀儡の主君であった大内義長は勝山城で自害。これにより毛利氏は大内氏旧領を吸収し、勢力が飛躍的に拡大した。
尼子晴久には二連敗
そして、降露坂の戦い。これは元就と尼子晴久の戦いで、石見銀山の支配をめぐる戦いだった。この戦いに至る前、尼子晴久は「忍原崩れ」で毛利に勝利し、石見銀山を奪い取っていた。元就は、山吹城を攻めたが抵抗が激しく、大友氏が毛利領を攻めてきたため、元就はやむなく撤退。しかしこの撤退時に山吹城兵や周辺の城兵、尼子晴久の隊も合流して元就は一斉攻撃を受け、命からがら逃げ帰った。この戦いは結果的に尼子晴久との最後の戦いとなった。晴久がその後まもなく病死したからである。
元就は、尼子晴久には、忍原崩れ・降露坂の戦いで二度負けている。この事実から、私もそうだが、尼子晴久は毛利元就よりも優れた武将だったとする向きがある。
尼子晴久の死後から毛利の時代に
尼子晴久が死去したのは1561年。尼子氏が混乱するなかで、毛利元就は降露坂の戦いで敗走させられた本城常光を自軍へと寝返らせる。尼子氏当主となった尼子義久は月山富田城に籠城。元就はこの間、長男の隆元を亡くしたが、1565年に孫の毛利輝元とともに月山富田城を攻めている。苦杯を舐めた第一月山富田城の戦いの反省から、元就は無理な城攻めを行わず兵糧攻めに持ち込み、城内の内部崩壊を起こさせるように謀略を仕掛けた。そして兵糧攻め。麓で粥を炊いて城兵の投降を誘った。1年7ヶ月にわたって耐えていた尼子義久は籠城を保つことができなくなって降伏。その後、大内氏・尼子氏の残党との戦いはあったものの両氏は滅亡。毛利元就は中国地方を統一し、毛利輝元に引き継がれていく。

最後に、櫛山城と鵜丸城について。銀山街道の終着地、沖泊港に櫛山城と鵜丸城がある。沖泊港は石見銀山を支配する上で終始重要な拠点であった。最初に支配した大内氏は櫛山城を築いた。尼子家臣の温泉(ゆ)氏が居城としていた時代もあったが、毛利が銀山支配すると温泉氏は尼子氏の拠点近くに逃亡して領地回復を図ったが叶わなかった。そして、毛利元就によって鵜丸城(うのまるじょう)が築かれてた。鵜丸城は標高59mの海城で、毛利水軍の拠点として1571年に築城された。1570年に山中幸盛に奉じられた尼子勝久が尼子氏再興の軍を起こしたが、鵜丸城はそれを討つために築城されたとされる。
道の駅「サンピコ江津」からは、尼子氏からの景色が見えやすい

「道の駅 サンピコごうつ」は櫛山城から鵜丸城、さらには温泉津から南西へ10kmも走らない、島根県北部の江津市にある。この地を治めていた尼子氏の立場から見れば、銀山、そして今回訪れた降露坂は東方の山の向こうだ。尼子経久も孫の晴久も、東方、そして南方をも目指していた。

さて、本駅の駅名は「サンピコ」。最初耳にしたとき、私は変な名前だな、あるいはふざけたようなネーミングだなと感じた。ふざけているわけはないので、どうして可愛い感じを出しているのかと。聞けば駅名の由来は三つの「彦」からだという。

ならば道の駅の入り口に、「湯の町、川の町、窯の町」とあったので、湯彦、川彦、窯彦かと思いきや、「川彦」以外の二つは「海彦」と「山彦」だった。
江津市は日本海の海の幸、広大な田畑から生まれる幸、山陰地方No.1の大河である江の川の幸に恵まれた街だが、 江津市民はこれらを愛着を込めてそれぞれ「海彦」「山彦」「川彦」と呼んでいるという。 そして、その3つの「彦」を扱うのが道の駅「サンピコ」である。



平日の昼下がり、広い駐車場に、車はまばらだった。



トイレは文句なし。情報コーナーを含め、ゆっくりできるスペースがある。


新鮮な江津の食材を安価で購入できるとあってか、客層の中心は地元の主婦。 毎日買い物をしてくれる地元客が多い方が経営的には安定するだろう。 本駅の年間利用客は、県内の道の駅の中ではトップクラスだそうで、数少ない黒字経営の道の駅だという。これまでに100以上の道の駅に寄せてもらったが、ここのように、明らかに地元のお客さんに頼っている道の駅はいくつもあった。
「サンピコ(三彦)」の商品展開
では物産館で販売されている3つの「彦」商品を見てみよう。
一つ目の「海彦」だが、 一番人気は、江津漁港直送の朝獲れの海の幸。ノドグロ、ヒラマサ、レンコ鯛、カレイ等、日本海を代表する幸がズラリと並ぶ。観光客としては、海の幸の加工品の需要が高いが、「御蒲鉾」は第44回全国蒲鉾品評会で農林水産大臣賞を受賞していて、江津市を代表する特産品としてイチオシだ。。 魚のすり身に赤唐辛子を練り込んだ「赤てん」も石見地方を代表する特産品。竹輪、石見揚げ(タラ天)も美味しそうだ。


二つ目の「山彦」。こちらは、ごぼう、白ネギ、かぼちゃ、白菜、大根、ホウレンソウ、生姜、里芋、隼人瓜、トマト、西条柿、いちごなどが所狭しと並べられている。地産の米「キヌムスメ」も江津市自慢の特産品だ。




三つ目の「川彦」だが、目立った商品としては天然鮎と鰻。おそらく季節にもよっては品揃えも充実するのだと思う。川彦ではないが、総菜コーナーでは「鯖寿司」が人気を集めていた。
観光客向けの商品としては、江津の銘菓。 江津土産の定番は地元の山根甘泉堂の「焼き田舎まんじゅう」。 「江の川太郎もなか」は第16回全国菓子大博覧会で名誉金賞を受賞している一品。 等を販売。 これらは観光客にも喜ばれるだろう。そして、「窯の町」ならではの、石見焼。少々高価にはなるが、新築祝いや各種の記念品として好適な商品も多数ある。


お腹が空いているときは

物産館の一角に店を構える「揚げ物茶屋」の天ぷらは間違いない。「大黒天」「ゆず穴子天」「赤てん」「かき揚げ天」「いかげそ天」「魚コロッケ」など10種類の天ぷらからチョイスして、小腹を満たすことができる。いずれも新鮮素材、熱々の状態で食べることができる。

大黒食堂の看板メニューは、「まる姫トンカツ定食」「まる姫ポークステーキ定食」「まる姫ホルモン炒め定食」など地元江津のブランド豚「まる姫」を使った各種のメニュー。「まる姫」は日本海の強い海風に負けずに元気に走り回った地産の豚。「穴子天丼」「わさとろ丼」「まる姫カツカレー」などはお手頃価格。少々値は張るが、高級和牛「石見和牛」を使った「石見和牛ステーキ定食」もある。