
高知県南東部に角の様に張り出す室戸岬。 その室戸岬から約10キロ北西に進んだ所に、道の駅「キラメッセ室戸」があります。 道の駅の名前あるキラメッセの「キラ」とは「吉良川」のことで、江戸、明治、大正の街並みを残す吉良川町に由来します。今回の旅の私の目的地も、もちろんそこ。未明に着いてしまいそうだったので、少し仮眠したく、道の駅「キラメッセ室戸」に立ち寄ったのです。
暗いうちに仮眠を始め、目が覚めると、駅の上に見事な鱗雲が出ていました。が、ここは鱗のない「鯨」に特化した道の駅です。 物産館では鯨関連商品、レストランでは鯨料理、有料施設の鯨館では鯨の生態、マッコウクジラの模型などを楽しむ事もできるはずなのですが、物産館、レストラン、鯨館のいずれもが休館していて、どの建物も中身を確かめることができませんでした。
なので、仮眠の感想、駐車場、トイレ、休憩スペースぐらいしかレポートできません。まず仮眠の感想を簡単に。55号線がすぐ横を走っているので通行車両の音がどうかなと思っていたのですが、疲れていたこともあるでしょう、なんの問題もなく熟睡でき、差し込んできた朝日で目覚めました。駐車場は広くありませんが、仮眠利用していたのは私を含め3台だけでした。




トイレで洗顔。自販機でコーヒーを買って海を見ながら休憩


トイレで用を足し、洗顔させていただいてスッキリしてから、朝のコーヒー。道の駅の施設前にたくさんの自販機が並んでいて、缶コーヒーを買うと、目の前は太平洋の雄大な眺め。いい場所にベンチがある。ここに座ってのモーニングコーヒータイムは最高だった。

直売所では海産物や農作物を販売

直売所が営業していたなら、 「鯨ハム」「鯨ジャーキー」等の鯨関連商品はチェックしたかった。私たちの世代は子どもの頃ずいぶん鯨をいただいてお世話になったし。お目にかかれなかったのは残念だ。

目的地の「吉良川町の街並み」へ
道の駅「キラメッセ室戸」を出ると海岸沿いを走る国道55号を高知方面に2〜3kmほど。55号線より一本山側の道が旧土佐街道で、この街道に沿って古い町並みの浜地区が、そこから山側の地域に農家だった丘地区の町並みがそれぞれ広がっている。

浜地区を通る旧街道は、高知、室戸を繋ぐ街道として整備されており、道幅は5~6mほど。この街道の両側に短冊型の屋敷が並び、両側町を形成している。各戸の主屋は街道に面していて、主屋の建物は基本的に町家だ。
吉良川の商家の建物は中2階建て、切り妻造り、平入り、桟瓦葺で、漆喰塗り込めの虫籠窓、水切り瓦を備えている。外壁については、次の3種類に分かれる。一つ目は、幕末から明治初期と推定される下見板張り。二つ目は、漆喰で壁を塗り込め、水切り瓦をつけた明治中期以降のもの。そして3つ目が、下のような「マナコ壁」だ。

このほかに、妻側の壁にレンガを使用したものも4棟あり、これらは明治末~大正という時期に限られているらしい。短い時期に流行したものと思われ、こうしたレンガは吉良川の周辺で焼成されたものでなく、阪神地方へ向った船が帰りに積んで帰ったものものと思われる。
一方、丘地区の道路幅は4m未満が殆どであり、敷地割りにも個々別々で一定の規格はない。この丘地区の屋敷では周囲に塀を巡らしており、主屋も農家に見られるもの。塀には、当地で「いしぐろ」と呼ばれる石垣が多く用いられている。

このような性格の異なる二つの地区が、一つの町並みの中に共存していることが吉良川の町並みの最大の特徴である。また、昔から「台風銀座」と呼ばれたほど大型台風が頻繁に襲来した室戸市では、家の台風対策は最重要。そのため、吉良川町の家々には昔の人たちの知恵が込められている。
吉良川町は、重要伝統的建造物群保存地区
重要伝統的建造物群保存地区とは、城下町,宿場町,門前町など全国各地に残る歴史的な集落・町並みの保存を図るための制度において指定される。市町村が決定した「伝統的建造物群保存地区」のなかでも特に価値が高いと判断したものを国が「重要伝統的建造物群保存地区」に選定するという仕組みになっていて、「吉良川のまちなみ」は、平成9年に、高知県で初めて国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。
実際に町を歩いて家々を見ていると、台風時の強い横雨が家の中に浸透するのを防ぐ「土佐漆喰」の白い壁と、その土佐漆喰の壁を守るために壁の途中で雨水を切るよう設置された「水切り瓦」が目につく。また、細い路地を登って少し高台の地区へ行くと、「いしぐろ」と呼ばれる石垣がたくさん出てくるが、これも台風の強い風から家を守るためのものだ。「いしぐろ」は、海岸や川原から運搬してきた丸石を用いているが、その積み方は多種多様。家ごとに異なった趣が見られ、あるものは大き目の石を布積みにし、あるものは半分に割った玉石の小口を揃えて表に見せるなど、家ごとの工夫と美意識を見出す事ができる。また、丘地区では所々に共同井戸が存在するが、これは水を得にくい高所の住民たちの知恵である。
戦国時代、そして関ヶ原の戦い以降の吉良川町
戦国時代、現在の吉良川の町並み東にそびえる山の麓には、この地を治めていた安岡氏の居城、吉良川城が存在していた。後に長宗我部氏に攻められ、安岡氏はそれに降伏したものの、それでもある程度の身分は認められて存続した。関ヶ原の戦い後に山内一豊の土佐藩領となったが、安岡氏はしばらくは吉良川の庄屋を務めていた。ほどなく山内一豊の家老の五藤氏が安芸に入城するが、五藤氏は戦国時代に土佐安芸を治めていた安芸氏の家臣の子孫にあたる。その五藤氏が吉良川の庄屋になってからは、安岡家は代々年寄りとして、明治維新まで吉良川の重役を担った。
吉良川は海に面していながら良港には恵まれてはおらず、当時の主たる産業は林業であり、街道沿いの在郷町としての性格が強かった。吉良川の町並み形成の歴史だが、寛政3年(1791)の「寛政三年浦分改帳」では、家数41軒、人数249人となっている。寛政6年(1794)に描かれたと推定される「土佐国沿岸絵図」に、浜地区・丘地区の二つの地区に50数戸の人家が描かれているので、ほぼその規模は一致している。また、近世の早い段階で東西に繋がる旧街道が浜地区に整備された。街道の両側に計画的な屋敷割りが施され、江戸末期には今、私たちがが目にすることができる「町並み」の基となった。

明治から大正にかけて備長炭で大きく発展
明治24年の戸数は848軒・人数3667人と、大きく発展した吉良川町の規模が具体的に記録されている。明治時代に、吉良川町のこれほどの発展を支えたのは「備長炭」だ。明治時代に入り木炭の需要が増え、明治10年頃から吉良川で木炭の生産が始まった。そして大正時代には製炭技術が向上し、原料のウバメガシを高温で焼き上げた「白炭」と呼ばれる良質の木炭が生産されるようになった。それらの白炭は、火力が強くて長持ちする「土佐備長炭」として珍重されたため市場価値をどんどん高め、吉良川は日本の代表的な備長炭の生産地となったのである。
そして、大正年間から昭和初期にかけて吉良川は繁栄の頂点を迎える。良質な備長炭が生産され、海路京阪神へ移出され、帰路には日用品などの雑貨を積み帰った。こうした備長炭の廻船交易によって吉良川に繁栄がもたらされ、人々は競って家を建て直した。吉良川の伝統的建造物の多くは明治から大正にかけて建築された家屋である。