
令和の米騒動とも騒がれた、今年起きた米不足。いまあらゆるモノの価格が上昇していますが、米の値上がりとその根本原因となる米不足は、私にはかなり深刻な事態に思えます。現在の米不足の原因として、海外客による日本食のインバウンド需要の急激な増加といった微少な要因も語られますが、根本原因は「異常気象」です。
米どころの北・東日本では春~秋の季節平均気温が3季連続でかつてなかった高温となり、新潟県や秋田県などの主要な米産地で深刻な不作と品質低下が発生しました。また、昨年2023年は猛暑だけでなく大雨や台風、線状降水帯による被害が追い打ちをかけています。そう、米不足は単年の問題ではない、複数年度にわたる異常気象が怖いのです。米の不足は過去に何度か発生していますが、ちょうど30年前の平成の米騒動(1993~1994年)がまだ記憶に新しいという方もいらっしゃるでしょう。
この時の日本の勝手気ままな振る舞いは世界に大恥をさらします。騒動の原因は記録的な冷夏の影響で稲が実らなかったこと。米の需要量1,000万トンに対して収穫量は783万トンとなり、政府の備蓄米を放出しても約200万トンが不足する事態とななったのです。 そこで政府は、タイなどから米を緊急輸入。日本政府からの要請を受けて、タイが輸出した長粒米は自国の備蓄在庫でした。
助けてくれたタイでは、米の在庫がなくなって米価が高騰。途上国の貧困層に回るはずだった米を日本が買い上げたことは、国際的なコメ価格の急騰を招きます。ところがバブル期に贅の限りを尽くして口に合わないタイ米を避けた日本人。急場を凌げば輸入量の4割近くにあたる98万トンが売れ残っていました。そして、なんとその多くを廃棄したのでした。

タイ米を捨て世界に迷惑をかけた汚点から何も学ばない日本
「不足しているからと要請があり好意で日本向けに緊急輸出したのに、不味いとか言われて廃棄している」事実がタイにも伝わると、いかに微笑みの国であっても国内ではさすがに対日感情が悪化した。正しい炊き方、食べ方も知らずに日本米と同じ扱い方をした挙句に、不味いから捨てちゃったというのは、日本人の民度のあまりの低さ身勝手さを露呈したし、政府も政府だった。私は、祖国である日本を愛しているが、このときだけは、この国を心から恥じた。そして、翌年以降に不作が続かなかったことで平成の米騒動は何もなかったかのように忘れ去られていった。
今回スーパーからコメが消えたことで、マスコミは過敏とも言える反応をして「令和の米騒動」と煽りまくったが、再び喉元過ぎれば熱さ忘れる、本当にアホ丸出しで、来年以降も続いていく可能性が高い異常気象が、米不足のさらなる深刻化を招くことに対して歴史に学ぼうとする報道はほぼない。しかし農林水産省によると、2024年7月時点での全国のコメの民間在庫量は156万トン。すでに統計史上過去最少の結果となっている。来年、再来年の状況次第では本当に大変なことになるだろう。
190年前には、1833年から1836年にかけて全国的な大飢饉「天保の大飢饉」が起こったが、幕府が備蓄米(囲米)を放出してもあっという間に底をついた。足掛け4年にわたった長期の大飢饉の間には餓死者が続出、日本の人口は3,198万人から3,073万人へとおよそ4%も減少している。今私が「餓死者が続出するぞ」などと言っても一笑に付されるだろうが、日本が一向にやめない「食品ロス」は、世界レベルで見ればすでにアフリカの子どもたち中心に膨大な餓死者を出している一因をなしているし、日本では独居老人とその困窮が急速に進んでおり、彼らの孤独死の死因が餓死となることも予測して然るべきであろう。
天保の大飢饉を忘れない滋賀県の農家さんや子どもたち
近江富士とも呼ばれる三上山のふもと、 杉木立に囲まれた一角に「天保義民碑」がある。

普段ひっそりとしているこの碑の前に、毎年 10 月になると多くの人が集まる。今から190 年も前に起きた 近江国(今の滋賀県)天保 一揆の指導者たち、なかでも土川平兵衛の尊い生き方をしのぶ天保義民祭が行われるからだ。また、この地の三上小学校の6年生は、総合的な学習の時間を通じて近江国天保一揆の指導者である土川平兵衛の生き方について深く学ぶという。今年も、令和6年10月15日に行われた天保義民祭には、6年生全27名と校長、担任が参列。義民碑の前で黙祷を捧げ、土川平兵衛をはじめ天保義民への思いを込めて献花台に菊花を供えた。
「土川平兵衛」は江戸末期天保の時代に尊い命をかけて幕府勘定方(見分役)の不正をただし、村人の生活を守り抜いた郷土の偉人であり、人道と正義を貫いた彼の生き方は三上の誇りである。こうした「人のあるべき姿」が、利己主義が行き着くところまで行った感のある現在において、子どもたちにどれほど刺さり、受け入れられ、受け継がれていくのか、それはわからない。しかし少なくとも、「歴史から学ぶ機会」「考える機会」が子どもたちに与えられていることだけは間違いない。
大人こそ、土川平兵衛に学ぶべき
むしろ私たち大人こそ、もう忘れ去れたかのような「人のために生きる」ことについて、実際にそうした生き方をした土川平兵衛のことぐらいは知った上で、自ら考える必要があるのではないか。天保一揆は、1842 年(天保 13 年)10 月、野洲郡(今の野洲市・守山市・近江八幡市の一部)、甲賀郡(今の甲賀市・湖南市)、 栗太郡(今の栗東市・草津市・大津市の一部)に住む農民たちが命をかけて起ちあがった大事件で、土川平兵衛はその指導者である。
江戸時代の三大飢饉の一つ「天保飢饉」が全国的に発生すると、すでに江戸幕府11代将軍 徳川家斉の贅沢な生活や外国船の警備で幕府の財政は逼迫していたが、いよいよ窮地に陥った。幕府は財政を再建するため、近江でも実際の長さより短い検地竿を用いるという言語道断の不正をもって検地のやり直しを行ない、苦しむ農民たちからさらに年貢を水増しして徴収しようとした。 この不正検地に対して農民たちは決死の覚悟で立ち上がったのである。指導者となった土川平兵衛のほか立ち上がった庄屋の中には、市原村の田島治兵衛、深川村の田中安右衛門、杉谷村の西浦九平衛らがいた。
天保13年(1842)10月14日未明、矢川寺(矢川神社)の鐘を合図に次々集まった数千人の農民は、検地奉行市野茂三郎がいる三上村(現・野洲町)を目指して、野洲川周辺の農民を集めながら進み、10月16日に三上村本陣に検地の中止を求めて殺到したが、その数は約4万人の規模に膨れ上がっていたという。この「天保一揆」の結果として「検地10万日の日延べ」が発せられた。 その後指導者達は捕えられて処刑されたが、このように「勝利を得た農民一揆」は、全国でも他に例がない。
自らの「保身」しか考えない権力者はいつの世も同じ
かたや、今なら「裏金問題」、少し前なら「モリカケ問題」、もっと遡って「リクルート事件」も、為政者たちの「不正」と「逃げる手段」はいつの世も変わらない。一揆勢の願いを聞き入れたことをことを当該検地の奉行や役人処分のせい(今なら秘書のせい)にしてトカゲの尻尾切り。一揆から間もない 10 月22日から23日にかけて平兵衛をはじめ約 130 人あまりの村人たちを捕らえて京都に送り、厳しい取調べを開始した。そして12 月 16 日、平兵衛たちは大津の役所に移されて連日の拷問にかけられる。とうに死罪を覚悟していた平兵衛は、「幕府や検地の見分役人こそが間違っている」との主張を曲げなかった。
拷問が続く中、捕らえられた村人たちは次々と命を落としていく。幕府は、生き残った一揆の指導者たちの内、平兵衛たち 11 人を極悪人として江戸に送った。罪人を運ぶ 11の 唐丸籠が役人たちに囲まれながら大津を出発したのは1843 年(天保 14 年)3月4日のこと。江戸への途中、3人が力つきて命を落とし、江戸に到着後も拷問は続いたが、平兵衛は最後の力を振り絞り、一貫して奉行以下見分役人の不正と村人の願いを訴えた。
江戸へ入って1か月あまり、1843 年(天保 14 年)4月 25 日、近江国天保一揆の最高指導者・土川平兵衛は、牢屋敷の中で 42 歳の生涯を閉じた。平兵衛とともに最期の時まで幕府に訴え続けた8人も、生きて再びふるさとの地を踏むことはなかった。しかし、長く続いた武士中心の世の中を終わらせるきっかけともなった天保一揆。それをわが命を捨てて指導した土川平兵衛は、江戸送りの唐丸籠の中から、正義を貫き、人のため、世の中のために生きぬいた義民の心を歌に残している。
「人のため 身は 罪咎に 近江路を別れて急ぐ 死出の旅立ち」
「本日ドクターイエローが通過します」で生き残ってきた
道の駅「アグリの郷 栗東」は、土川平兵衛の生誕地から野洲川を渡ればすぐ、彼が命をかけて守った農地の中にある。駅周辺は田畑が広がる長閑な風景。 ただ、緑が広がっているのは道の駅周辺の小さな空間のみ。道の駅の特徴は「すぐそばを新幹線が走ること」。

ということは、「見ると幸せになる」と言われるドクターイエローも運が良ければ見ることができるのだろう。
ドクターイエローの運転日、運行時間は非公表だったが、この道の駅は「独自のルート?」でそれを入手。どうかと思うが、ドクターイエロー運行日には店頭に「本日ドクターイエローが通過します」と看板を掲げた。 店内には「ドクターイエローコーナー」まで設け、レール型の「箸鉄」や「マグカップ」等を売り出し、アグリの郷という命名にある、農業のアピールよりもむしろドクターイエローの道の駅として有名になっていった。

そのドクターイエローは、ご存知の通り2027年をめどに引退することが決まっている。 引退後の線路などの検査は「のぞみ」などとして運行されている「N700S」という車両に専用機器を取り付けて行われドクターイエローに代わる検査の専用車両は投入しないということも。
今度は「賢い料金で買い物できます」で生き残りを図る
危機感を募らせたのか、今度は高速道路からの一時退出を可能とする「賢い料金」の対象となる道の駅としてのサービスをアピールし始めている。 「賢い料金」は、休憩施設が不足する高速道路で、休憩や給油の不便さを解消する目的で、道の駅をサービスエリアと同じように利用できるシステムの運用対象のみで発生する。全国20か所で実施されているこの「賢い料金」の対象施設は、近畿では3駅のみ、滋賀県ではここ「アグリの郷 栗東」だけだそうだ。
ETC2.0搭載の車なら、高速道路から退出して道の駅で買い物をしてまた乗りなおしても、高速道路から退出したことにならないので、料金がお得になります(1時間以内)ということを必死にアピールしているが、どこか本末転倒のような気がする。

土川平兵衛が命と引き換えに守った地元産の米、さらにはレタス、新たまねぎ、春キャベツなどが旬の食材です。期間限定で、金勝の走井地域でとれたよもぎを使ったよもぎもちや、たけのこも並んでいます。遠方からの観光客に、栗東の魅力やおいしいものを知ってもらうことが道の駅本来の役割。「賢い料金」は、そのための手段でしかないだろう。









名物は「割木の巻寿し」だが、もっと農産物のアピールを

道の駅「アグリの郷 栗東」は、一つの建物の中に物産館、農作物直売所、レストランが同居している。つまり全体としてさほどの規模がない。 駐車場は、規模なりの広さ。

トイレは、はっきり申し上げてあまり良くない。さほど大きくない施設にしても、便器数が少なすぎる。清掃の方は一生懸命やっておられるとは思うが、経年劣化もあるだろうし、使う方のマナーの問題もあって、少々匂いが気になった。早いうちになんとかしないと、新鮮な野菜を買い求めようとする人の気が萎えるかもしれない。



休憩スペースは、買い求めた商品を食べるための設置が多く、純粋な休憩スペースは少なめに感じた。




物産館では、総菜コーナーが元気。 「割木の巻寿し」「鯖高菜巻き」「焼き鯖寿司」「ぶっかけ寿司(焼き鯖しぐれ煮寿司)」等が販売されている。 中でも「割木の巻寿し」は、道の駅を代表する名物商品。 建物内にある工房で、従業員の手づくりしているから鮮度もバッチリだ。

この「割木の巻寿し」は味付きゴボウ、胡瓜、椎茸、卵焼き、高野豆腐、干瓢の6種類の具材が入った太巻き。 最大の特徴は味付きゴボウで、このゴボウの味と食感がウリになっている。

その他にも「近江生そば」「鮎の姿煮」「本モロコ甘露煮」「近江茶」などの特産品はどれも魅力的だ。


物産館の一角にはパン工房、豆腐工房、もち工房、ジェラード工房もある。
店舗の奥にあるパン工房では「備長炭食パン」「生クリーム食パン」、 豆腐工房では「まるっぽ豆腐」、 もち工房では「ぼた餅」。ジェラード工房の各種ジェラードも人気らしい。


新幹線を見ながらお食事を


レストランの「まるっぽ豆腐定食」は、 豆腐工房で作られた出来立ての豆腐を卵とじにした料理。 「割木の巻寿し+うどん/そばセット」など道の駅ならではのメニューだけでなく「和風ハンバーグ定食」「とんかつ定食」「エビフライカレー」などの定番メニューも豊富だ。