道の駅「やす」で触れた「夜須町」の過去・現在・未来(トイレ○仮眠△休憩◎景観○食事○設備○立地○) 

夜須町は高知市の西約20kmに位置する人口5,000人弱の小さな町で、高知県のほぼ中央に位置し、三方を山に囲まれて南北に細長い地形を形成し、町の中央を流れる夜須川流域に穀倉地帯が広がります。2006年3月に赤岡町、香我美町、野市町、吉川村と合併して香南市となりました。

尼ヶ森城は、この夜須町の夜須川上流(北北東)に向かって数キロ歩いた山の上に立つかなり規模の大きな山城です。上夜須の集落の東方にそびえる比高60mほどの山稜が尼ヶ森城の跡ですが、切岸などの加工が非常に鋭く構築され、所々に石積みも確認でき、見応えのある城跡が残っています。尼ヶ森城は、安芸氏の家臣であった黒岩越前守の城であった言われていますが定かではなく、永禄年間には長宗我部氏の持ち城となり、家臣の吉田重俊が入城したことは確かです。そして戦国期に、長宗我部氏の拠点城郭としてふさわしい城に仕上げるべく、大規模な改修が行われたのではないかと考えられています。これとは別に夜須川下流東岸、出口(いでぐち)の城山には、夜須行宗の居城であったとされる下夜須城址があります。

海沿いにある道の駅「やす」からも、それらのある山がすぐそばに見える。

ところでこの夜須町は、中世には京都の石清水八幡宮の夜須荘として発展した地域です。訪れる前に、まず、比較的わかっている頃からの歴史のおさらいをしてみました。

南国土佐には、流刑でもっとも重い罪科の者たちが流された

ちょうど1300年前の神亀元年(724)、日本に「流刑の制」が定められ、罪科の軽重によって配流に「遠流」「中流」「近流」という3段階が設定された。伊豆、安房、常陸、佐渡、隠岐とともに土佐は流刑としてはもっとも重い罪で流される遠流の国となり、以降たとえば応天門の変に連座した紀夏井、保元の乱の藤原師長、平治の乱の源希義、承久の乱の土御門上皇、元弘の乱の尊良親王(後醍醐天皇の皇子)などが土佐に流されている。

治承4年(1180)、土佐国は平清盛の弟の教盛の知行国となる。平頼盛(清盛の弟)の子の仲盛が土佐守となって、平家が土佐国を支配するようになった。ちなみに、土佐における源平の争乱は、介良(けら)荘に流された源希義(頼朝の同母弟)が平重盛の家人に討たれたことに端緒を発する。

安芸国、土佐国において展開された平氏と源氏の綱引き

源希義が流されていた介良荘は、長岡郡南部にある荘園で走湯山(そうとうざん)密巌院の所領だった。そして密巌院は、頼朝が挙兵前から帰依したとされる文養坊覚淵によって創建された走湯山(伊豆山神社の古名)の別当寺である。希義の遺骸を葬った介良の琳猷(りんゆう)も、頼朝にその報告に行った際、密巌院の住僧良覚を介して事情を説明している。(『吾妻鏡』文治元年3月27日条)

その後、源頼朝が平家討伐に乗り出すのだが、源有綱(源頼政の孫)軍の土佐入国の際には、夜須行家(のち夜須七郎行宗)が先導役を担っている。この、夜須七郎行宗は、石清水八幡宮領である夜須荘の荘官だった。夜須荘は、現在の香南市夜須町東南部の海岸から北に広がる荘園で、石清水八幡宮は源氏の氏神であったため、行宗は源氏に心を寄せたのであった。

平家の世が続いていた土佐国でも、夜須七郎行宗の行動以降、源氏に荷担するものが次第に多くなっていく。源平合戦における安芸国・土佐国の武士たちの行動は詳細は別の記事に詳しいので割愛するが、源平最終戦・壇ノ浦の戦いでは、夜須行宗とともに義経の軍に従っていた安芸郡司の出自をもつ安芸時家・実光(さねみつ)兄弟が、平教経(のりつね)と組討して海中に没している。

妬まれた夜須行宗と紀州のドンファンの元妻

文治3年(1187)3月10日、夜須行宗と梶原景時との間でいざこざが起こる。壇ノ浦合戦の際、平氏の家人岩国兼秀・兼末兄弟を生け捕りにしたことをもって、行宗が恩賞を申し出たところ、景時は「行宗は戦場にはいなかった。兼秀兄弟は自ら投降してきたのだ」と、横槍を入れたのだった。これに対して行宗は「壇ノ浦合戦の時は春日部兵衛尉と同じ船に乗っていた」と主張したため、頼朝は春日部を呼び出して尋問したところ、「たしかに行宗と同乗していた」と証言したので、行宗の言い分が認められる。嫉妬からか横槍を入れた梶原景時は、罰として「鎌倉中の道路を整備するよう」に頼朝から命じられたという。

この展開に、誰も見ていないことをいいことに一審で「無罪」となった紀州のドンファンの元妻がダブった。「春日部は見た」みたいに「家政婦は見た」的な証言なり物証なりが出てこない限り、高裁での審理も動かないのだろうか。もし出てきたら元妻を牢屋にぶち込むより「ドンファンの遺産で田辺市内の道路を整備するよう」命じたらいいなと思った。

その後の行宗だが、いざこざの翌年『吾妻鏡』3月15日条に、頼朝が鶴岡八幡宮の大般若供養に出席した際、有力御家人に続いて隋従した隋兵30人の顔ぶれが書かれているが、そこに夜須行宗の名がある。また、建久元年(1190)7月には、蓮池家綱・平田俊遠打倒やたびたびの戦功を認められ、頼朝から夜須荘の本領安堵(頼朝の御家人となり荘園の領有権を認められる)の下文(くだしぶみ)を与えられたことがわかっている。

戦国時代の夜須

その頃から300余年が経って戦国時代、乱世の世となったが、この夜須の地は長宗我部氏の重臣である吉田氏が支配していた。吉田氏支配を経て江戸時代になると、町を東西に抜ける土佐浜街道(土佐東街道)が土佐藩主山内公の参勤交代路となった頃から、この夜須もまた街道沿いに街村が徐々に形成されていったようである。

この時代になっても高知城下と室戸の間、遠く離れた道のりには良港がまったく無かったために、土佐藩家老の野中兼山によって夜須の海岸に「手結港」が建設された。

現在、JR夜須駅の南側には道の駅「やす」と隣接して広大な人工海水浴場があるが、をこから東へのびる臨港道路を行くと手結港がある。港には藩の米蔵や分一番所(藩支所)、遠見番所が設置され、代官1名、庄屋2名が置かれた。また街道近くには藩主の休憩所である御茶屋が設けられ、以降、夜須は宿場町の様相も呈していった。

海水浴場に隣接した道の駅「やす」

この夜須町の、街並み見物も、山川の下夜須城址も尼ケ森城に行くにも、海側の手結港を見るにもとても便利な場所に、道の駅「やす」はある。高知自動車道の南国ICから国道32号、途中から国道55号線を通って南東に約20キロ。 車窓に海岸が見えてくるともう道の駅「やす」に到着だ。

道の駅「やす」は、ここまで触れてこなかったが、高知県内で最大規模の海水浴場のヤ・シィパークに隣接した道の駅だ。 当然、夏の期間は多くの海水浴客が訪れて賑わうため、県内最大規模の道の駅となっている。

まず、駐車場からして相当にでかい。夏の混雑時にキャパオーバーするのかどうかは知らないが、それ以外の季節は駐車するのに問題はないと思われる。

施設は特に東西に広いので、車を停める場所によっては、トイレがかなり遠くなる。施設の中にもトイレはいくつかあるので問題はないのだが、差し迫っている時には焦るかもしれない。

休憩環境としては、夏の混雑時はわからないが、その他の季節はおそらく快適そのものだと思う。

情報館も、とても充実している。

生き延びてこそ、未来がある

南海トラフ地震に備えて、道の駅内には200メートル先の津波避難場所「津波避難タワー」への誘導がされていた。(↓下の写真をクリックすれば、この一帯の避難タワーの現在地がわかる)

道の駅「やす」から誘導されるタワーの所在地は、夜須町千切。ここは宝永地震の際の津波で「家悉く流る」と記録が残る場所だ。夜須川河口近くの海岸堤防背面の低地に建てられているので、津波到来までの逃げられる時間によってはここに逃げ込むしかない場合もあるだろうが、時間があるなら可能な限り高いところに逃げてほしいと思う。私は夜須八幡宮から2kmほど北の夜須川東岸から標高75mの独立峰のてっぺんにある尼ケ森城跡まで登ってみて、「ここまで逃げてきたら大丈夫か」と思ったが。もちろんそんないい加減なことは参考にすべきではなく、目指すべきは自治体指定の避難場所。ここに住んでいない私などは、次に起こる南海トラフ地震の規模が大きなものではなく、津波が起こったとしても数メートルの高さに収まるよう、この町の未来が守られるよう、祈るしかない。

土佐の特産品でいっぱいの物産館

道の駅「やす」には比較的規模の大きな物産館、農作物直売所、海産物直売所があり、食事を楽しむ施設がいくつもある。

まず物産館。ここでは土佐の特産品が数多く販売されている。私が惹かれたのは、土佐の海産物の加工品では「鯨の大和煮」「鯨カレー」「カツオ生節」。鯨は魚ではないが、海産物には違いないだろう。土佐地方でしか食べられない「土佐あかうし」を使ったカレーにも興味を持った。そして高知と言えば坂本龍馬。饅頭菓子の「龍馬が行く」や坂本龍馬のイラスト入りTシャツなどが多数販売されている。

アルコール類も、土佐の地酒を中心に、品ぞろえが豊富だ。

土佐の地酒としては、「龍馬」「土佐鶴」、焼酎ではなぜか漢字が違って「竜馬」「仙頭」。

直売所では、野菜と海産物を販売している。 。やすらぎという「市」の名前にはどうやら「夜須」がかかっているようだ。

野菜はほぼ地産の旧夜須町産。地元の野菜と果物には相当自信があるようで、野菜とフルーツのジュースバーもある。

海産物は、ちりめんのパワーが炸裂していた。

ほかにはジャコ、うるめ、アジ、カマス干物、シジミ等が並んでいた。

食事コーナーは、夏にはもっと増えるのかも

食事を提供する施設も充実。 いくつもあった。

カフェ、そしてインド料理店の「Masala」、アイスバーの店「マナマナ」等々。

物産館横には軽食を提供するコーナーがあるし、弁当や惣菜類の販売も充実しているので、車の中での安上がりの昼食も可能だ。