道の駅「くつき新本陣」のランチバイキングがあまりにすごい!(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事◎設備△立地△)

京都市下京区から福井県若狭町までを結ぶ国道367号線の、ちょうど中間点付近、滋賀県湖西の山中に、道の駅 「くつき新本陣」があります。 正確には、滋賀県北西部の旧朽木村(現高島市朽木)。 近隣に高速道路は走っていません。しかし高規格道路の琵琶湖西縦貫道路の鴨ランプからは県道23号線を通って北西に17kmの距離なので、特段アクセスが不便という場所ではありません。

とはいえ、相当の田舎です。農作物直売所を兼ねた物産館、レストランから成る普通の道の駅を、わざわざ目的地にする人はそういないでしょう。と、思いきや、ここはお昼時には大賑わいとなります。目的は、本駅の「食」の施設「お食事処 さと」のランチバイキング。メニューは実に潔く、60分間の食べ放題一本です。

そのランチバイキングが超お得で、リピーター続出となっているのです。提供される料理は、さつまいも天ぷら、かき揚げ。肉団子の甘酢、ぶり大根、竹の子煮、ぜんまい煮 サラダ、和え物、塩サバ切り身など地元食材を活かした田舎料理が中心。ご当地料理の焼き鯖も並ぶこともあります。 さらに味噌汁、カレーもあり、食後のデザートやコーヒーも完璧なのです。これで1200円、JAF会員証を見せればたった1100円なのです。

そのバイキングの内容を写真で

これらを好きなだけいただいて、食後のコーヒーも美味しくて。

しかも、こんな景色を眺めながらいただけて。

リピーターが多いのは当然だろう。私も、旅の途中にまた必ず寄ると思う、必ずお昼時に!

朽木一族の拠点、朽木本陣があった町

旧朽木村は鎌倉時代から明治維新までの間、高島郡の領主の朽木一族が拠点とした朽木本陣があった町である。朽木家は室町幕府将軍の奉公衆を務めた一族で、足利義昭と織田信長に従って戦国時代を乗り越えた。信長の死後は豊臣秀吉に従い、「関ヶ原の戦い」では西軍に属していたが、家康との密約から東軍に寝返って、大谷吉継の軍勢を撃破した、世渡り上手の一族である。

その後徳川家のもとでは所領が朽木元綱の3人の息子に分割されたことから旗本となった。長男と次男の家は幕末まで旗本として続いたが、長男の子の高通は京極家の養子として丹後国峰山藩の大名になっている。3男は3代将軍・家光の小姓組番頭を務め、下野国鹿沼藩2万5千石から常陸国土浦藩3万石へ。その後、奏者番を経て六人衆に選任されている。

かつて「朽木庄」と呼ばれた朽木は、滋賀県最西端に位置し、西は京都府、北は福井県に接する。朽木氏は鎌倉時代から戦国時代を経て江戸時代へ、実に長くこの朽木庄を支配していた。そして、それは実に巧みな「保身術」による。どんな保身だったか、ざっと振り返ってみよう。まず、京都を逐われた足利将軍を迎えている。1570年、越前朝倉攻めで妹婿・浅井長政の裏切りにあった織田信長は朽木経由で京都へ撤退したが、これを手厚く迎えたのも朽木氏だった。そして本能寺の変後は秀吉にすり寄って、関ヶ原の戦いでは途中からなんと東軍に寝返っている。その巧みな保身術で、朽木一族は旗本・大名として室町末期から明治維新まで存続していくのだ。う〜〜ん、しぶとい!

こうして朽木氏が戦国時代を乗り越えて江戸時代を生き抜いたここ 朽木は、標高700m~1000mの山々に囲まれた緑豊かな清流の里であり、日本海の若狭と京都の都を結ぶ重要な交通路でもあった。この道が「鯖の道」と呼ばれるようになったのは、若狭で大量の鯖が獲れるようになった江戸時代の後期である。

鯖街道らしい品揃え

あらためてだが、本駅は国道367号線沿いある。

そしてこの道こそが福井県の小浜湾から京都まで、鯖などの海産物を運ぶ道路、いわゆる鯖街道と呼ばれた道だ。 このため、物産館においても鯖を使った商品が特産品となっている。 朽木村に店を構える鯖寿司の老舗「かねはち」の「焼き鯖寿司」 「鯖寿司」「焼きさばそうめん」がその代表格だ。

農作物直売コーナーでは約20種類の野菜・果物や米が販売されている。

日曜日の朝だけの開催だが、朝市の場でも地産の新鮮農作物が販売される。

駐車場、トイレ、休憩環境もバッチリ

昼時にお腹が空いていれば、ここは最高の道の駅である。